第40話:ロング・グッドバイ・トゥ・ハー

「……ってなわけ。手遅れかもって不安だったけど、間に合ったみたいで良かったよ」


 手頃な倒木に二人して腰掛けて、僕は黒羽に事の次第を語り終えた。

 神様になった感想だが、意外と万能でもないんだなという感じである。僕がまだ慣れていないだけかもしれないが、思い描いただけで天地を作り替えてしまうような、圧倒的なパワーは流石に行使出来ない。けれどそれでも物理的な力は強くなったし、人間のときよりも格段に素早く動ける。やり方さえ学べれば、他にも様々なことが可能になるだろう。

 なお、ありがたいことに外見はほとんど変わらなかった。唯一、左目が黄色く変色してしまったが、これだけで済んでホッとしているのが本心だ。


「そんなことが……あったんだな」


 長い沈黙を挟んだあと、愕然とした様子で黒羽が俯く。その肩は微かに震えていた。


「……驚いた?」

「つまり汝は、私のために人間を止めたっていうのか」

「有り体に言えばね」

「どうして……どうしてそんなことしたんだ! 汝にも家族や友人がいるだろう。汝がしたことは、その人たちと袂を分かつって意味なんだぞ! なのにどうして……」

「どうして、って。そんなの、君が言えた台詞じゃないだろ」


 黒羽を見る。その頬にそっと手を添えて、こちらを向くように促した。


「自分の過去を振り返ってみな? 似たようなことしたくせに」

「っ!」


 言葉を詰まらせる黒羽。当然だ。僕のために我が身を変化させた相手に、どうして、なんて言われる筋合いはない。

 それでも納得しないのなら、僕としてはまあ、思いの丈を赤裸々にぶつけるのもやぶさかではない。けれどわざわざ、そんなことする意味もないだろう。


「……馬鹿だな」


 やがて黒羽がポツリと呟く。心なしか潤んだ声。泣き笑い。隠してるつもりでも隠せてなかった。


「馬鹿だな、汝は……!」


 くしゃっと歪んだその顔に、僕は堪らずドキリとなった。

 辺りの空気が密度を増したような。しかも黒羽はどことなく上目遣いなような。彼女に触れた指の先が、ひどく敏感になっている。……抱き締めようか、どうしようか。迷った末に動けないのがいつもの僕。そうして、繊細なバランスの上に成り立っていた均衡は――予兆もなく、横から割り込んできた声によって破られた。


「その夫婦漫才はいつまで続きますか?」


 木崎が目を覚ましていたのだ。咄嗟に黒羽を庇うように立ち上がった僕を、木崎は縛られた状態のまま、うえぇ、と舌を出して挑発する。暴れ出す気配は……ない。


「……いつから?」

「楓くんが苦しみだした辺りから。残念です、そのまま死んじゃえばよかったのに」

「盗み聞きとは趣味が悪い」

「あーらそうですか。褒め言葉ですね」

「……耳の穴を掃除したら?」

「だったらこの蔦、解いてくれます? 両手が使えなきゃ何にも出来なくって」


 嫌みったらしく肩を竦めた仕草に、今更ながらため息が漏れる。友人として付き合ってた頃には分からなかったが、こんな性格してたのか……。

 彼女の力であれば、拘束からは簡単に抜け出せる筈だ。にもかかわらず今のところ大人しくしているのは、迂闊な動きを見せようものなら、僕が迷わず制圧に乗り出してくることを悟っているからだろう。

 そう考えればさっきは危なかった。これからは目を離さないようにしよう。

 さて、当面の問題はこいつをどうするかだが……。


「何を躊躇ってる、楓。さっさと殺してしまおう」


 黒羽が僕の横に立って言った。


「この女は危険だ。生かしておいたら何をするか分かったもんじゃない」

「おっと? わたしに負けたくせして舌だけは元気ですねぇ」

「何だと貴様っ!」

「もう一度お腹に穴開けてあげましょうか?」

「うるさい! 二人ともちょっと静かにして」


 放っておいたら殺し合いを始めそうなので取り敢えず割って入った。木崎が不満げに口を尖らせる。


「先に言ったのはそっちでしょう。わたしは悪くないと思うんですけどー」

「だからうるさい。別に今すぐ殺してもいいんだよ」


 大義名分はあるからね。低めの声でそう脅しつければ、お喋りな木崎もようやく静かになった。よし、それでいい。あのまま聞き続けたら僕の耳が腐ってしまう。

 今すぐ殺してもいい、って告げたのは、裏を返せばまだ生かしておいてやるという意味だ。

 こいつのせいで、僕も黒羽も散々な目に遭った。けれど一方で、こいつにはこいつなりの悲しい事情があった。だから、同情こそ微塵も抱けないけれど、情状酌量の余地くらいは残されているかなって思う。

