6章:たとえ魔物に身をやつしても

第31話:狂愛の狐(1)

 ……あれは確か、僕が狐の襲撃を受けるほんの数日前のことだったと思う。


「そう言えば、この前おもしろい小説と出会ったんですよ」

「へぇ、どんなの?」

「いわゆる異類婚姻譚なんですけど。ちょっと語っていいですか?」


 講義終わりのお昼時。僕と木崎さん、結城の三人で一緒に昼ご飯を食べようと大学の食堂に足を運ぶ途中、不意にそんな話題になった。

 僕たち本好きが盛り上がりそうな内容に反応して、先を行く結城が振り返って肩を竦めた。


「また始まったぜ。活きの良い本の虫、二匹同時にお出ましだ」

「活字アレルギーが何か言ってるね」

「本当ですよ。創作は人間の特権なんです。もっと楽しめばいいのに」


 冗談交じりで異口同音に反論してから、「ねー」と意図的にハモらせる。結城はやれやれ、とわざとらしく呟いた。僕たち三人のよくある光景だった。


「で、木崎が読んだ話ってのはどんなやつだったんだ?」

「寂れた神社に住む山の神様と、偶然そこを訪れた青年が好い仲になるんです。青年は山に登山をしにきてたんですけど、途中で遭難してしまって――」


 そこからしばらく彼女の熱弁が続いた。普段は大人しいけれど、一度スイッチが入ると止まらないタイプだ。

 ちなみにその日は、食堂に到着し、注文した品が運ばれてくるまで喋り続けた。


「……木崎さんってそういうの好きだよね」


 話が一段落ついた後、やって来たチーズ乗せオムライスにスプーンを差し込みながら僕が言えば、彼女は首を斜めに傾けた。


「そういうの?」

「異類婚姻もの」

「んー、上手く言えないですけど、すごくロマンを感じるんですよね。現実じゃ絶対に有り得ないから、ですかね?」

「なるほどね。……そんなに有り得ないかな?」


 僕がそう呟いたのは、昔どこかで小耳に挟んだ、飼育員に恋したペンギンの話をふと思い出したからだ。

 異種族間の婚姻なんて普通は起こり得ない。だけどどこかに例外があるかも、という夢見心地な考えを当時の僕は持っていた。

 それを話すと彼女は可笑しそうに笑った。


「ないない。あるわけないですあんなの」


 木崎さんは鶏天を美味しげに頬張ってから、顔の横で指を二本立ててみせた。チョキのポーズ。違う、これは数字の二か。


「動物と人が関わりを持つとき、その形は二つしかありません。動物が人に服従するか、人が動物に食い殺されるかです」

 

 唐突に飛び出した哲学っぽい台詞に、僕と結城は目を見合わせた。


「驚いた」

「まったくだ。さっすが木崎、賢そうなことを言うなあ」

「もー、結城くん嫌味っぽいです!」


 そう言ってバシバシと彼の肩を叩く。おう微笑ましい微笑ましい。


「……でも、たしかに木崎さんの言う通りかもね」

「お前までどうした楓」

「ちょっと思い出したことがあってさ。これ見て」


 二人の前に、左手の甲を差し出してみせる。手首から中指の付け根にかけて、帯状の白い筋がうっすらと走っていた。


「……傷跡か?」

「小さい頃、狐に噛まれたんだよね」


 僕が頬を掻きながら返すと、二人は目に見えて興味深げな表情を作った。

 小学二年の夏。食べられている烏を助けようとして狐とバトルし、誰も得しない結末に終わった僕の黒歴史。ちょっと恥ずかしいものもあるので、手短に要約して伝えた。


「これ多分、人が動物に食い殺されかけたパターン」


 苦笑いで話を締めくくると、結城と木崎さんは数秒間固まってから、二人で意味ありげな目配せを交わした。


「……え、どうしたの?」

「いや、何というか楓らしいなって」

「楓くんらしいなって」


 そう……だろうか。

 褒めてるのか馬鹿にしてるのか判断しかねた僕は、取り敢えずオムライスを口に運んでおいた。

 それからすぐに他の話題へ移ってしまったし、特に重大な会話でもなかったせいで印象には残らなかった。

 後になって思えば、彼らはあの瞬間、探していた少年と僕が同一人物であることを確信したのだろう。しかし当時の僕はそんなこと露知らず、呑気にもとろけたチーズに舌つづみを打っていた。

