第30話:帰途

 無事に高千穂の市街地まで戻ってきた僕は、まず初めに自動販売機を探した。

 よりによってそれか、と言われそうだが、喉が渇いていたんだからしょうがない。数時間も山の中を行軍したせいで、相当な量の水分が身体から抜けた。取り敢えず何か飲まなければ、帰宅する前に脱水症状で死にそうだったのだ。

 喉の渇きを存分に癒した後は、取り敢えず近くの服屋に向かった。

 ジーンズはともかく、ボロボロのシャツと血の付いたカーディガンでは間違いなく不審者扱いされてしまう。店員からの視線は無視しつつ、手頃な値段のやつを適当に購入。更衣室を使って着替えさせてもらった。着ていたシャツは袋に入れた。

 それから郵便局のATMで現金を降ろした。高千穂へ向かう前に確保しておいた数万円は、ホテルとタクシーの代金でその大半が消し飛び、現在の所持金はわずか三千円以下。雀の涙もいいとことだ。福岡へ帰るにはあまりにも心許ない。

 バスを使えば交通費はだいぶ安くなるから、多分、合計で五千円もあれば十分だろう。……十分だとは思うが、念のため口座から三万を取り出した。直後に、昼飯で野口さんが二枚ほど消えていったので、財布の中身は最終的に三万と少しで落ち着いた。


「……さて、こっからだよな」


 よく晴れた空を眺め、一人言を呟く。

 高千穂のバスターミナルまで歩いて向かった。時刻表によれば、熊本方面への便はあと三十分後に出発するらしい。その間特にすることもないので、休憩室のベンチに腰掛けて時間を潰す。僕以外に人はいなかった。

 このバスに乗れば、それで冒険は完全に終わる。いつもの日常が戻ってくるのだ。

 寝慣れた自宅のベッドを思い浮かべると、ここ数日の疲れが一気に押し寄せてきた。気持ちとしては一週間、いや一ヶ月くらい家を空けていた気がする。それだけ濃密な時間だったということだろう。

 確かに命の危険はあった。それなりに怪我もした。正直言って大変な時間だった。

 だけどもし、この旅の記憶を完璧に消してしまえるとしたら。それはとんでもなく勿体ないことだと思う。

 むしろ忘れていい筈がない。


「……駄目だ、これ以上はやめよう」


 名残惜しさが降り積もるあまり、いつまでたっても帰れなくなってしまいそうだ。

 何か別のことを考えよう。そう思い、強引に思考を切り替える。そこで、僕はふと、これまで忘れていたとある一件について思い出した。

 僕と、結城を名乗っていた狐の共通の友人――木崎加奈さんについてだ。

 彼女には、この事をどう伝えればいいだろうか。

 木崎さんが完全に無関係ならば話は簡単だ。狐については一切明かさず、何も知らないふりをすればいい。だが彼女は中途半端に情報を持っている。どこまで事態を把握してるか知らないが、少なくとも、結城が僕を探していることは知っていた筈。

 加えてややこしいことに、彼女は結城に間違いなく気があった。日頃からそんな素振りを見せていたし、昨日の電話だって、結城の安否を確かめるためにかけてきたものだった。僕を心配したわけじゃない。

