ch.6 龍挑みの儀

 沖合いに、真球を縦に潰したような雲がぽつんと浮かんでいる。

 それは不自然なほど低い位置にあって、しかも絶え間なく形を変えているのが見て取れた。枝珊瑚状の突起がぽっと生じたりもする。

「あれが龍の棲み処」

「ああ」

「気に食わないのね?」

「ドク、今ばっかりはめもとかいうのはやめてくれよ。嫌な予感がしやがる」

「私もよ。だからちゃんと舵の座についてる」

「おお流石、俺が認めた成人アカトだな」

 トゥトゥは微かに背後を振り向いて笑った。

 その笑顔にはいつものように気力にあふれた輝きが無く、アムは石を飲み込んだ気分になる。

 トゥトゥの<稲妻号>とカヌー五隻分ほどの間を開けてギュギの首座舟が配置についた。その前に補佐舟の隊列が弧を描く。

 首座舟から赤の旗が上がった。準備完了の合図である。

 今度はトゥトゥが貝笛を吹きセムタム側の用意が整ったことを告げると、どこか遠く、見えざる領域から何者かの高く澄んだ鳴き声が帰ってきた。

 これは龍側の審判役からの返答なのだろう。そういうものがあるとアムは知識としてはわかっていたが、実際に聞くのは初めてである。

 不思議だった。

 本当に龍はルールを守るのだということが。

 貝笛と咆哮の応酬のあと、海は静まり返った。雲の上で、海面下で、沢山の生き物が息を飲んでこの激突を見守っている。そんな気がした。

 トゥトゥがぐっと身を乗り出す。

 頭上の雲がさらにせわしなく動きを加速させていた。

 いよいよ主役のお出ましである。

 と――。

「は?」

 続いて展開した光景に、アムは思わず呆気に取られて言う。

 雲の中から今回の儀式で挑戦する予定の飛龍の脚が出た。続いて頭部。

 地球産オウムに似た口ばしを持ち、鱗はメタリックグリーン。やや小ぶりな二角が額から生え、襟巻のような飾りのついた後頭部が特徴的。

 すべて、アムが事前に聞いた情報と一致している。

 ただ違うのは明らかにその龍が死んでいるということだった。

 力なく垂れた尾羽、閉じられた目。くちばしの先から舌がだらりと伸びて風に揺れている。

「どうして?」

「ドク、前進するぞ。あいつらを退かせる!」

 トゥトゥが帆綱を引く。

 その時、思いもよらないほどの強風が吹き下ろしてきた。

 こちらの慌てぶりを笑うかのような風。

「くそっ、たれ」

 剛力無双と名高いトゥトゥが、綱を持ったままずるりと後ずさった。

 カヌーの舳先はいやいやするように波の上から跳ね上がる。アムは必死に船体にしがみついていることしかできなかったが、目だけは前を向いていた。本当のところを言ってしまうならば、風が強すぎて首を動かすことが出来なかったのである。

