第39話:たとえ魔物に身をやつしても
一体、僕の身に何が起こったのか。
それを語るためには、少しだけ時間を遡る必要がある。
断腸の思いで黒羽と別れたあと、残された唯一の安全圏である犬神の山へ向けて、僕は死に物狂いで足を動かしていた。
無数の障害物と尽きることの無い傾斜が、僕の体力を容赦なく削り取る。割れそうなほどに肺が痛くなり、両足は次第に感覚を失って。それでも走るのは止めなかった。
黒羽が嘘を吐いたことは分かってる。勝つさ、なんてカッコよく言い切ったのも、師匠にこのことを伝えろ、なんて冷静に促したのも。全て僕を逃がすための口車だ。私じゃあいつには勝てないって、一番最初に言っていたじゃないか。結城と木崎は別個体だけど、どちらも狐の妖怪だ。力は同じくらいである筈。
ああ、今すぐ回れ右して戻りたい。でもそうすれば、黒羽の覚悟が水の泡になる。僕も黒羽も木崎には勝てない。残された希望はただ一つ、マヤの力に頼ることだけなのだ。
足が何かに引っ掛かって転ぶ。膝と肘とを盛大に擦りむいた。呻きながらも確かめれば、走る内に緩んでしまったのだろう、靴紐がほどけていた。結び直すための数秒さえ惜しくて、そのままその場に脱ぎ捨てる。
休む暇なんて無い。こうしている間も黒羽は戦ってるんだ。そう自らを叱咤した。戦いの先に待つ恐ろしい結末については、なるべく頭から叩き出しながら。
どのくらい走り続けただろう。数分か、それとも数十分か。一時間よりは短いと思うけど、正確な時間は分からない。
高千穂の山中、見上げんばかりの大木の下。
まろぶようにして辿り着いたそこに、犬神は変わらず腰を落ち着けていた。
「存外に早い再会じゃの、人間」
何も事情を知らないのか、それとも知っていてなお落ち着いているのか。その声に驚いた様子は無い。
「戻ってきた際には歓迎すると言ったが、これほど直ぐとは聞いておらぬぞ。この儂にいかなる用事かな?」
僕はいきさつを手短に話した。暗躍していた二匹目の狐。危ういところで助けに来てくれた黒羽。そして、彼女が今、僕を逃がすために戦っていること。焦りのせいで、説明は自然と早口になった。
「お願いです。助けてください」
マヤなら何とかしてくれるかもと思っていた。けれど僕の期待に反して、犬神は首を縦に振らない。
「出来ぬ」
「……っ、それは、二人がこの山にいないからですか」
「そうとも。お主にも既に伝えた筈じゃよ。儂はもう衰えた。神通力を振るえるのは神域の内にあってのみ。一歩でも外に出ようものなら、肉体が老いに負け朽ち果てる、と」
「で、でもっ、他に方法はあるでしょう。あなたは神様だ。直接は助けに行けなくても、何か――」
「無い。裏切るようで悪いがの。儂は、お主が思うておるほどに万能ではないのじゃよ」
にべもない返答に僕は肩を落とした。マヤが駄目ならどうすればいいんだ。黒羽を放っとけっていうのか。それで自分だけ避難していろと?