 もしも今、過去の自分へ伝言が送れるのなら。僕は迷わずこう伝えると思う。

 そいつら君の命を狙ってますよ、と。


 ※


 湿り気を帯びた土の匂いと草を踏みしめる柔らかな音で、失った意識を取り戻す。

 足首がじんじんと熱を帯び、後頭部は割れそうなほどに痛かった。

 何が起きたんだっけ。……ああそうだ。これは全て木崎さん、いや、木崎の仕業だ。黒羽だと思っていたのが実は彼女の化けた姿で、騙された僕はもののみごとに捕まってしまい、乱暴なやり方で気絶させられた。

 殺されるかなとも思ったが、どうやら僕は生きているらしい。……今のところは、だが。

 ゆっくりと瞼を持ち上げる。霞んだ視界が鮮明さを取り戻したところで、僕はようやく、自分が今どんな体勢にあるのかを理解した。

 地面が上、空が下。両腕は万歳の形をとり、重力がいつもと逆向きにかかっている。実に分かりやすい逆さ吊りの構図だった。


「おはようございます。よく眠れましたぁ?」


 願わくは夢であって欲しかった。そんなささやかな願望を打ち砕くように、明るい挨拶が前方から飛んで来る。

 木崎加奈。正確にはそう名乗っていた狐の妖怪。苔むした大岩の上で、彼女は優雅に足を組み合わせ、無様に吊られた僕を悠々と観察していた。


「……君も妖怪だったんだね」

「はい。最初からずっと」


 笑って頷く彼女の姿は、明らかに人とは異なっていたが、まだそれなりに人間の形を保ったままだ。狐の耳と尻尾、鋭く尖ったかぎ爪。こんな状況でなかったら、コスプレか何かと勘違いしていただろう。


「さっさと正体を現したら?」

「生憎、この身体が気に入ってまして。わたし、こう見えても“人間自体は”嫌いじゃないんですよ?」

「嫌味な言い方だね。つまり僕のことは嫌いだと」

「ご明察。楓くんやっぱり頭いいですね!」


 木崎から大袈裟な拍手を貰った。褒められても別に嬉しくない。

 過酷な体勢に歯を食い縛って堪えながら、僕は視線を動かして周囲の様子を窺う。木々に囲まれた小さな広場、とでも呼べばいいだろうか。自然に出来た場所らしく、目の届く範囲に人工物は見当たらない。ついでに見覚えもなかった。


「ここは……?」

「市街地から遠く離れた山奥です」


 なるほど。てことは叫んでも無駄ってわけだ。

 逆さまなせいで頭が重たい。どれだけの間、僕はこうしていたのだろう。血が上るまでの猶予はあのどのくらい残されているだろうか。

 嫌な予感が脳内で膨れていく。湧き上がる絶望に抗いながら、僕は僕をこんな風にした張本人を見つめ返した。


「二匹目だ、って言ったね。僕を襲ってきた狐は一匹しかいなかったけど?」

「当然です、役割分担してましたから。わたしが霧を作り、それに紛れて結城くんが動く。一緒に話し合って決めたんです。勘付かれるかなって不安でしたけど……あの女も楓くんも、そこまで頭が回らなかったみたいですね?」

