第8話

 バランスを崩し、彼女はそのまま前のめりに倒れていく。僕は咄嗟に腕を伸ばした。

 間に合え……!

 それこそ走り出すような勢いで。ギリギリのところで何とか手首を掴むことに成功した僕は、そのまま全身を回転させる動きに合わせて、彼女の身体を全力で引き寄せた。

 しかしどうやら……少々角度が付きすぎたらしい。体勢を整えきれぬまま、ぐらりと視界が傾いたかと思えば。そのまま二人して扉をすり抜け、僕の後頭部に衝撃が走る。

「い、った……!」

 床に倒れた。そう理解した直後、仰向けになった華奢な身体が僕の上に降ってくる。転がって避けるわけにもいかず、僕はそのまま彼女のクッションとして自らを犠牲にするしかなかった。

 両腕で彼女を受け止める。腹部が圧迫されて変な声が漏れた。が、ひとまず目的は達成したので良しとしよう。結果として背後から抱きしめるような形になってしまったが……致し方ない不可抗力だ。

「ん……つぅ」

 やけに艶めかしい呻き声と共に、彼女は僕の腕の中で恥ずかしそうに身じろぎをする。それから寝返りを打つように身体を動かして、僕の方を向いた。

 近い。

「……大丈夫?」

「……はい」

 ……ここで一つ、新たな発見をした。生きている人と同じで、幽霊にも匂いがあったのだ。

 視線と視線が絡み合う。互いの吐息が、互いの前髪を揺らす。照れ臭げに微笑む彼女からは……とてつもなくいい香りがした。

「優くんの、おかげで」

 囁くような声が耳元で放たれて。瞬間、僕の胸の奥で、心臓がドクリと撥ねた。

 初めは小さく、ゆっくりと。次第に大きく、テンポは上がって。胸元の柔らかな感触と垂れ下がる清流のような黒髪に、僕は目を白黒させた。

 何だこれ。

 何なんだこれ……!

 動揺が、ますます鼓動を加速させていく。気付けばそれは太鼓のようになって、爆発一歩手前のような強さで、これ以上ない程にハイペースなリズムを刻んでいた。

 駄目だ。このままでは思考が変な方向にいってしまう。

 危機感を覚えた僕は、持ちうる理性を総動員して平静を装うと、促すようにして彼女を横へと降ろした。

「起きていただけますか? レディ」

 何故か言葉が敬語になる。多分、カタコトにもなっている。気にしてはいけない。

「す、すいません」

「うん」

「掴んでくれてありがとうございます」

「うん」

「優くんは大丈夫ですか?」

「大丈夫」

 大丈夫じゃない。主に心が。心臓が今なおバクバク鳴っている。

 ともすればあらぬ劣情を抱きそうだ。僕は彼女から目線を逸らすと、立ち上がって意識を別の方向に向けた。

 僕たちが倒れ込んだそこは、何の変哲もないアパートの一室。真っ暗闇だが、夜目の利く僕たちには関係無いことだ。玄関から伸びる廊下の先、半開きになった扉からリビングが覗き見えている。

「静かだね」

「……優くん、ちょっと」

「何? これは……皿、か」

 キッチンの水切り台に、茶碗やコップ、大小様々の器が並んでいた。よく見れば箸やフォークまで。紛れもない自炊の跡だった。

 そのまま奥へ踏み込もうとしたところで、唐突に身体が後ろへと引かれる。振り向けば、彼女が僕の服の裾を掴んでいた。

「あの、やっぱり止めませんか」

「ここまで来たのに?」

「……上手くは言えないですけど、嫌な予感がするんです。それにもし、ここが他人の家だったら」

「ズケズケと上がり込むのは良くないかもね。だけど僕たち、こうして中には入れているじゃない? 自宅じゃなくても何かしらの縁があるんじゃないかなって、僕は思う」

「……そう、ですよね」

「大丈夫。何かあったら何とかするよ」

 そう言いつつも、僕の思考は楽観的なものだった。得られる情報から考えるに、最悪の場合でも、先に進んで損をすることはないだろう。加えて僕たちには幽霊の身体というアドバンテージがある。一般人から見えないことは昨夜と今夜とで証明済み。トラブルの心配は皆無だ。

