第36話:地に落ちた烏
命中だ。すかさず黒羽は立ち上がり、一気呵成に畳みかけるべく前へと踏み込んだ。
どんな生き物にも必ず急所が存在する。妖怪とて例外ではない。それがどこなのかは場合によって変わるが、相手が人型の場合、弱点はおおよそ人間と一緒。瞳やみぞおち、それに首だ。
木崎の身体がいくら頑丈でも、首を切られれば軽傷では済まないだろう。即死でなくとも体勢を崩せただけで十分だ。あとはこのまま、彼女に再生する暇を与えずに押し切ればいい。
右足を持ち上げ、黒羽は回し蹴りを繰り出す。対処出来ないのだろう、木崎が避けようとする様子はない。
もらった……!
「
「――っ!?」
聞き慣れた声に、黒羽は思わず攻撃を躊躇ってしまった。
「なんちゃって」
次の瞬間。狐の尻尾に右足を絡め取られる。
既視感を覚えて離れようとするも、足首にキツく巻き付いていて逃げられない。そこから木崎は黒羽の首に腕を回すと、背後から抱きつくようにして絞め上げた。
「はいっ。おっしまーい」
耳元で邪悪に囁かれる。目だけを動かして後ろを見れば、木崎は
「しかたないですよ? 誰だって好きな相手には手を出せない。敵が化けた姿だと分かっていても一瞬は考えてしまう。私でも多分そうなります」
「貴様っ……! たしかに、命中させたのに……!」
「え? ああ、さっきの術ですか? 惜しかったですね。もうちょっとだけ早ければ、私の首に当たってたんですけどね」
木崎が目の前で手をヒラヒラと振ってみせる。その甲に出来た真新しい傷口から、鮮やかな血が指を伝い流れ落ちていた。
ハッと息を飲む。命中なんてしていない、寸前で防がれていたのだ。木崎がよろめいたのもこちらを誘い込むための演技だったのだろう。なのに自分は早とちりし、その罠にまんまと引っ掛かってしまった。
「奇しくも楓くんとお揃いになっちゃいました。別に嬉しくもなんともないけど。あ、もう木崎加奈の姿に戻りますね? こっちの方が慣れてるんで」
知人と雑談でもしているような気楽さに、黒羽の背筋を冷たいものが駆け上がっていった。
首を絞める力は段々と強くなる。息が苦しい。腕を掴んで引き剥がそうとするが、純粋な力で彼女に敵う筈もない。いつのまにか、その尻尾がベルトのように腰へと巻き付き、黒羽の身体を完璧に拘束していた。
「ぐっ! こ、の……!」
「どうして狐の姿で戦わないのかって言いましたね。これが答えです。人の身体なら腕が使える。こうやって黒羽さんを捕獲するのに向いてるんです」
「私を、はなせっ……!」
「嫌でぇす。せっかく捕まえた獲物を誰が逃がしますか」
何が楽しいのか、木崎はクスクスと忍び笑いを漏らす。その妖艶な声色に、黒羽の脳内で嫌な予感が湧き上がってきた。
やろうと思えば自分をこのまま絞め殺すなど簡単だろう。しかしこいつにその気は無く、何か他のことをするつもりなのだ。十中八九ろくでもないことを。
いや、考え方によってはチャンスかもしれない。すぐにこちら殺さないのであれば、その分だけ策を練る時間が得られる。こいつを倒すまではいかなくても、せめてこの拘束から逃れられれば、まだ勝機は……。
「そんなに身構えなくても大丈夫ですよ。まあ、黒羽さんが大人しく私の命令を聞いてくれるなら話は別ですけど、あなた絶対に従わないでしょう?」
「当然だ! 誰が貴様なんかに――――ひっ!?」
木崎が耳に息を吹きかける。本能的な恐怖で身体がビクリと跳ねた。
「ね? だから仕方ないんです。そんなに大したことじゃない。ただ、そう。一つだけお願いしたいことがあるから、ほんのすこーし、抵抗できないくらいに弱ってもらおうかなって」
そう言ってから、木崎は黒羽の胸元に、空いている片方の手を優しく添えた。
唐突なスキンシップに黒羽があっけにとられる中、木崎はその手をゆっくりと撫で降ろしていく。指先が腰の辺りにまで到達したとき、彼女は爪で服の裾を持ち上げ、内側に腕を滑り込ませてきた。
「お、おい! 何してる、やめっ……!」