「……言い返せないね。というか、ほぼノーヒントじゃ気付けるわけないと思うけど」

「いや、所々で尻尾は出しちゃってましたよ?」

「え?」


 訊き返す僕。片手で髪の先を弄りながら、木崎が言った。


「それでは問題です。熊本のホテルで、楓くんを見つけられたのは何故でしょうか」

「……結城に居場所を伝えたから?」

「正解。じゃあ一番最初、大学ではどうでした?」


 大学で? 確かあのときは、結城と木崎の両方に連絡を取った筈だ。結城には居場所を教えてない。だけど木崎には、電話で――。


『前に言ってた小説を渡したいんですけど、今どこにいますか?』

『わざわざありがと。売店の傍だよ』


 ……ああ、間違いなく伝えた記憶がある。直後に黒羽がやって来たり、妖怪に襲われたりと劇的な展開が続いたせいで、すっかり忘れてしまっていた。


「ま、気付かれていたら面倒だったので、それで良かったんですけどね」


 岩から飛び降りた木崎は、僕に向かってのんびりと歩いてきた。そのまま背後に回り込み、耳元で囁く。


「私からも質問、いいですか」

「……何」

「どうして偽物だと分かったんです? 完璧に化けたつもりだったんですけど」


 ゾワリと、うなじの辺りに怖気が走る。身体を動かして距離を取ろうとするが、逆さ吊りの状態では到底不可能な話だった。だから代わりに、僕は毅然と言い返すことにした。


「そうだね、君の変装は見事だった。見た目からは絶対に分からないだろうし、振る舞いだってほんの少し違和感を感じたくらい。まんまと引っ掛かったよ」

「なら、どうしてあそこで」

「僕が気付けたのか? 簡単さ、匂いが違ったんだ」


 その言葉に、木崎が息を飲む気配がした。


「だから抱きついた時にハッキリと分かった。姿は変えれても匂いまでは変えられない。変化の術も意外と万能じゃないんだね? この際だから教えてあげるけど、黒羽はもっと甘い香りがするんだ。君みたく獣臭くない。正直に言って月とスッポンだったよ」


 種明かし……と呼べる程のものでもないか。強いて言うなら説明だ。せっかくなので、黒羽に化けやがった仕返しとして多少の罵倒も込めてやった。女の子には効くだろう。女の子扱いしていいかは不明だが。

 多少なりとも効果はあったらしい。木崎が引き攣った笑い声を上げる。それから深く息を吸い込み、めちゃくちゃ低めのトーンで僕を罵った。


「……この変態」


 やかましい。


「訊いたわたしが馬鹿でした。もういいです、無駄話はこれでおしまい。さっさと本題へ入ることにしましょう」


 ここまで不吉に聞こえる『本題』も珍しいなと、思わず苦笑が漏れてしまった。笑う余裕があるわけじゃない。むしろ笑うしかないって感じだ。

 現在の状況は圧倒的に僕が不利だ。打てる手はゼロに等しく、そもそも出来ることすら限られている。だがそれでも、諦める気はさらさら無い。

 こうして話し続ければ、それだけ考える時間が稼げる。その隙に打開策の一つくらいは……。


「ところで楓くん、あれ何だと思います?」


 木崎が僕の正面を指差す。せめてもの反抗として僕がそっぽを向いていると、彼女は僕の頭部を鷲掴みにし、強引にそっちを向かせようとしてきた。

 一介の人間が妖怪に力で敵う筈も無い。僕は仕方なく視線を動かし……そこにあるものを認識した直後、ハッとなって目を見開いた。

 木崎が座っていた大岩の上に、見覚えしかない一枚の黒い羽。黒羽から貰ったお守りが、知らぬ間にズボンのポケットから取り出され、神へ捧げる生け贄のごとく、ポツンと無造作に置かれていた。


