第32話:狂愛の狐(2)
あるところに、一匹の狐がいた。
艶やかな毛並みが自慢の、まだ若い雌だった。パートナーの雄と共に、そのあたりで一番大きい樫の木の根元に巣を掘って、二匹で力を合わせて生きていた。
人間とかいう生物として怠慢を極めたような種族と違って、野山の獣は毎日が戦場だ。食物を狩り、安全を確保し、時として他の獣たちと戦う。それはものすごく過酷な暮らしだったが、それでも彼女は幸せだった。どの動物も似たような境遇で生きているし、一緒にいる存在が見つかっただけでも幸運だと思っていた。
けれどある日、その幸運が唐突に砕けた。
西日の眩しい夏の夕暮れ。子を身ごもった彼女のために餌を取りに出ていたパートナーの雄が、片目から血を流して帰ってきたのだ。
人間の子供にやられた。そう彼は話した。傷付いた烏を捕まえようとしていたとき、いきなり現れて襲いかかってきたのだと。理不尽としか思えなかった。
どうして彼がこんな目に遭うのか。
憤りが湧いてきたけれど、だからといって彼女に何かが出来るはずもない。早く治れと念じながら、傷口から流れてくる血液を舌で舐め取ってやるしかなかった。
願いも虚しく彼は弱っていった。細菌でも入ってしまったのか、潰された方の目は膿にまみれ、常に高熱にうなされていた。
そういうときにはたくさんの食事を摂って休むべきだったが、衰弱した身体では狩りなど満足に出来ない。彼女も彼女で妊娠しており、激しく動くことは無理だった。
負傷してからちょうど一ヶ月後の夜、彼女が見守る中でその雄は息絶えた。
無力感がすごかった。
最愛の夫を失った雌は、悲しみのあまり心を壊した。腹の赤子は出産寸前に流産した。そして、最終的にそれが決め手となって、彼女もまた雄の後を追うように命を落とした。
夫と子供と共に暮らす、賑わいに満ちた幸せな日々に恋い焦がれながら。
……だからだろうか。彼女が自分でも気付かぬうちに、妖怪として生まれ変わっていたのは。
彼女は喜んだ。もしかするとこれで、彼との未来を取り戻せるかもしれない。そんな考えが湧いた。
奇跡はそこからさらに続いた。なんと彼まで妖怪になっていたのだ。最初、二匹は離ればなれだったが、巣穴に戻ったところで偶然にも再会した。
お互いのことは一目で分かった。再び一緒に行動し始めるのに、特別な理由などいらなかった。
しかしここで、致命的な壁が彼らの前に立ちはだかる。
二匹の未練は真逆だったのだ。彼女の願いは、こうして夫と穏当に生きること。けれどもパートナーの方は、自分が死ぬ原因となった人間への復讐を望んでいた。
記憶にあるより一回り気性の荒くなった彼を前に、彼女は複雑な思いを抱きながらも協力することに決めた。
その人間に報復すれば、それから先は落ち着いて幸せな暮らしを築ける。
そして何より、好きな相手の死に際の未練だ。ぜひ叶えてあげたかった。
数年がかりで力を蓄えた二匹は、人間に化けて仇を探し始めた。獣の姿でいるより、その方が色々と好都合だったからだ。万一の場合に備えて、自分たちに関する最低限の設定も決めた。
雄の狐は、宗像結城と名乗り。
雌の狐は、木崎加奈と自らを紹介することにした。人の中へ紛れるため適当に考えた名前だったが、使っていく内に愛着が湧いてしまい、いつしか互いのこともそう呼ぶようになった。
木崎が人間の娯楽と出遭ったのは、そんなさなかだった。
小説。それは、数多の書き手が紡ぐ数多の物語。人間ではない自分に人間の作ったものなど楽しめまい。当初はそう考えていたが、手に取ってみれば意外や意外。言葉を身につけるだけのつもりが、気付けばいつしかはまってしまい、暇な時間に本を読むようになった。結城は反対に見向きもしなかった。
結局、こいつが犯人ではないかという有力候補が見つかるまで、更に数年を費やした。
木崎はそいつの顔を知らないし、とりたてて知りたいとも思えない。だけど結城はあれで間違いないと言う。
すぐにでもことを起こそうとする結城を、木崎は必死に説得した。まあ待てと。気持ちは分かるが確実な証拠を得てからにしようと。