「黒羽さんの想像通り、わたしの目的は楓くんです。だけど誰かさんが邪魔したせいで、彼はもうわたしじゃ追い付けないとこまで逃げてしまいました。だから作戦を変えることにしたんです。わたしが彼のもとに行けないなら、彼をこっちに来させてしまおうと」
「やめろ! わっ、私に触るな、この――!」
猛烈な怖気が全身を包む。振り払おうと必死に藻掻くが、木崎はまったく意に介さない。それどころか掌を肌に当てて、黒羽の脇腹を無遠慮にまさぐり始めた。
「どこがいいですかね。下手すると内臓まで傷付けちゃうし。もう少し右かな。いや違うな」
どこがいいってどういう意味だ。それに内臓がどうのって。こいつは何を――。
「よしっ、ここにしましょうか!」
唐突に手を止めたかと思えば、代わりに爪の先を押し当ててくる。その瞬間、黒羽はようやく、木崎の企んでいることに察しがついた。
そして――。
「あ、がああぁああぁああ!?」
ズブリという皮膚に穴が開く感覚と共に、激痛で視界が真っ白に染まる。
慌てて拘束から逃げ出そうとするが、身体は嫌になるくらいしっかりと固定されていて意味を為さなかった。
穿たれた傷口から、木崎はかぎ爪を体内に差し込んでいく。抉り、引き裂き。巧妙な加減の下で容赦なく黒羽を蹂躙する。
怪我をした回数はそれなりに多いが、殴るのも蹴るのも噛みつくのも、大抵の攻撃は外から来るものだ。内側からやられるタイプの痛みは、今回が初めてだった。
「――ッ! ――――!!」
「怪異を弱らせる方法って色々ありますよね。あなたは流水に落とすやり方を選んだみたいですけど、こうして出血を強いる方が簡単じゃありません?」
悶え苦しむ黒羽を、木崎は極めて淡々と。事務作業でもしているかのような手つきで痛めつけ、弄ぶ。気付けば目の端に涙が滲んでいた。
くそっ、こいつ……!
「へえ、胴体の部分はやっぱり人間と同じ構造なんですね。なるほどな……ん、この固いの何だろ。骨かな。まあいいや壊しちゃえ」
「ぎっ!? ぐ、うぁ、あぁああぁあ!?」
ボキリという無慈悲な音がして、体内で何かが折られた。
物事を冷静に考える余裕など無く、死に物狂いで足をバタつかせる。引き裂かれた箇所から温かい液体が流れ出し、足下の草を赤く染め上げた。
いつ終わるとも知れぬ拷問に、抵抗の意思は無残にも削り取られていく。
「あ、くっ、あう……!」
「このくらいで十分ですね。お腹に穴が空きましたけど……大丈夫すぐに治りますよ、人間じゃないんですから」
呟いて、木崎は唐突にかぎ爪を引き抜く。苦痛から解放された身体が過呼吸を起こして引き攣った。
早く。早く離れないと。このままじゃこいつに好き放題されてしまう。
黒羽は腕を使って、木崎の拘束を払いのけようとした。
だが力が出ない。視界は霧がかかったようにぼやけ、持ち上がりかけた腕は途中で垂れ下がる。全身から熱が引いていくのを感じた。自力で立つことすらままならず、血だまりの中へ力なく膝を付く。
「効果は抜群、と。妖怪とはいえ、これだけ血を流せばしばらくはまともに動けない。つまりあなたが回復するまでの間、じっくりと“説得”が出来るってわけです」
木崎は満足げに鼻を鳴らすと、衰弱した黒羽を地面へと投げ捨てた。足で仰向けにされたあと、またすぐに首を掴まれる。鉄臭い匂いが充満する中、木崎は確認するように顔を寄せてくると、黒羽の口を手で塞ぎ、こめかみにねっとりと舌を這わせた。
「あはっ、美味しそう! 程良く鍛えられた肉体、素敵。本当ならこのまま食べちゃいたいくらいですけど……ガマンですね、ええ。黒羽さんにはまだ利用価値があるので」
再び首に腕を回され、黒羽は強引に抱き起こされる。恐怖で身体が痙攣するが、それだけ。そこにはもう、敵から逃げるだけの余力すら残されていない。
本気で死を覚悟した。
「じゃあ、ちょっと場所を変えましょうか?」
無抵抗の彼女を引き摺って、木崎はおもむろに歩き出す。
そこから先は、よく覚えていない。
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