「恨んでくれるな、お主らを見放したいわけではない。神としてなるべく中立は守るが、それ以前にあの娘は儂の子だ。手助け出来るならしておるじゃろうさ。されども無理なものは無理なのじゃ。お主の話を聞く限りだと、老いた儂に打てる手は無い」
はっきりと口にはしなかったが、諦めろって意味だとトーンで悟った。残酷すぎる現実を前に、全身から血の気が引いていく。
もう駄目だ。おしまいだ。黒羽の勝利を信じればいいなんて言われるかもしれないけど、これまでの戦いで彼女がことごとく苦戦を強いられていたのを見れば、そんな楽観的な考えは抱けない。だからこそマヤの力を借りるべく、ここまで必死に走ってきたのに……無理なものは無理、だなんて。手札ゼロ、八方塞がりもいいとこじゃないか……。
――いや、待て。まだ一つだけ方法はある。
僕が自力で解決するっていう方法が。
分かってる。今の僕は無力な人間だ。このまま木崎に立ち向かっても、血祭りに上げられるのが関の山だろう。流石にそこまで無謀じゃない。
話はもっと簡単だ。
力が無いならつけるまで。つける時間さえ惜しいのなら……手っ取り早く貰ってしまえばいいのだ。
「もう一つ。別の頼みがあります」
「申してみよ」
「
「……なぬ?」
唖然とした様子で問い返すマヤ。
「覚悟を決めた顔で言うから何かと思えば、主の座を寄越せ、じゃと? さようなこと……」
「出来ますよね。マヤ様は山犬、先代は猪。そして黒羽に後を継いでもらう予定だった。ここから推測する限り、山の主になるための条件に種族や産まれは関係無い。そうでしょう?」
突発的な思いつきだが、実のところ、可能だという確信はあった。犬から鳥に力を移せるなら、人間にだって同じことが出来る筈だ。生物学的には人の方が近いし。
マヤが尻尾を動かしながら「なるほど」と呟いた。
「お主の考えは把握した。儂の力を受け継ぎ、それで以て狐を退けるつもりなのじゃな。まだ若き身体ゆえに、山から出ようとも儂のように果てることはなく、活動が可能であるから、と」
「そうです」
「……正気かの?」
どうだろうか。自分ではまともだと思っているけど、狂人だと自覚してる狂人はいない。今から僕がすることは、他人からすると気が触れた行いに見えるかもしれない。別にどうだっていい。
「同族ならざるものを救うため、人間であることを止めるのか。たった一匹の獣のために、あの娘の一方的な想いに応えるために、お主はこれまでの暮らしを捨てられるか?」
「……分からない。だけどそうすれば、黒羽と共に生きることは出来る」
震えながらも言い切れば、マヤは堰を切ったように笑い始めた。大口が耳までぐわりと開き、ナイフのような牙がズラリとのぞく。
「分からない、と返すか。正直、されど無責任じゃな。我が力は、幾多もの命を見守り育むための力。それを一個人の望みに基づいて要求するなど身勝手の極みとすら言えようぞ」
「……はい」
「理解してなお、考えを曲げぬか?」
「変えません。自分勝手でも、傲慢でもいい。こうするしかないんです。こうするしか……!」
頭の中に蘇ってくるのは、昨夜、僕が触った翼の感触。柔らかくて尊い。愛しい。僕なんかのために散らせるわけにはいかない。
駄目だと言われればそれまでだ。けれどそれでも自分から退こうとはせず、僕は犬神の瞳を真っ直ぐに見つめ続けた。
「……生半可な覚悟では、後悔するぞ」
ゆっくりと、されどはっきりとマヤが頷く。やった! 思わず口元が緩みそうになった僕だったが、喜んでいられたのはその後の警告を聞くまでだった。
「お主の中に、儂の力を移すことは可能じゃ。しかしそれは、本来お主の身にとって不要な代物。相当な不可が肉体にかかり、馴染むまでは地獄の苦しみを味わうこととなろう。耐えきれず命を失うか、廃人になっても何ら不思議ではない。仮に適合出来たとしても、お主はもはや人間ではなくなる。この儂が、一介の山犬とは呼べぬ存在に変異したようにな」