どうしてわざわざそんな真似をしたかは、木崎自身もよく分からない。人間に愛着でも湧いたのか。いずれにせよ、こちらの手違いで関係無い筈の人を殺してしまうのは何となく嫌だった。
同級生のふりをして、木崎と結城は一人の青年に接触した。
どことなく感じる人の良さそうな雰囲気。絶望とは縁遠い環境で育ってきたのだろう。青年を騙すのは面白いくらい簡単だった。
彼から左手の傷跡について聞き、確信を得た木崎たちは、復讐のための作戦を練った。
相手は普通の人間だから、二人で正面から襲いかかれば十分だと思われる。とはいえそれでは、人目について後々で面倒な事態になりかねない。そもそも二人も必要ない。
かくしておおまかな方針が決まった。隠密行動、役割分担。結城が実働の方を強く主張したので、それならと木崎は裏方に徹した。彼女が妖術で霧を作り、それに隠れて結城が動く。もしも誰かに一部始終を見られたとしても、そこはそう、視界の悪い霧の中だ。見間違いだと勝手に納得してくれるだろう。騒ぎを起こさず楓を連れ去り、人気のない場所で存分に復讐を果たす予定だった。
だが、ここで邪魔者が現れた。
人間に化けた烏の妖怪が、身を挺し青年を守ろうとしてきたのだ。木崎も結城も完全に予想外だった。
おかげで計画は破綻し、標的には見事に逃げられてしまった。そこからしばらくグダつくことになる。
しかし最終的に、彼らが自分たちを高千穂で迎え撃つつもりであることは分かった。
そして、戦いの前。
「わたしも一緒に行きたいです。その方が確実に捕まえられるし」
とある山の麓で、木崎は結城にそう提案していた。
相手の居場所は既に特定してあるから、仕掛けるのはこちらの好きなタイミングでいい。とはいえ、こちらが近付けば向こうも気が付くだろう。よって奇襲は叶いそうになかった。
「確かにそうだな。……いや、やっぱりこれまでどおりでいこう」
一度頷きかけてから、考え直したように結城が応えた。
「どうしてですか」
声に不満を滲ませながら訊けば、結城は頭を掻きながらしばし考える素振りを見せる。
「なんていうかな……これまでずっと、俺のワガママに付き合わせちまったなって思ってさ。迷惑もかけたし時間もとらせた。だから最後くらい、俺一人できっちり片をつけてぇのさ」
「わたしがそうしたかったから結城くんを手伝ったんです。別に強制されたわけじゃ」
「だとしても、元々これは俺の問題だ。ケジメをつけるのにお前は必要ない。それに……」
数秒、口ごもる。木崎の見間違いでなければ、彼の顔は少しだけ赤くなっていた。
「……まあ、その、何だ? お前を危険に晒したくないってのもある」
声を落として早口で言ってから、照れているのを隠すように笑った。
「心配すんな。あいつらより俺の方が強い。これまでありがとな、終わったら今度はお前の未練を叶えようぜ」
優しく頭を撫でられる。好きな相手からそんなことをされた後で、まだ彼を止めようとするほど木崎は我が強くなかった。
ズルい、と内心で呟きながら、結城を信じて見送る。
霧の術経由で手に入れた情報によれば、敵方は二人で迎え撃つつもりらしい。
互いに手をとって並び立つ仲が、仇とはいえ無性に羨ましかった。自分たちはそうなれなかったから、余計に。
結局、結城が戻ってくることはなかった。
彼の気配を見失ったとき、殺されたのだとすぐに確信した。もう二度と会えないのだ、と。
空が次第に暗くなっていく中、木崎はただただ悲しみに暮れていた。
これさえ。これさえ終われば幸せが待っている筈だったのに、また失ってしまった。無念と後悔で胸が割れそうになり、人知れず色々なものに当たり散らした。
泣き、嘆き、苦しみ。久しぶりに過ごした孤独な夜。やがて太陽が昇ってきたとき、木崎の心は闇に覆われていた。
失ったのではない。“奪われた”のだ。そう考えるようになった。
分かっている。今更どうしようと結城は戻ってこない。
だとしても、いやだからこそ、木崎は彼の望みを叶えてあげたいと思った。
亡きパートナーへのせめてもの
それこそが、彼女なりに考えた愛の証だった。
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