 意中の相手が実は妖怪でした、などと聞かされても、すぐに受け入れられないのは僕自身よく分かっている。


「……どうすればいいんだろ」


 ため息をついても悩みは消えない。狐に騙されていたのは僕だけじゃないのだ。この上なく憂鬱な気分だった。

 シラを切るのは……多分無理だろうな。木崎さんは絶対に問い質してくる。適当な嘘で煙に巻くか、それとも正直に全てを話すか……。

 どちらを選んでもハッピーエンドにはならない。しばらく悩んだが決められなかった。彼女に訊かれたその時に決めることとして、ひとまず脳内から叩き出した。

 今のメンタルで延々と考えていたら、その内に心が砕けそうな予感があった。

 そうしていると、どこかからかエンジンの音が近付いてくる。僕は緩慢な動作で立ち上がると、やって来たバスに乗り込んだ。

 平日の昼間だからだろうか、乗客の姿はチラホラとしかない。狐から逃げるために飛び乗ったあのバスを思い出す。

 バスに始まりバスに終わるというわけだ。偶然の一致に苦笑いしながら、僕は手頃な席に腰を降ろす。それから窓枠に肘を預け、特に意味も無く外へ意識を向けて……。


 その瞬間、ハッと息を飲んだ。


「っ、待ってください!」


 入り口が閉まる直前、大声で叫んだ。車内中の視線が僕に集まる。何事か、と訝しむような雰囲気。しかしそんなものに構っている余裕は無かった。


「乗るやつ間違えました、すいません降ります!」


 運転手さんには迷惑そうな顔をされた。ごめんなさい。でもこうしなきゃならない理由があるんです。

 僕の必死さが伝わったおかげか、運転手さんが前方の出口を開けてくれた。手の平を上に向けて、促すような仕草。こちらからどうぞって意味だろう。

 お礼を告げて駆け下りた。危うく転びそうになりながら、僕はその勢いを保ったまま、遠くに見えた人影の方に向けて走り出す。

 見間違いなんかじゃない。見間違う筈が無い。

 数十メートル前方、交差点の先。背の高い細身の女性が、小走りでこちらに近付いてくる。腰まで届くその黒髪が、熱気を帯びた夏の風に乗ってなびいた。

 あんなに長い髪を持つ人を、僕はこの世で一人しか知らない。


「――黒羽!」


 応えて、彼女が手を高く挙げる。

 信じられない、まさか追いかけてきてくれるなんて。

 足が自然と加速してしまう。距離が十分に縮まった頃、段々と減速。最終的に、僕たちは微妙なスペースを空けて向かい合った。

 タンクトップにジーンズという機能的な服装。凜々しい烏羽色の瞳。身体は程良く鍛えられ、美しき理想の体型を有している。見るだけで胸が高鳴るレベルだ。

 黒羽がすぐそこ、目の前にいる。僕は思わず目を擦った。


「ハハ、生憎だが夢じゃないぞ?」


 可笑しそうに微笑む彼女を見て、今度は視界がぼやけてくる。目元にもう一度手を当てて、溢れそうになる涙を拭った。


「……どうして?」

「止めに来た。やっぱり帰らせたくない」

「でも、昨日の夜は『帰れ』って。人間と妖怪は関わらない方がいいって言ってたじゃないか。それがお互いのためだって」


 まさか心変わりでもあったのか。

 黒羽は口元に手を当てると、瞼を閉じて考え込む仕草を見せた。それから片目をパチリと開け、おどけたように小首を傾げる。僕の記憶に無い目新しい表情だった。


「……そうだな。確かに私はそう言った。だけどあの後で考え直したんだよ。妖怪と人間が一緒にいてはいけない。原則はそうだが、私たちならそれを乗り越えられると」

「じゃあ、本当にいいの? 本当に、これからも一緒にいられる?」

「本当さ。人と関わるリスクより、お前と共にいる幸せを選びたいんだ」


 冗談や嘘を言っているようには思えなかった。幻聴だとしたら随分と都合の良い内容だ。

 “お前と一緒にいたい”。心の底から聞きたかったその言葉が、僕の脳内で何回もこだまする。語りかけてくる黒羽の表情は、いつになくキリッとして真剣だった。


 ――あれ?


 何かが心の片隅に引っ掛かった。だけど僕がそのことを考えるより早く、彼女は一気に距離を詰め、僕の手を優しく包んでくる。

 同時に、ポケットの中でお守りの羽が震えた気がした。


「なぁ、ちょっと私に付いてきてくれないか。連れて行きたい場所があるんだ」


 返事も待たずに、黒羽は僕の手を引いて歩き始める。その強引さに驚きつつ、取り敢えず彼女に従った。

 高千穂峡の方角へ、僕がついさっき登ってきた道を遡るように進んでいく。市街地、とは言うものの、福岡の博多や天神なんかと比べて、高千穂のそれは実に小ぶりなものだ。すぐに民家は少なくなり始め、やがて人気の無い山道へと入った。

 それなりの傾斜がある下り坂だが、黒羽がスピードを緩める気配はない。

 やけに早足だな。どうしてそんなに急ぐんだろう?