 お陰で、真の主役が登場するシーンを見逃すことは避けられた。

 雲が内側から弾けていく。緑色の龍の首に深々と牙を突き立てたもう一匹の龍が、その中にいた。

 全体像はピューマ(ご存じない方は<古代地球・ネコ科動物・ピューマ>で検索)に近い。

 毛並みは茶色で日に当たると鈍い黄金色の輝きを放つ。毛質は柔らかく見えるが、恐らく鱗の変質したものが逆立っているだけではないかとアムは推測した。

 逞しい前脚と後脚で器用に獲物――ギュギたちが撃つ予定だった龍を抱え込んでいる。

 その背中から生える翼は二対四枚、やや後翼が小さく、形状は鳥類型。

 尾は二股に分かれた飾り羽のようで、それをさっさっと打ち振るごとに雲が払われていった。

 仮に<ネコ>と呼ぼう。

 風が吹いた時と同じように唐突に止む。

 見渡せば船団は強風に煽られて散り散りに乱れていた。ギュギのカヌーはなし崩しに体勢を崩し、トゥトゥのカヌーの間近まで後退している。

 ネコが緑色の龍の首から顔を上げた。口の周りは真っ赤である。

 アムはぞっとした。

 緑色の龍よりも一回り大きな龍。

 アムなど一飲みにされてなお物足りないスナックのようなものだろう。

 大きく直立した耳がぴくぴくと左右に動き、視線がギュギにぴたりと据えられた。

「ギューナイ・フォルカイ。さあ、ぬしの求めに応じたぞ。出すものを出してもらおうか? うん?」

「約束が違う」

 アムは出会ってから初めてギュギの取り乱した声を聞いたように思う。

 <稲妻号>の斜め前で危なっかしく揺れている首座舟の上、ギュギは拳を握って立っていた。

「はっはっはっは」

 ネコが笑う。

 その声は遠雷を喉でごろごろ言わせているような響きを伴った。

「あーっはっはっはっはっ」

「僕はそいつを喰い殺せなんて頼んでいないだろう! 僕が祈ったのは、ただ――」

「雌を見返してやりたい、僕が如何に強いのかを見せつけたい、そのために命を賭けてこの儀に挑むが失敗は出来ない。そういう思いを込めて祈ったのであっただろう? であるが故に聞き届けた。お前の願いは届き、かの龍よりも強き龍が舞い降りて弑し、そしてお前と喋っている。光栄に思わぬか」

 ネコはぽいっと緑色の龍を投げる。

「さあくれてやる」

 高々と水しぶきが上がり、ギュギの首座舟を高波が洗った。

 その余波は斜め後ろの<稲妻号>にも届く。

 トゥトゥの舌打ちが聞こえた。

 そろりと腰に佩いた黄金の剣に手を伸ばす。全ての飛龍の王、原始より生き続ける神の鱗から成る刃は、あらゆる飛龍から害されないという約定を示す一振りだ。

 しかしその剣が護るのは持ち主だけである。

 トゥトゥは、自分の保身だけを考えるような狭量なセムタムではない。

「違う」

 ギュギが叫ぶ。

「力を貸してほしいと願っただけだ」

 ネコの目が細くなり、口角がつり上がる。

 にやにやとチェシャ猫めいた笑いが浮かんだ。

「それは我が眷属の耳を甘く見過ぎているというものであろうなあ。お前の心の奥底に澱んだものくらい、祝詞の合間にもよう伝わってくるわ。雌をめとりたいのであろ、馬鹿にされて殺したいほど悔しいのであろ。それで儀式でかのものが不具になったとしても、お前をそれで見直すならよいと思っていた」

 ギュギは棒立ちになっている。

 その体が震えているのがアムの目にも見えた。

「それとも何か? 今から儂と闘うか? よいぞよいぞ、謹んで受けよう」

 ネコはひらりと体をくねらせると、翼をはためかせてギュギのカヌーの間近に舞い降りる。緑色の龍を踏んづけ足場にしていた。

 ネコの体格に誰もが圧倒されてしまっている。カヌーの全長よりネコの方が大きい。尾の飾り羽を取り除いたとしてもそれは変わらない。

 その尾は地球産のイエネコのようにくねくねと揺れているが、さほど激しいとも思われぬその動きに合わせてひゅんひゅんと風を切る音がする。セムタムやカヌーに向かって振りぬいたらどうなるのか、アムは想像したくもなかった。

 ネコが勿体ぶって前脚をカヌーの舳先にかけると、首座舟はあっけなく前傾する。もう少し力をかけたらどぼどぼと海水がなだれ込んでくるだろう。

「ギューナイ・フォルカイよ。ほれ、今が撃ち時ではないのか。私の牙とどちらが速いか勝負しようか。それとも、ああ、そうか! わかったぞ、すまなかった、雌を不具にするのが先――」