 それでも念のため彼女を背中に庇いながら、僕たちは扉の隙間からリビングへと身を滑り込ませる。そこへふわりと、彼女の残り香を鼻孔から消し去るかのように、予想外の匂いが漂ってきた。

 立ち止まり、僕は眉をひそめる。

 これは……男子の匂いだ。単なる汗のそれとはまた違う、僕と同年代の男から放たれる独特の体臭。部屋全体にうっすらと染み付いている。すなわちここは……。

「君の部屋じゃ……ないみたいだ」

 室内を見渡す。内装は普通。一人暮らしにしては片付いている方だろうか。左には机とテレビが置かれ。反対側のベッドでは……人影が二つ、抱き合って眠っているようだ。

 遠目で見るに、男女。どうやら“そういう”関係らしい。彼氏の家へ泊まりに来ている、そんな所か。

 こちらの存在は感知出来ない筈。けれどそれでも何かを感じ取ったのか、タオルケットの下で男の方がモゾモゾと身体を動かす。僕は反射的に息を止め、彼が落ち着くのを待った。

 幸いにも寝返りを打っただけだったらしく、まもなく男は夢の世界へと戻っていく。

 これは……一体どういうことだろう。

 彼女が元々住んでいた部屋に、新しい住人が越してきたのか。

「気付いたことはある?」

 それとも偶然中に入れただけで、実際は何の関係もない場所だったのか。

「それか、思い出してきたこととか。些細なことでもいいから」

 どちらにせよ、僕たち以外の人間がいる以上、あまり長居はしたくない。ましてや彼らはカップルだ。他人の営みの跡を見るのは……正直、ものすごく気まずいものがある。

「ねぇ、何か言ってよ――」

 後ろの彼女に呼び掛ける。けれど応答は無く。不思議に感じて振り向いた僕は、彼女の異様な様子に思いがけず怯んでしまうこととなった。

「……うそ」

 ボソリと呟く。彼女の瞳は目一杯に見開かれ、寝台の二人を凝視している。

 そのまま両手を力なく垂らしたかと思えば、彼女はいきなり床の上に膝を付いた。感情を無くしたかのような、虚ろな表情。ついさっきまでの彼女からは想像もつかない。こちらの背筋まで寒くなる程だ。

 おそるおそる、彼女に声を掛ける。

「もしもし?」

「……だ」

「おーい、大丈夫?」

「……いやだ」

「ねぇ。僕の声聞こえてる?」

「やだ。やだよ。なんで、なんで、どうして」

「ねぇ。ねぇってば! どうしたのさ突然!」

 肩を掴んで揺さぶるも、効果はほとんど無いようだった。彼女の目線はベッドから離れない。終いには自らの頭に爪を立てて、無茶苦茶に髪を掻き乱し始めた。

「ああ、あああぁあぁ……!」

 明らかに、パニックを起こしているときのそれだった。

 これまで直面したことのない状況に、僕の頭も混乱してしまう。どうする、どうすればいい? このまま正気を取り戻すまで呼び続けるか? ……いや、それじゃ駄目だ。彼女がこうなったのはこの部屋に入ってから。正確にはあのカップルを見てからだ。それならまずは、彼女をこの場所から遠ざけないと……。

「……っ、ごめん」

 逡巡の後、僕は彼女の腰に手を回す。もう片方を太ももの近くへ。そのまま肩で彼女の身体を倒しながら、下半身に力を入れて僕は立ち上がる。いわゆるお姫様抱っこ。おんぶよりは安定しそうだったので、多少、強引にさせてもらった。

 恥ずかしい。そんなことを言う余裕はどこにも無い。ありもしない人目を気にしてどうするというのだ。

 しかしそれでもスムーズにはいかず。主に僕の力が無いせいで、僕はふらつき、よろめき、手足をあちこちにぶつけながら階下へと降りていく羽目になった。

 もう少しだけ、普段から身体を鍛えておくべきだったかもしれない。



 手頃なベンチに彼女を座らせ、僕も並んで腰を降ろす。ここまで来る間に、彼女の発狂自体は収まっていた。だが打ちひしがれた精神の回復には時間が必要らしく、彼女は斜め下の地面に目を向けたまま沈黙を保っている。