「黒羽、連れて行きたい場所って?」

「その内に分かる」


 答え方もなんか素っ気ない。焦ってる、とでも表わそうか。なるべく早くこの場所から離れたがっている、そんな感じがした。

 きっと何かしらの理由があるんだろうけど……一体どんな?

 谷にかかった鉄橋を渡り、道路を逸れて川の方へ降りていくと、少し開けた場所に出た。

 後ろを振り返って気が付く。ここは見通しが悪いことに。車道からは完全に隠れる位置だ。

 頭上に張り出した木の枝のせいで、昼間だというのに薄暗く、吹いてくる風は肌寒さを感じるほどだった。


「……もういいか。ここなら落ち着いて話せるな」

「どういう意味?」

「言った通り」


 黒羽がパッと手を離した。それから唐突に腕を組み、右に、左に、ゆっくりと首を揺らし始める。猫みたいな動きだった。

 本当に何がしたいんだ……?


「――ふふん」


 鈴の鳴るような声で笑って、それから両腕を僕に向けて広げた。……え、何これ。もしかして僕を抱き締めるつもりか?


「く、黒羽?」

「表情を見ればよく分かる。わたしに会えて嬉しい、そう感じてるんだろ?」


 違う。今は喜びより戸惑いの方が大きい。

 直前で黒羽が追いかけてきてくれたと思いきや、強引にこんなところへ連れて来られ、挙げ句の果てに今、スキンシップを求められている。この展開は何なんだ。一体何がどうしたというんだ。フィクションだってもうちょっと脈絡あるだろうに。