 その時、アムは信じられないものを見た。

 誰が見たって信じられなかったと思う。

 いつの間にか漕ぎよっていた補佐舟から人影が躍り出たのだ。

 跳ぶ。

「パチャラ!」

 アムの叫びは、ひょっとして結果として勝敗を分ける鍵だったかもしれない。

 大きく見開かれたネコの目に、全体重をかけたパチャラの銛が深々と突き立った。

「ぎいあ、ああああああ!」

 絶叫したネコは異物を引き抜かんと滅茶苦茶に前脚を振り回す。

 パチャラはその前に、ネコとぶつかった衝撃で海に落ちていた。

 ギュギのカヌーが前脚にはねられて転覆する。叩き割られた帆柱が<稲妻号>の船体にぶつかり、凄まじい音を立てた。

「冗談じゃねえ」

 トゥトゥが<稲妻号>の中を飛ぶように走る。

 カヌーは急速に回頭を開始した。

「待ってトゥトゥ、パチャラが。ギュギも」

 激痛にあえぎ海面すれすれでのたうち回るネコの腹の下にぷかりとパチャラの頭が見え、瞬間的に息継ぎするとたちまち没する。

 ギュギは引きちぎられた船体にほうほうの体でしがみついていた。

「見捨てるなんて言わないで」

「――黙らねえか!」

 アムは息を飲む。怒鳴られたのは、いつぶりだろう。

「黙れドク。今回ばかりは駄目だ」

「どうして」

「それが<龍挑みの儀>で、あいつらの決断だからだよ。あんた死にたいのか。俺は嫌だね」

 影が差した。ネコの大きな顔が<稲妻号>の直上にあった。

「皆殺し! 皆殺し!」

「くそ」

 ネコはもう挑戦者も審判も無差別にセムタムを殺したいというのか。

 アムは舵に取りつく。

 トゥトゥが腰に佩いた黄金の剣に手を伸ばす。

 それを抜く前に、横合いから新たな銛が飛んだ。

 銛は急降下のため大きく縦に伸びきっていたネコの翼の付け根に突き立つ。咄嗟に羽ばたいて上昇しようとしたネコの翼から、ごりごりと鈍い音がした。続いて破裂音。翼が折れた。

 空中でもんどりうったネコが背中から海に落ちる。その後を追って、流木と重りが吹っ飛んでいった。

 驚いて振り向くと腹を見せて浮いている首座舟の上で、パチャラが仁王立ちしている。

 投げたのだ。首座の、必殺の銛を。

「おう」

 と、流石に驚いた様子でトゥトゥが言った。

「やるじゃねえか」

 パチャラはぺこりと頭を下げる。

 その直後、海が爆発した。

 突発的に九十度近く傾いだ<稲妻号>はアウトリガーをスキー代わりにコンマ何秒か海を滑り、そこから一回転。アムはただ叫んでいたことしか覚えていないが、気づくとトゥトゥに腕を握られていた。握られていないほうの肘に痛みが走る。

「痛っ、う、ありがとうトゥトゥ。いったい……」

「どういたしまして、痣増やしのドク。あいつ、やぶれかぶれもいいところだぜ。海ん中で雷を呼んだ。で、死ぬかな」

 ネコは顔だけ出して海に浮かんでいた。

 その口から血が溢れている。

「死ぬって」

「あいつら臓物で雷作ってやがるってのは知ってるだろ。海水飲んで腹あ掻き回すと臓物ごと破裂するんだな。誰でも良いからセムタムを焼きてえってのは、そんだけ悔しかったんだろうさ。たった二本ぽっちの銛で海に叩き落されたのが。そら」

 トゥトゥは顎で示した方を見ると、パチャラが別の補佐舟に拾われてネコのもとへ向かおうとしているところだった。

 ネコの目は視線だけでセムタムを根絶やしにしそうな鋭さでそちらを凝視していた。

 巨大な前脚が上がってばしっと海面を叩く。飛沫がパチャラの乗るカヌーにかかったが、舳先に立つパチャラはびくともしない。

「許さぬ。許さぬ。許さぬ」

 ふうーっ、ふうーっ、とネコは荒い息を吐く。

 補佐舟は堕ちた飛龍から一艘分の間を取って静止した。

「舐めるなセムタムよ。今、そこに行って齧り殺してやるぞ。ギューナイの雌!」

 前脚がまた海面を掻いた。

 パチャラは大きく胸を膨らませて、

「我が名はパチャラ、ギューナイの雌ではない!」

 それは、思わず背筋を正さねばならぬと思うような声だった。

「私は私だ! 舐めるな飛龍! ギューナイとお前の約定など知ったことか!」

 ネコの目が真ん丸に見開かれる。

 その鼻がひくひく動き、信じられない返答を聞いた耳は落ち着きなく左右に振れていた。

「舐めるな、だと」

「私はセムタムであり成人である、遠き龍の兄弟よ。私は取引の材料にされるモノではない。故に侮辱に対しては――」

 パチャラが手に持った銛を構える。

「撃ち応える!」

 その体が低くたわんだ。

 ネコは最後の一撃を迎え撃たんと毛を逆立てた。

 不意にすべての音が止まる。

 審判役になったつもりの波がこつんとカヌーの横合いを打ち、それを合図にパチャラが跳んだ。

 ネコの前脚が海を割って振り下ろされ、それがパチャラと交錯する寸前、

「あいや、そこまで!」

 突如として響き渡った声と共に、第三の龍が海面を突き割ったのである。

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