そう言えば、山を出発する前にもそんなことを教えてくれたっけ。あのときは半ば聞き流していたけど、こうして自分がその立場になってみると、途端に末恐ろしいものが込み上がってくる。
死ぬかもしれない、か。
痛いのは嫌だ。死ぬのはもっと嫌だ。というか好きな人なんていないと思う。だけど黒羽がいなければ、僕はとっくに殺されていた筈なのだ。
僕のために命を賭けてくれるなら、僕だって。
「意思は変わらぬようじゃの」
「はい」
「よかろう。そこまで言うなら儂も応えよう。これより主の座を移譲する。我が眼前にかしずけ」
言われたとおりに膝を着いた。身体が震えているのは、この際気にしないものとする。心臓の鼓動がやけに大きいのも、同じく気にしないものとする。
僕は……どうなるんだろう。
緊張のせいか、世界の進む速度がゆっくりになる。地獄の苦しみだとマヤは言った。どれほどのものか想像もつかない。だけど――。
少しでも痛みが紛れれば。そう思い僕は目を瞑る。
直後。肉の引き裂かれる音がして、生暖かい液体が僕の顔にかかった。
「は……なんだ、これ。……あ?」
手で顔を拭う。すごくねっとりしてる。瞼を開けてみれば、それは真っ赤な血だった。マヤの首筋が切り裂かれ、そこから鮮血が洪水のように溢れ出ていた。
「何を臆しておる? 早う飲め」
理解出来ない状況に僕の頭がフリーズする中、淡々とした口調で指示を出すマヤ。僕が動けないでいると、やがてそれは強制力を帯びた命令になった。
「飲め」
そこでようやく、僕は自分の勘違いに気付く。
主の交代というから、儀式的なものかと思っていた。だけどこれは、全然違う。
捕食だ。神の力を得たければ、神の力を取り込め。そして御してみせろ。マヤはそう言っているのだ。
「後戻りなど許さぬぞ。飲め!」
刹那、僕の身体が跳ね上がる。手が、足が。自分の意思に反して動き、マヤの首元へ僕を近付けていく。
べちょり。顔面が血にまみれる音。閉じていた筈の唇は開かれ、血流が流れ込んでくる。口内に広がる鉄臭い味。濃厚な獣の臭い。受け入れがたい感触。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い……!
「うっ……ぐぇ……ぁあ」
「吐くでない! 飲み込め!」
不思議な力が働いて、僕は上半身を仰け反った。体内へ続く最後の砦、喉の封鎖が解除され。とくん、とくんと。マヤの生き血が食道を下っていく……次の瞬間。
今まで経験したことのない痛みが、脳天からつま先へと駆け抜けた。
「あ――ぎゃあああぁあぁああぁああ!?」
反射的に悲鳴を上げ、逃げようとしたが、マヤはこうなるのを予測していたのだろう。僕が藻掻き始めるのと同時に、逆らいがたい神通力を以て僕を地面へと押さえつけた。
心臓が跳ねる。全身がカアッと熱を帯びる。元あった物を押しのけて、何かが僕の中に入ってくる。それはまるで、無数の松明で皮膚の裏を炙られているような苦しみ。毛穴の一つ一つに針を刺して、そこから体内に毒を流し込まれているような感覚。弾ける爪。砕け散る骨。剥がれ落ちる肉。そして侵されていく正気。
予想を遥かに上回る苦痛に、もう声さえも上げられぬ中、僕が僕じゃないものに作り変えられていく。
それだけではない。普段なら死んでもおかしくない程の痛みなのに、どういうわけか、僕は気を失うことさえ出来なかった。
まず最初に理性が消えて。すぐに今度は思考をなくした。痛いって気持ちが脳の隅々までを埋め尽くす。だけどそれでも瞼を閉じれば、いつも彼女がそこにいてくれる。
終われない。
約束してくれたんだ。必ず生きて戻るって。だから僕も……まだ挫けちゃいけない。
こんなところで、死ぬもんか……!