「ほら、おいで」


 動かない僕に焦れったくなったのか、彼女の方から僕に手を伸ばしてくる。

 腕を背中へ、包み込むように。緊張で筋肉が強張ったが、逆らおうとまでは思えない。躊躇いつつも、僕はぎこちない動作で彼女を抱き締め返す。

 手の平を通じて体温が伝わって来た。温かいな。湧き上がる安心感に自然と頬がほころぶ。

 そのまま、彼女の首筋へゆっくりと鼻先をうずめ――。


 強烈な違和感を抱いて、反射的に身体を退こうとした。


「おっと、どうしたんだ?」


 だが動けない。身をよじって逃れようとする僕を、そいつ・・・は両腕でガッチリと捕まえ、離そうとしなかった。

 力を強くしてもう一度試すも、駄目。優しく押しのけようとしてもやっぱり駄目。それどころか、僕がもがく度に締め付けは強くなる。絶対に逃がさないつもりのようだ。

 見上げれば、愛しい筈の顔は残虐な微笑みに歪み、瞳には怪しい光が宿っている。自分の置かれた状況を理解し、鳥肌が一気に沸き上がってきた。


「く、放っ……」

「そんなに暴れてどこへ行こうというんだ? お前はもうどこにも行けない。どこにも行かせない」


 放たれた冷ややかな宣告に、僕はようやく、バス停で抱いた違和感の正体に思い至る。

 黒羽は僕を“汝”と呼ぶ。もしもこいつが本物の黒羽なら、“お前”なんて言い方する筈がないのだ。

 つまり。


「……黒羽じゃない」


 圧倒的に不利な体勢ではあるが、それでも気持ちでは負けまいと、僕は必死に目の前の偽物を睨み付ける。


「君は……何者だ?」


 その答えは、聞き慣れた声で返ってきた。


「二匹目ですよ」


 唐突に、その顔がぐにゃりと歪み始める。

 背丈は縮み、髪は肩の辺りまで短くなった。衣服はワンピ―スとスカートに変わり、女の子らしい雰囲気が一気に増していく。


「…………え?」


 混乱して理解が追い付かなかった。そこに現れたのは、僕の友人である筈の女性。


「木崎、さん……?」

「はぁい」


 今まで聞いたこともないようなトーンで頷いた彼女は、狼狽する僕を見てスッと目を細め、舌なめずりをした。


「どうして、ここに」

「私がいるのかって? 簡単ですよ、ずっと前から付いてきてたんです。見付からないように気を使いながら」


 哀れな獲物を嘲笑うかのように、彼女はチッチッチと舌を鳴らす。見覚えのある仕草だった。


「変だと思いませんでしたか? 霧の術を展開しながら楓くんを追い、あの化け烏と戦うなんて芸当、ただの妖狐には荷が重くないかって」

「何を……」

「二つを両立する力があれば、カラスごときに手こずったりしません」


 言われて、僕の脳内に電流が走る。

 いつのまにか、木崎さんの頭には狐の耳が生え、その後ろでは黄金色の尻尾がゆらゆらと揺れていた。ここまでくればもはや疑いの余地は無い。


 ……結城だけじゃなく、木崎さんも妖怪だったんだ。


 頭の中で、真っ赤な警告灯が点滅を始めたような錯覚を覚える。

 逃げろ。走れ。今すぐに……!


「っ、誰か――――もごっ!?」

「静かに。もう、ダメですよ? 人目に付きたくないから回りくどいやり方してるのに、見つかったらどうするんですか」


 口を強引に塞がれる。

 そのまま近くの木の幹に押し付けられた。逃れようと暴れる僕の身体を、彼女は見た目からは考えられないような力で強引に押さえ込む。抵抗の意思を挫こうとするかのように。

 全身から嫌な汗が噴き出して、思考は灰色に塗りつぶされていく。

 柔らかく、可愛らしかった彼女の面影はもはや欠片もない。

 敵意に満ちた瞳で僕を見下ろす、一匹の人外がそこにいた。


「聞きたいことは沢山ありますよ? 結城くんについてとか、邪魔者のカラス女についてとか、色々と」


 僕の頭を鷲掴みにし、勢いよく幹に叩きつけた。視界が歪み、身体に力が入らなくなる。続けざまにもう一度。微塵の抵抗も許されぬまま、僕の意識は容赦なく刈り取られた。

 こんなの、あんまりだ……。


「さ、“ゆっくり”お話しましょうね。か・え・で・くん」


 甘ったるい声が鼓膜を揺らす。

 そこで記憶は完全に途切れた。


 ※


 その頃、黒羽は物思いにふけっていた。

 何をする予定も無く、どこかに行く気力もなく。大岩の上に座り込み、ただ無価値な時間を過ごす。

 普段ならこんなことはしないのだけど、今の彼女は病気だった。正確に言えば病気に罹ったようになっていた。ため息と胸の痛みが症状だ。しかもおそらくこじらせている。

 何も聞きたくないし何も話したくない。この気持ちが何なのか自分でも分からない。

 自分から彼を拒絶したくせに、また会いたいなって考えてしまう。幸せに生きろと諭したくせに、私を忘れないで欲しいと願ってしまう。なんて馬鹿らしい矛盾だろうか。


「……楓」


 愛しい彼の名前を呼ぶ。それから唇を噛み締める。切り捨てたものの大きさに、切り捨てて初めて気が付けた。

 こうしてじっとしていると、想いは余計に厚く募って、しかも一つも減る気配が無い。

 ああ、自分はこんなにも弱かったのか。夏の昼間、蒼穹の下。一人でいるのがどうしようもなく寂しくて、身体を情けなく震わせる日が来るなんて。妖怪になった頃は考えもしなかった。

 やがて落ち着くさ。その内に楽になるさ。そう、いくら己に言い聞かせても、心は頑として納得しようとしない。

 足を縮めて頭を下げ、翼で包んで身体を丸める。

 直後、こめかみに焼けるような感覚を覚えて、ハッと顔を上げた。


 ……今、楓に渡したお守りが壊された。


 壊れた、のではない。何者かが意図的に破壊した。自分で作ったものだから、離れていてもある程度なら感じ取れるのだ。

 楓が危ない。

 あの羽を攻撃したということは、そいつにとってそれが邪魔だったという意味だ。つまりそいつは楓に害を為そうとしている。しかも現在進行形で。

 憂鬱な気持ちはいつの間にか消え、代わりに焦燥感が込み上がってくる。

 病気がどうのとほざいている場合じゃない。

 行かなければ。


「……待ってろ」


 直感で方角を導き出す。

 次の瞬間、黒羽は翼を広げ大空へと飛び出していた。

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