 というか、正直な所もう疲れた。木崎が死のうが生きようが、僕たちに関わってこなければどうでもいいってのが本音だ。


「……わたしを、これからどうするつもりです?」

「どうすると思う?」


 問い返す。木崎は身体を芋虫のようにくねらせて、器用にもその場に正座した。


「打ち首。それか縛り首。でもって晒し首?」

「悪いけど僕に猟奇的趣味は無いの。君とは違うんだよ」


 誇りにかけてハッキリと否定する。木崎は何も答えない。けれど僕は見逃さなかった。僕が首を横に振ったとき、彼女の顔に少しだけ安堵の表情が浮かんだのを。


「僕はね、君なんか二度と見たくない。だけど君のためにこの手を汚すのも嫌。だから追放しようと思うんだ」

「追放? 一体どこに……」

「君のつがいがいるとこだよ。言っただろ? 僕たちは結城を殺してない、蛇神様に預けたって」

「……ああそうですか。この期に及んで、まだそんな嘘を吐くんですね」


 簡単には信じてくれないらしい。いや、あるいは信じたくても信じられないのだろうか。迂闊に喜んだ挙げ句、騙されて絶望するのが怖いのかもしれない。


「もういいです。そんなのいらないから、さっさと終わらせてくださいよ! どうせわたしじゃ楓くんには敵わないんです。煮るなり焼くなり好きにすれば良いじゃないですかぁ! 結城くんにやったみたいにぃ!」

「嘘ではない! やかましいぞ女狐っ!」


 苛立ちが如実に表れている声で黒羽が怒鳴った。


「信じられんなら詳しく話してやろう。このお人好しはな、罪悪感なんていう私にもよく分からん理由を持ち出して、土壇場であの狐を許したんだ。狐の方は感謝など一つもしなかったがな。で、知り合いの神がタイミング良く眷属を欲しがっていたから、これ幸いとばかりに引き渡した」

「今はずうっと遠くにいる。だから当人を連れて来いと言われても、無理な話ってわけ」

「そんなの……そんなのどうやって信じろって言うんですか! 証拠も無いのに――」

「証拠ならここにあるとも」


 唐突に降ってきた飄々とした声。僕たちがそちらを振り返れば、生い茂る木々をかき分けて、見覚えのある巨体が姿を現した。


「件の狐は私の管理下にある。神の肩書きにかけて約束しよう」


 印象的な赤い瞳。光り輝く純白の鱗。

 噂をすれば何とやら。マヤの友にして日南の主、蛇神様がそこにいた。


「やあ青年、また会ったね。少し見ぬ間に随分と雰囲気が変わったようだ」


 頭をくいっと傾けてから、呆気にとられている僕の横をすり抜けて、蛇神は木崎へと近付いた。とぐろを巻いて、舌をチロチロと出し入れする。


「はじめまして、狐さん」

「あなたは、一体……?」

「見ての通り神格だよ。今は、君のパートナーのボスでもある」


 明言された事実に木崎は目を瞬かせる。きっと戸惑っているんだろう。もっとも、事態を飲み込めていないのは僕だって同じだった。

 蛇神が我が家へ帰っていくのを、昨日、僕もこの目で見た筈だ。どうしてここに……。


「さあ、これでもまだ信じられないかい? 私が偽物でもサクラでも、ましてや虚偽の発言をするような存在でもないことくらい、君ほどの力があれば一瞬で見抜けると思うけどねぇ」


 蛇神の言葉にうなだれる木崎。その肩から力が抜けたのが分かった。


「本当、だったんだ……」


 ようやく理解してもらえたらしい。遅いよ、と愚痴を漏らしたい気持ちは抑えておこう。ひとまずこれにて一件落着となりそうだ。


「この子も私が引き取るべきかな、青年?」

「そうしてくださるなら、ありがたいです。でも……いいんですか?」

「愛し合う二匹さ、叶うなら一緒にいた方が幸せだ。それに私にとってみても、毎日が賑やかになるのはそう悪いことじゃないからね。先に預かった方も従順だし」

「……だったら、よろしくお願いします」

「心得た。あとは私に任せなさい。君たちも疲れているだろう?」


 ゆったりとした物言いに僕は胸を撫で降ろした。ただでさえ迷惑をかけている手前、新しく二匹目を押し付けることに何となく申し訳なさを覚えていたのだ。蛇神からそう言ってくれれば、僕としても気が楽になる。

