第37話:烏の意地

「着きましたよ。ほら起きてくださいよー」


 頬を叩かれる不快な感覚で、朦朧としていた意識が一定の鮮明さを取り戻す。

 鉛のように身体は重く、割れそうなほどに頭が痛い。自分は一体どうなったんだろうと、反応の遅い瞼を上げて確かめようとする。目の前に何か大きな物があるが、ぼやけていてよく分からない。

 やがて焦点が合わさってくると、黒羽はそれが、恐ろしく近くまで接近した木崎加奈の顔面であることに気が付いた。


「ひっ……!?」


 ともすればキスさえ出来そうな距離に、思わず悲鳴を上げる。


「ひっどーい、何ですかその反応。そんなにビビらなくてもいいじゃないですか」


 傷付いた様子など少しも感じられない口調で不平を述べてから、木崎は数歩だけ後退し、腕を組んで黒羽を見下ろした。

 咄嗟に立ち上がって応戦しようとするが、両腕……ではなく、翼が何かに抑え付けられて動けない。術がいつのまにか解けていたのか。いや、今はそんなことどうでもいいのだ。これは――。


「……っ!?」


 首を横に向けた黒羽の目に、おぞましい光景が飛び込んでくる。

 楓からも綺麗だと言ってもらえた自慢の翼に、腕ほどもある太さの枝が杭のごとく突き刺さって、黒羽の身体もろとも地面へと磔にしていた。

 ゾッとなって反対側を見るが、もちろんそっちも同じ有様。傷の自覚に一歩遅れて、鈍い痛みまで骨伝いに這い上がって来た。

 ああもう、最悪だ。


「まだ力は回復してないと思いますけど、動かれると面倒なので固定させてもらいました。立派な翼もこうなれば役立たずですね、黒羽さん」

「……ここはどこだ」

「犬神の山のすぐ近くです。見覚えありませんか?」


 言われて周囲に視線を向ければ、どことなく既視感を覚える場所だった。もう少し進めば師匠の領域に入る、多分そのくらいの近さ。こちらが気絶している内に運んで来たのだろう。

 でも……どうしてこんなところに連れて来たんだ? 木崎にとって、マヤは絶対に敵わない天敵だ。本来なら近付きたいとすら思えない筈なのに。


「何を……考えている?」

「えぇ?」

「とぼけるな! 何故わざわざここに移った。貴様は何をする気だ!」


 声を荒げて問い質す。木崎は嫌らしく笑って応えた。


「お願いがあるって、わたし言いましたよね」

「何を……」

「考えたんです。この山に逃げ込んだ楓くんを、外へ誘き出すにはどうしたらいいか。彼って地味に頭が良いんで、生半可な罠だと見破られてしまいそうなんですよ。……なので、わたしは発想を変えました。別に罠だとバレても構わないじゃないか、と」


 静かで、丁寧な口調。だがそれに、黒羽は猛烈な嫌悪感を抱いた。

 楓を外に誘き出す。罠だとバレても構わない。だとすれば、こいつが自分をここに連れて来た理由は――。


楓くんを呼・・・・・んでください・・・・・・


 なっ……!


「どんな声でも大丈夫ですよ? 助けを求める叫びでも、勝ったよっていう大嘘でも。本物・・が出した声ならば、楓くんはきっとやって来る。仮に何かを勘付いたとしても、彼の性格からして応えずにはいられない」


 淡々と述べられていく鬼畜の所業に、黒羽の身体は怒りで震えた。

 悔しいが認めよう。木崎は楓のことをよく見ている。その名を呼べば、きっと楓は駆け付けてくれる筈だ。だって彼はそういう人だから。木崎の作戦は至極合理的だし、成功率だって十二分に高いと思う。