 ここは……あえて何も訊くまい。おそらくだが、彼女はあの男に対して不幸な思い出があったのだろう。語ってくれるなら、聞く。まだ語れないなら、待つ。彼女が打ち明けたくないのなら、僕はその意思を尊重しよう。ただ寄り添うだけだ。

 ……そうして、十分くらいが過ぎた頃だろうか。

「恋人の家なんです。元、ですけど」

 正気を取り戻した彼女の話は、そんな哀しげな告白で始まった。

「全部は思い出してません。だけど多分、三ヶ月ぐらいはそんな関係でした。 付き合おう、って彼の方から言ってくれて。単純な私はすごく舞い上がってた。すごく幸せだった。でも」

「それが、途中で変わったと」

 彼女が頷く。膝の上で拳を握りしめ、スカートには皺が出来ていた。

「……“他に好きな人が出来た”」

 思わず息を飲む。

「突然、そう切り出されたんです」

 彼女の声にはため息が混じっていた。恋人から唐突に棄てられた、当時の感情は察するに余りある。彼女の想いが強いほど、悲しみも強くなると言うのだから、本当にこの世の中は理不尽だ。ましてやその彼が、別の相手と一夜を共にしているのを見たら。取り乱さずにいられる方がおかしい。

「言い返そうとしましたよ。待って、って言おうとしましたよ。でも無理だった。自分の耳が信じられなくて、呆気にとられている内に、彼はそそくさと私の前から歩き去って行った」

 俯く彼女の瞳から、水滴が頬を伝って降りていく。けれど、それが地面まで到達することはなかった。僕が見ている前で、雫は彼女から離れるやいなや、まるで最初から存在していなかったかのように空気中に溶けて消える。

 しゃくり上げる背中の上へ、少し迷った後で、僕はそっと手を乗せた。

「こんなの、理不尽じゃないですか」

「……うん」

「好きだったんです。私、好きだったんですよ、彼のこと」

「うん。君の話し振りを聞いてれば、分かる」

「なのに。なのになんで……!」

 そして、叫び出す。

「なんでですかっ! 私は何もしてない。裏切ったりなんてしてない! 浮気も、他の男の子と仲良くもしなかった! あのままずっと、いつまでも彼の傍に居たかったのに!」

 きっと、明確な理由なんてなかったのだろう。彼女と彼とでは、交際に対する考え方が決定的に違い、別れのタイミングになってそれが露出したのだと思う。

 だが、納得出来るかどうかはまた別の話だ。

「……無責任なものだね。自分から好きだと言っておいてさ」

「……」

「あの男と君が一緒にいるのを、この目で実際に見た訳じゃないけど。それでも話を聞く限り、君は全然悪くないと思うよ」

 どれほどの慰めになるだろうか。少しくらいは気が楽になればいい。そんなことを考えていると、不意に彼女が拳を解く。そのまま上体を反らして夜空を仰いだ。

「……ありがとうございます。励ましてくれて」

「無理しないでね。して欲しくもない」

「努力します」

「約束の方がいいな」

 他人が苦しむ様を見るのは、嫌いだ。こっちまで辛くなってくるし、場合によっては罪悪感に襲われたりもする。逆境に抗う姿は美しいと言うけれど、それはあくまでフィクションでの話。同じ論理を現実にまで持ち込まれてはたまったものじゃない。

 僕が添えていた手を降ろせば、彼女は名残惜しげにそれを目で追ってから、そのまま視線を持ち上げて僕の顔を見詰めてくる。

 真剣な面持ちに自然と背筋が伸びる。彼女がこれから何を言おうとしているか、僕は直感的に悟ってしまった。

「……分かりました」

「……何が?」

「こんなふうになった理由。確信は無いんですけど、多分、これだと思います」

 期待と覚悟と、その他にも色々な感情を胸に抱きながら、僕はその続きを待つ。

「私の未練は愛されること。もう一度、好きな誰かから大切に想われることだったんです」

 放たれた彼女の言葉に、僕は思わず目を見開いた。

 彼女のことを知っているのは僕だけ。そして彼女が知っているのも、元彼を除けば僕だけだ。


 つまり現段階で彼女の願いを叶えられそうなのは……この僕、早乙女優しか存在しないのである。

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