 横から、黒羽が口を開いた。


「蛇神様、一つお訊きしてもよろしいでしょうか」

「何かな?」

「どうしてここにいるんです? 日南に戻った筈では……」

「儂が呼び寄せたのじゃよ」


 聞き慣れた声が問い掛けに答える。またもやハッとなって振り向いた僕たちは、直後、揃って目を丸くすることとなった。

 一匹の犬が立っていた。

 大きさは普通の柴犬くらい。白色の艶やかな体毛が、西からの夕日を反射して銀色に煌めいている。威厳さえ感じるほどの存在感だった。


「師匠?」

「……え、マヤ様!?」


 嘘だろ。マヤにしては小さすぎる。……でも、よく見ればどことなく面影があるような。いや、やっぱり有り得ない。だってあの犬神は、僕に力を譲ってそのまま息絶えた筈なのだ。間違いなく自分でそう言って……。


「その顔は驚いたときの顔じゃの? なぁに、簡単なことよ。先の一件同様、お主が狐を屈服させたあと、殺そうとしないであろうことは容易に想像がついた。ましてやあの狐のつがいともなれば、お主がいかな結末を望むかは手に取るように分かる。故に先回りして、こやつに声をかけておいたのじゃ。眷属が倍に増えるぞ、とな」


 どうやら正真正銘、本物の犬神様みたいだ。なるほど……って、違う。僕たちが知りたいのはそんなことじゃなくって。


「ちょっと待ってくれ。想像がどうのとかそれ以前に、師匠は死んだんじゃなかったのか? 何が起こったっていうんだ」


 タイミングよく、訊きたかったことを黒羽が訊いてくれた。マヤは口元を意味深に綻ばせる。


「わざわざ儂から説明をせずとも、お主なら察しが付くじゃろう?」

「はぁ? 師匠、それはどういう意味で……」


 そこで黒羽は口を閉ざし……数秒後。


「――そうか」


 何かに勘付いたかのように、目を見開いてハッと息を飲んだ。


「ははっ、なるほどな! 理解したぞそういうことか」

「……どういうこと?」

「考えてみろ。私が分かったんだ、汝でもきっと答えに辿り着ける」


 そこまで言われては考えるしかない。マヤ曰く“黒羽なら察しが付く”。つまり、彼女の経験と関係があるってことだろうか。だとすれば有り得そうなのは――。


「……一度死んだあと、妖怪として生まれ変わった?」

「正解だ。だよな、師匠?」

「いかにも」


 犬神は喉の奥で笑った。


「お主が儂の元を立ち去ったのち、儂はそのまま死にゆく腹づもりじゃった。じゃがな。そのとき、ふと思ってしまったのじゃよ。お主と黒羽のこれからを、せめてもう少しだけ見守っていたいと」

「それが未練になって妖怪化した。神様といっても、そうなる前の師匠はただの山犬だったからな。力を失えば当然、普通の獣に戻る。私たちと変わらない存在にな」


 黒羽が後半の説明を受け継ぐ。それからマヤに視線を送れば「そういうわけじゃ」と満足げに返ってきた。


「小さくなったが記憶は残しておる。安心せい」


 目を細くして頷けば、黒羽も満面の笑顔になる。よかった。僕は内心で呟いた。黒羽にとってマヤは家族だ。失うのは辛いだろう。


「にしても随分とちっさくなったな、師匠?」

「うむ。それでも、儂が拾ってやった頃のお主よりは大きいがの。しっかし、目が見えるというのは実に素晴らしいものじゃ。お主の顔を見るのも初めてじゃが……なるほど、我が子ながらなかなかに器量良き。そこな青年が恋に落ちるのも納得というもの」

「こっ……!? ――うるさいぞセクハラジジイ」

「ジジイ!? 恩神に向かってその口の利き方は何じゃ。儂はまだ五百歳ぞ」

「私からすれば十分に年寄りだ。だいたい――」


 烏と山犬が仲睦まじげに会話するのを、僕と蛇神はすぐ隣で聞いていた。どちらからともなく顔を見合わせ、ほぼ同時に苦笑を浮かべる。


「いやはや。マヤのやつ、随分とテンションが上がっているようだね」

「ですね」

「だがあの通り楽しんでもいる。だから……これは余計なお世話かもしれないけど、もし君が、自分のせいで犬神を死なせてしまった、とか悩んでいるなら、それは杞憂だ。見てみたまえ。今この場に、悲しんでいる者は誰一人いないだろう?」