 だがそれ以前に最低だ。


「断る」


 自分がひどい目に遭うのはいい。けれど楓を汚させはしない。彼の想いを利用するなど、絶対に許してなるものか。

 勝ち目が消えても抵抗を止めない黒羽に呆れでもしたのか、木崎は面倒くさげな様子でため息を吐いた。


「己の立場が分かってないみたいですね。あなた、もう負けてるんですけど」

「……いいや。それはどうかな」

「はい?」

「気付いてないのか? 貴様は今、楓を外へ誘き出すつもりだと明言した。言い換えるならそれは、貴様自身の力で現状・・・・・・・・・を打破することが・・・・・・・出来ない・・・・という意味だろう?」

「……へえ」


 木崎が顔を歪める。どうやら図星のようだ。


「たしかに私は貴様に負けた。だけど楓を逃がすことは出来てる。つまり、当初の目的は完璧に果たされてるってわけだ。それが貴様はどうだ? 私という予想外の邪魔者が現れ、せっかく捕えた楓には逃げられた。唯一の解決策は敵を脅して従わせること。面白いくらいにどん詰まりじゃないか」


 当たり前だが、彼女の言うことを聞くつもりはない。そうしたところで事態が好転しないのはこちらも同じなのだけど、膠着状態に持ち込めるだけでも大戦果と考えよう。


「“虎の威を借りなくてもいい狐”は、人間一人も満足に殺せないんだな。動物園の虎にでも教えを乞うて来たらいいんじゃないか?」


 物理ではやり返せないので、代わりに言葉で罵ってやることにした。なお特に意味は無い。気分の問題である。

 挑発するのは得意でも、されるのには慣れていなかったのか、木崎がぎろりと黒羽を睨んだ。


「なかなか勇ましいんですね。好きな人のために頑張る、その心意気は嫌いじゃないですよ」


 ねっとりとそう言って、女狐は黒羽の隣へとしゃがみこむ。

 何をするつもりだ? 思わず身体を強張らせた直後、木崎が黒羽の肩に触れながら馬乗りにのしかかってきた。蹴りつけようと持ち上げた足は、あっという間に尻尾で絡めとられ。四肢から完全に自由が奪われた。

 木崎は不気味に微笑むと、黒羽の顔面へ何発か拳を叩き込む。

 揺れる脳。軋む頭蓋骨。瞼の裏側で星が瞬いた。


「最期のチャンスです。叶わない愛に殉ずるのは止めて、大人しく利口に生き延びましょう?」

「……い、やだ」

「従えば命までは奪いませんよ」

「嫌だと、言ってる……!」

「本当にいいんですか? 今から地獄を見ることになっても?」

「しつこいぞ! 何が地獄だ。そんな言葉じゃ私の心は変えられない。たとえ貴様に何をされても、私は絶対に屈しない!」

「…………そうですか」


 残念。ぽつりと呟いたあとで、木崎は声のトーンを変えて続ける。


「ねえ黒羽さん、どうしてそこまで頑張れるんです?」

「昔あいつに救われたからだ」

「……それはつまり、自分を守ってくれたことが重要なのであって、別に“楓くんだから”庇うってわけじゃないですよね。自分を助けるのは彼でなくとも良かった。なら、そんな相手のためにここまでする意味、無くないですか?」


 一瞬、心が揺らぎかけた。だがすぐに持ち直す。

 楓を守りたいという想いは、たしかに楓でなくても成り立ったかもしれない。もしもあのとき、自分を助けてくれたのが別の人間だったら、きっとその人に心惹かれていただろう。

