第29話:僕の知らない物語
楓の背中はあっという間に遠ざかり、足音もやがて聞こえなくなる。
十分に離れたと確信したタイミングで、軽く枝を蹴った。滑らかに地面へと着地した黒羽に、マヤが背後から問い掛けてくる。
「本当にこれでよかったのじゃな、黒羽?」
答えはもちろんイエスだ。
後悔は無い。したがって確認に意味は無い。昨夜の時点でもう決心は済んでいるのに、今更それを覆そうなどと思うものか。
「回りくどいやり方をするのう。お主の手から渡せばよかったろうに」
「私が出たら楓は帰ろうとしなくなるだろ。こうするのが一番いいんだ」
実のところ、黒羽は初めから木の上にいた。
名誉のために明言しておくが、別に盗み聞きを目論んでいたわけじゃない。楓の隣では寝付けないから、代わりにこっちで休息を取っていただけだ。そこへ楓がやって来たものだから、黒羽は動こうにも動けなくなった。その結果、気配を殺して、マヤとの会話に耳をそばだてるしかなかったのである。
マヤは初めから知っていたが、ありがたくも気を効かせてくれたらしい。
「あの少年は悲しんでおったぞ」
「……そうだな。楓は声に感情が出るタイプだ。ずっと聞いてきたから分かる」
「しかしこれからは聞けなくなるのう」
「十分味わったさ。私にはもう必要ないし、それに」
聞かないからって死ぬわけじゃないだろ。楓が立ち去った方角を見つめ、吐き出すようにそう呟いた。
しばしの沈黙が流れる。
「……その言葉は本心か?」
「本心だ」
「ならば何故、儂の方を見て話そうとせぬ」
ドキリとなった。
自分の望みに嘘をつくな。暗にそう諭されているようで、うなじの辺りに薄らと汗が滲んでくる。返事に詰まってしまった黒羽は、誤魔化しとバレるのを承知で、話題を強引に変えることにした。
「……そう言えば、私を主にするつもりだったなんて聞いてないぞ」
するとマヤはおどけた声を上げた。
「おや、告げてなかったかの?」
「間違いなく初耳なんだが」
「すまぬな、数百年も生きるといかんせん記憶が曖昧じゃ」
「何をとぼけてる。私に気を使ったのか知らんが、そうならそうと教えてくれればよかったのに」
追求するつもりはなかったが、マヤには黒羽が不満を覚えているように聞こえたかもしれない。背後で鼻を鳴らす気配がした。
「生まれてすぐに潰えた計画なぞ、伝えたところで意味はなかろう。別に隠すべきことでもない故、こうしてあの子には話したが」
「……そうか」
個人的にはあまり気にならなかった。精々ちょっと驚いたくらい。もし仮に最初からそのことを知らされていても、変わらず楓を探そうとしていただろう。
そう考えてみると、知らない方が少しは気楽だろうか。まあ別にどっちでもいい。もう過ぎたことだ。
さて、それはそれとして。
「……お守り、渡してくれて助かった」
「うむ」
マヤが頷く。
数時間前。黒羽は、楓への未練を振り払うべく、彼に会うための理由を自ら消し去ることに決めた。
マヤが渡したあの羽は、黒羽の翼から抜き取ったものだ。ありったけの霊力を注ぎ込み、楓だけを護る護符にした。そこらの浮遊霊程度なら簡単に追い払える程の強さはある。
作る過程でだいぶ消耗したが……致し方ない必要経費と考えよう。放っておけば霊力は回復する。
今回の妖狐のような、強い力を持っているやつまでは防ぎきれないが、普通に生きていれば同レベルの怪異に出くわすことはまず有り得ない。あの狐は例外なのだ。そしてその例外は、既に蛇神様の管理下に置かれている。
つまり、もう自分がいなくてもいい。
その瞬間、胸の奥に刺すような痛みを感じた。
「これ、どこへ行く」
「腹が減った」
最後まで一度もマヤを見ぬまま、適当な言い訳を残して広場から離れる。
あてもなく藪の中を進み、気付けばいつもの洞穴へと足が向いていた。
適当な場所に腰を降ろし、一つ、長い息を吐く。慣れ親しんだ筈の空間が妙に広い。
そこでようやく黒羽は、昨晩楓に貸してやった服が、洞穴の片隅に畳んで置かれていることに気付いた。
つい口元が緩む。そこらへ適当に投げ捨てておけばいいのに、やっぱりあいつはきちんとしてる。
ふと、足の裏に硬い感触を感じた。見てみればそれはクルミの殻。そういえば、昨日二人で食べたやつをまだ片付けてなかったっけ。
「……ああ、くそ」
こんなところにこんなものがあるせいで、楓のことを嫌でも思い出してしまう。忘れようと思うほど記憶が鮮明になっていく。
これまで通りの毎日に戻る。違いは少し。たった一つの習慣をなくすだけ。些細なことの筈なのに、今の私にはどうしようもなく難しく感じる。
楓からかけられたたくさんの言葉が、脳内を繰り返し繰り返し流れていくようで。
「“人の幸せを勝手に決めるな”か……」
ただ一度きりの怒った表情が、やけに印象深く焼き付いている。
……楓を帰らせたのは、ひとえに彼の幸せを考えた結果だ。人は人、妖怪は妖怪として別々に生きた方が良い。烏の頃からそう信じて疑わなかったし、妖怪になってその思いは更に深まった。十年以上も一人の人間を観察していれば、自分との違いはいくらでも実感出来る。
楓に恋をしている。ずっと前からそうだったし、この旅の中でもっと好きになった。けれどそれだけじゃ不十分なのだ。
だから、互いに望まない結末だとしてもこうする方が良い。
そう、これで――。
「……本当に、よかったのか……?」
問いへの答えは返ってこない。
端から求めてもいなかった。
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