 ドキリとなった。自分でも正体の分からない想いを、蛇神の言葉でようやく自覚出来た気がした。


「君は自らその道を選び、それに付随する全てを背負うことに決めたんだ。並大抵の覚悟ではこうまで出来ない。誇りに思っていいよ」


 新人を励ます先輩のように言って、純白の大蛇は小さく頭を下げた。


「さて、それじゃあ私はここいらで失礼するかな。ご機嫌よう」


 シューシューと息を吐く。木崎の身体がフワリと浮かんで、蛇神の傍に滞空し始めた。こういう奇跡には慣れたのでもう驚かない。とはいえ、元友人がグルグル巻きのまま空中を浮遊する光景は、傍から見るとなかなかにシュールであった。

 マヤと黒羽もじゃれ合うのを止めて、二言三言、それぞれが蛇神と言葉を交わす。

 そしてそのままお別れといきそうになったとき、不意に木崎が僕の目を見て、「待ってください」と声を上げた。

 言いたいことがありそうだ。


「……何?」


 訝しみつつも近付いていく。木崎は毒気の抜けたような表情で、ペロリと舌を出した。


「一つ、忠告をしておこうかと」

「忠告?」

「はい。わたしが言うまでもないですが、楓くんは優しすぎです。わたしや結城くんを生かしておくとか、人がいいにも程がありません? 普通に考えて論外の極み。今回は何とかなりましたけど、いつまでも甘ちゃんではいられません。これから先、より強く、より残虐な敵に出会ったとき、その優しさは欠点になります。治さないと身を滅ぼしますよ」

「……かもね。でも、それまではこのままを貫くつもり」


 僕がそう言うと、木崎は目をぱちくりさせた。


「……へぇ。ま、どうぞご自由に」


 肯定もせず否定もせず。実に彼女らしい捨て台詞だった。


「別れは済んだかい?」

「大丈夫です。結城くんのところに行きましょう」

「いいだろう。ところで狐、君の名前は何て言うのかな?」

「木崎加奈、と呼んでください」

「偽名?」

「はい。今は半分、本名みたいになっていますが」


 そんな話をしながら、木崎と蛇神が離れていった。彼女の心配などする義理もないが、あの様子なら上手くやるだろう。そしてもう会うこともない。


「一件落着、じゃな」


 木崎たちの声が聞こえなくなったあたりで、今度はマヤが口を開いた。


「それでは儂もお暇しようかの」

「……どこに行くんです?」

「どこかへ。我が心の向くままに」


 適当な答えだな……。

 そう思ったのが顔に出ていたのか、マヤは無言で右眉を持ち上げる。


「何か問題があるかね? お主に言うべきことは全て伝えた。それよりもな、せっかく身体が軽くなり、視力も回復したんじゃ。儂は外へ出て行きたい。いいや何としても出て行くぞ。意図せず湧いてきた二周目の犬生、謳歌しないでいられるか」


 ウズウズが透けて見える声色。そっちが本当の未練なのでは? と言いそうになったが、少し迷ったあとで仕舞っておく。

 本音では、出来ればここにとどまって、色々と助言を聞かせて欲しいのだけど、かの神はもう引退した身だ。だからこちらもマヤを引き止めず、慎んで別れを告げようと思う。


「ありがとうございました、改めて」

「うむ。まあ頑張れ」


 短く答えてさっさと飛び去ってしまった。白い毛並みがあっという間に遠ざかって、すぐにまったく見えなくなってしまう。

 よっぽどワクワクしてるんだろうな。若返ったも同然だし……。


「あれ本当にマヤ様?」

「……うん、私もあんな師匠は初めて見た」


 黒羽が笑みを含んだ声で答える。「だよね」「だな」と頷き合った。

 しかし――そこから先が続かない。二つの事実に気付いてしまったのだ。一つ、僕たちは二人きりだということ。二つ、昨夜よりこのかた、今は僕たちがゆっくりと話し合える初めてのタイミングだということ。

 表情からして、黒羽も似たような考えを持っているようだ。チラチラと視線を送ってくるくせに、正面からこちらへ向き合おうとはしない。

 ――黒羽。

 名前を呼べば、彼女は分かりやすくビクリと肩を竦めた。


「……何だ」

「君と話したい」


 沈黙が返ってくる。

 その意味を内心で考えつつ、僕は近くの倒木を指差して言った。


「取り敢えず……座ろっか?」

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