 だけど。


「だとしても、私を助けてくれたのは楓だった。あいつだけだったんだ」


 木崎を言い負かすつもりでそう断言したが、木崎は「ふうん」とつまらなそうに頷いただけだった。


「ま、別にどうでもいいんですけどね。あなたがどれだけ意地を張っても、結果はおよそ変わらないんで」

「……どういう意味だ」

「楓くんを呼んでくれないなら、代わりに悲鳴を上げてもらうだけです。山中に響く盛大なやつを、ね。好きな娘が苦しむ声を聞けば、楓くんだってすっ飛んで来るでしょ」

「……っ!?」


 全身に鳥肌が沸き上がってくる。悲鳴を上げてもらう、なんて回りくどい言い方をしているが何の事はない、拷問するつもりなのだ。それも、楓が駆け付けるまで延々と。

 妖怪の身体は頑丈だから、人間なら死ぬような目に遭っても耐え抜けてしまう。だが、本来ならメリットでしかないその耐久力が、今回ばかりは木崎を利する形になっていた。


「どうしてやるのがいいですかね。取り敢えず全身の骨を折りましょうか。それとも皮を剥ぎますか? 因幡の白兎が大丈夫だったんですから、黒羽さんもきっと持ちこたえられますよね。他には……ああそうだ。この羽を一枚ずつむしり取って、それで立派な反物を織りましょう! 死に装束として楓くんに着せるんです。最高ですね、死んでからも一緒にいられますよ!」


 楽しげな声で語られる、想像するだけで恐ろしい責め苦の数々。どれか一つならもしかすると耐えきれるかもしれないけど、十中八九、順繰りに試していく気だろう。

 果たして、いつまで正気が保ってくれるだろうか。


「このド畜生が」

「それくらいわたしも本気なんですよ。烏の一匹や二匹、必要とあればいくらでもいたぶります」

「……っ、やれるものならやってみろ!」

「あら、本人から許可もらっちゃいました。それじゃさっそく始めますね」


 木崎が優しく、黒羽の首に手をかける。噛みついてやろうと頭を起こすが、位置的に口は届きそうもなかった。万策尽き、もはやただ嬲られるばかりとなった黒羽は、少しでも痛みが紛れればと歯を食い縛る。

 後悔は無い。

 捨てる神あれば拾う神あり。そんな感じの命だった。力及ばぬことも度々……いや、及んだ例しの方が少なかった気もするけど、まあ自分なりに頑張った。狐に食われかけ、助けてもらった人間に恋をし、妖怪になって恩返し。波瀾万丈もいいとこだが、総合的に見て幸せな一生だったと言えるだろう。

 ただ、心残りが一つだけ。

『負けないよね』

『勝つさ』

 楓と最期に交わした会話。脳内にふと蘇ってくる。

『後から追い付く。生きて汝のもとに行く』

 その直後に付け足した五文字の言葉は、今になってみると言わなくてもよかった。

 図らずも楓を裏切るような形になるなど、当時の自分が知っている筈も無いのだけど。

 ああ。

 約束、守れなかったな……。


「お覚悟を」


 かぎ爪の先を首筋に這わせ、木崎は意地の悪い笑みを浮かべる。

 横合いから木が一本・・・・・・・・・丸ごと吹っ飛んで・・・・・・・・きたのは・・・・、まさにその瞬間だった。


「――は?」


 予想外の事態に二人とも我が目を疑う。けれど見間違いや幻覚ではなかった。瞬きの合間に衝突音が響き、のしかかっていた重みがフッと消える。飛来した木が木崎の上半身に直撃し、呆気に取られる彼女を豪快に弾き飛ばしていた。

 ここまで来るともう理解は追い付かない。何が起きたんだ。どうなっているんだ。見る限りあれは枯れ木っぽいけど、それでも人くらいの大きさがあるから結構な重量の筈。どうしてあんなものが飛んできた? 自分の知る木は空を飛ばない。てことは誰かが投げたのか? だとしたらそいつは。


「……痛いじゃないですか、もう」


 木崎が頭を押さえながら立ち上がる。ですます調は健在だが、雰囲気からして間違いなく怒り狂っていた。足下の枯れ木を掴み上げ、力任せに引き裂いて吼える。


「一体どこのどなたですか!? わたしにこんなのを投げつけやがった馬鹿者はぁ!」


 応えるように、一つの足音がゆっくりと近付いてきた。


「――杞憂であって欲しかったけど、やっぱり戻ってきて正解だったね」


 鼓膜を心地良く揺らすのは、この世で何よりも聞き慣れている声。

 木立の彼方から姿を現した“彼”は、両の拳を固く握りしめ、驚く木崎を勇ましく睨み付ける。


「お前の相手はこの僕だ。彼女から離れろ化け物ッ!」


 黒羽が名で呼ぶただ一人の人間、出雲楓がそこに立っていた。

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