「あれを作った誰かさんは、楓くんだけを護るよう設定したみたいです。健気ですよね。憧れちゃう」


 うっとりと呟き、口元へ手を当てる。彼女の芝居じみた仕草に、嫌な想像が脳内で浮かび上がってきた。


「何を……するつもり?」

「妖術の中に狐火ってのがあるんですよ。扱いはまあ難しいけど、自分の指定したものだけを燃やせる、ちょっと特別な術なんです」

「おい、僕の質問に答え――」


 木崎がパチンと指を鳴らす。すると直後、その爪の先に青白い炎がともった。

 枝葉の下、木陰の暗がり。穏やかな光が踊るように揺れて、術者の横顔を気味悪く照らし出す。


「どうだ、明るくなったろう。なんちゃって」

「……」


 誰が笑ってやるもんか。

 くだらないジョークに僕が無言のままでいると、木崎は不満げにこちらを見る。それから、おもむろに両手で銃の形を作って、眼前のお守りに狙いを定めた。


「まずは、邪魔になりそうなやつから済ませましょっかね」


 淡々と放たれる宣言。指先の炎が次第に勢いを強めていく。彼女がこれから何をするつもりか、僕はおおかたの見当が付いてしまった。


「お、おい……やめろ」

「心の準備はいいですか? 思い出の品にさよならを!」

「待て、やめろ! 木崎っ! やめ――」


 意味なんてないと分かっていても、懇願せずにはいられない。

 あれは大切なものなんだ。黒羽から貰って、黒羽を覚えておくための、ただ一つの――。


「どか――ん!」


 響き渡る楽しげな叫び声と共に、青白い火炎が急激に体積を増大させ、黒羽の羽をたちまちに呑み込んでしまう。

 その様子を僕は為す術もなく眺めていた。やがて炎が収まったとき、そこにあったのは真っ黒い焦げカスだけだった。


「あ、ああ……!」


 無残にも砕かれた想い人の欠片を前に、ここ数日に渡って磨り減らされてきた僕の心はいよいよ限界に達した。声にならない嗚咽が漏れ、呼吸はしゃっくりのように乱れまくる。

 親しい友に裏切られ。そのダメージが癒えたころ、また別の友人に裏切られる。挙げ句には残酷すぎる仕打ちまで受ける。もしも目の前に机があれば、間違いなくそこに突っ伏していただろう。

 どうして。どうしてこんな目に遭わなきゃならない。僕が何をしたっていうんだ。ほんの少し、余計な善意を発揮させただけじゃないか。なのに、ここまで……!


「お前、よくも……」

「うわあ、もしかして泣いちゃってます? 知らなかった! そんなに好きだったんですね、あの女のこと」


 木崎の口調には、反省の色などまったく見えない。それどころか彼女は嬉々として、摩耗した僕の精神に追撃を加えた。


「でもね楓くん。あなたのその想いは、絶対に実らないって最初から決まってるんです。前に言いましたよね? 動物と人が関わるとき、その形は二つしかない。動物が人に服従するか、人が動物に食い殺されるかだって」


 いつぞやの出来事を思い出す。昔のようだが実際はほんの数日前。あの頃はまだ、『友人』という名のメッキが剥がれてはいなかった。彼女の台詞が持つ意味も、今みたいに大きいものじゃなかった。


「獣と人は対等になり得ない。種族を越えた愛なんて夢物語です。現に今、楓くんの隣にその想い人さんはいないじゃないですか」


 刃物のような言葉で傷口を抉られ続けた末に、僕の理性は儚くも崩れ去る。もう無理だ。堪えきれない。次の瞬間、僕は抑え込んでいた感情を一気に爆発させていた。


「……いい加減にしろ」

「え?」

「ふざけんな……! どうしてこんなことするんだよ! そんなに僕が憎いのか! 散々に騙しておちょくって、僕を一体どうしたいんだ! 早くこれをほどけっ……!」


 引き攣った声で叫び散らし、両手を振り回して暴れる。が、その行為におよそ意味は無い。僕を吊っている植物のツタが、多少軋んだ程度で終わった。

 無力感のあまり歯軋りをする僕に、木崎は嘲りの微笑みを浮かべる。もの凄く癪に障る顔だったので、もう一言何か言ってやろうと僕が口を開きかけたとき……唐突に、その表情が曇りの様相を帯びた。一転して漂い出す神妙な気配に、僕もまた冷静さを取り戻していく。


「憎い、ってのはちょっと違いますね。嫌いですけど憎しみってほどじゃない。それで動ければ私も楽だったんですけど、そこまで悪役にはなれなくって」

「……何を、今になって言い訳じみたことを」

「どうしよっかな。……うん、やっぱり話しておきましょう。私が何故こんなことをしているのか」


 僕からの怪訝な視線には反応せず、彼女は再び大岩に座り直した。人差し指をピンと立て、空中に小さな円を描く。


「答えは簡単。これこそが、他ならぬ結城くんの望みだったからです」

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