※
それの終わりは唐突だった。
波がさあっと退いていくように、身体が痛みから解放されて、張り詰めていた緊張の糸もプツリと切れた。
……そこでようやく、僕は気絶することを許された。
※
「う、あああぁああぁ!?」
どのくらいの時間が過ぎただろうか。他ならぬ自分自身の絶叫で、撥ねるように目を覚ました。
全身が水中に浮かんでいるかのごとく不安定な上に、車酔いを百倍くらいにまで悪化させたような不快感が体内で暴れていた。
自分がバラバラに壊される幻覚を見ていた気がする。だけど……こうして何かを考えていられるあたり、僕はまだ無事なのだろう。我ながら、よく死なずにいられたものだ。
「……うっ、ぐぇ」
喉の奥から強烈な吐き気が駆け上がってくる。咄嗟に口を閉じたが抑えきれず、僕はその場で思いきり吐いた。寸前で顔を横にしたので、無様な噴水になるのだけは避けられた。
ああ、舌の上が苦い。酸っぱい。気持ち悪い。喩えるなら……高熱を出して寝込んだ夜。あれの酷いバージョン。胃液だけしか出てこないから余計にたちが悪いのだ。まるで内臓と脳とをシェイカーにぶち込まれて、原型がなくなるまで振り回された後のよう。
溢れ出した液体が口元を伝って、地面に小さな水たまりを作っていた。
「……っ、はぁっ、はぁっ……ああ、くそ」
最悪な寝覚めに悪態をつく。何とか息を整えて、汚れたところを手の甲で拭った。
「……っ、そうだ!」
自分の状況を思い出した。力を受け継いで終わりじゃない、黒羽のとこに行かないと――。
「おお、どうやら上手くいったようじゃ」
声の聞こえた方を向く。その途端、僕の思考は一瞬で停止した。
マヤがいる。しかしかの神は、明らかに様子がおかしかった。
美しかった毛並みは灰色にくすみ、見ている傍からハラハラと抜け落ちていく。窪んだ眼窩。力なく垂れ下がる耳と尾。犬神の身体が急速に朽ち始める。そこに、以前の神々しさはもう残っていなかった。
「マヤ……様? どうして――」
「慌てるでない。儂はこれまで、主の力によって生き永らえておった。それを失えば、このようになることも当然予想していた」
思わず息を飲んだ。じゃあマヤ様は、死ぬのを承知でこの僕に全てを託してくれたのか。
感謝と畏敬の念で胸が一杯になる。何か言おうと口を開いたが、犬神はそれを遮って続けた。
「よく聞け。儂はもう長くない。故に重要なことのみを簡潔に伝える。まず、今のお主についてじゃ。人の身に過ぎたる力を宿したお主は、外見こそ変わらぬものの、もはやお世辞にも人とは言えぬ。見る限り、半人半神の現人神といったところじゃの。人であったときは出来なかったことも、今のお主なら可能になったじゃろう。どこまでかは分からぬがな。自分で試せ」
「っ、は、はい!」
「次じゃ。お主はこの山の主になった。が、別に山から出ることは禁忌ではない。儂とて度々外出したしの。こう言っては何じゃが、儂がいなくとも獣たちは皆、己の力で逞しく生きておった。よって、お主がこれからどこでどのように生きようが、それは主の座を裏切ることにはならぬ」
「……えっと。それはつまり、ここにいなくてもいいって意味ですか?」
「我々は象徴じゃからの。居場所ではなく、存在そのものに意味がある。……まあそれでも、たまには戻ってくるように。今日このときより、高千穂はお主の新たなる故郷となったのじゃ」
要するに帰省しろって意味だ。当然と言えば当然の責務だろう。自宅からはそんなに遠くもないし、出来る限り果たしていこうと思う。……ってか、むしろそれくらいでいいのかって感じだ。未来永劫この土地に縛られ、ラプンツェルさながらの状態で暮らすことも覚悟していたのに、拍子抜けというか何というか。
「――そして最後に」
柔らかめの口調が途端に鋭さを増して、僕は反射的に背筋を伸ばす。こうしている間にもマヤの身体は崩壊を続け、手脚は既に根元まで黒ずんでいた。しかしそれでも、声に含まれた威厳だけは衰えない。
神妙に耳を傾ければ、犬神は静かに、されど重々しく囁いた。
「あの娘を、頼むぞ」
「誓って」
マヤの最期を看取らぬまま、僕は踵を返してその場から走り去る。
かくして僕は人として生きるのを止めた。
享年、二十歳。沈む西日が厳しくなりゆく、七月の夕暮れのことだった。
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