第28話:別れの朝

 目が覚めたとき、黒羽はいなくなっていた。

 僕は一人で洞穴の中に寝かされ、脱ぎ捨てた服がすぐ隣に畳んで置いてある。手繰り寄せてみれば、もう十分に乾いていた。

 袖の辺りに血の沁みが付いてはいるが……まあいいか。どこかで新しいのを買うとしよう。

 手早く着替えを済ませ、おそるおそる外に出る。

 枝の隙間から見える空はほんのりと青白かった。もうすぐ夜明けのようだ。


「……黒羽?」


 名前を呼んだ。一度目は小さく。


「黒羽――!」


 声を張り上げてもう一回。どこからも返事は帰ってこない。岩棚の上まで這い上がってみたが、彼女はそこにもいなかった。

 一体どこへ行ったんだ。……考え込もうとした矢先、昨夜、黒羽の術で眠らされる直前の記憶が脳裏に蘇ってくる。

 哀しげな声と辛そうな微笑み。そして唇の柔らかな感触。きっとあれは、彼女なりに別れを告げたつもりだったのだ。

 一度は僕の気持ちに応えてくれたけど、人と妖怪が結ばれるのはやっぱり駄目だと考え直して。諦めの悪いこの僕を強引に黙らせ、安全な場所に一人で残し立ち去った。そんなところか。

 おおかた、こうすれば僕も大人しく帰るだろうと考えたに違いない。そしてその予想は当たっている。黒羽の居場所が分からなければ僕だって探しようがないからだ。


「……なんでだよ」


 堪えきれずに悪態を吐いた。

 黒羽は黒羽なりに僕のことを想い、最善の道を僕に歩ませたかったのだろう。その好意は嬉しいが、いい迷惑だ。人の幸せを勝手に決めないで欲しい。

 嫌だと一度でも言ってくれたら、僕だって区切りがついたってのに。よりにもよってあんな別れ方で、僕が納得するとでも思ったんだろうか。

 胸の辺りが締め付けられる。しばらくの間、僕は心細い気持ちで立ち尽くしていた。

 ……何が足りなかったんだろう。

 僕たちの価値観は違った。彼女にとって種族の差は、僕が思うよりもずっと大きく、埋めがたいものなのだろう。十年以上も僕を見てきたのなら、尚更そんな風に考えそうだ。

 喪失感で、頭が上手く回らない。

 一人でいるのは好きな筈だった。けれど今では静けさが寂しい。きっともう元には戻れない。

 行き場の無い感情が渦を巻く。喉の奥から嗚咽が漏れてくる。気付けば僕は膝を付き、拳で意味も無く地面を殴りつけていた。


「……っ!」


 擦り切れて血が滲む。当たり前のように痛かった。だがおかげで、多少の冷静さが戻ってくる。

 深呼吸をしてから洞穴の中に戻った。狐と戦う前に置いていった携帯電話を回収する。命がけの旅を一緒にくぐり抜けてきた相棒。確認してみると、電波は入っていなかったが、まだ三割ほど電池が残っていた。

 ……そういえば省電力モードにしていたっけ。過去の自分に感謝しつつ、ポケットに仕舞い込む。


「……よし」


 パチン、と己の頬を叩いた。心の整理はつかない。けれどひとまずは、家に帰るしかなさそうだ。

 それからしばらく時間を空けて。もう一度この山を訪れよう。願望に近い推測だが、もしかするとその頃には、彼女の気も少しは変わっているかもしれない。

 山を立ち去る前に挨拶だけでもしておこうと、マヤがいるであろう大木の方へと歩いていく。犬神様には色々と世話になった。無言で帰るのは無礼というものだ。

 草木をかきわけ、緩やかな斜面を登る。

 出会った時と同じ、目を見張るような大木の根元で、犬神はゆったりと身体を落ち着けていた。夜明け目前の薄暗い闇の中で、純白の巨体は仄白く輝いて見える。

 僕が近付いていくと、その耳がピクリと動いて、それからゆっくりと瞼が上がった。


「……お主か。よく眠れたかな?」

「……あんまり」


 苦笑い。「じゃろうな」と短い返事が返ってくる。


「黒羽なら少し前に飛び去って行ったぞ。今ごろはどこにおることかの」


 僕が訊く前にそう応えた。心でも読んだのか。不思議に思って眉をひそめれば、マヤは意味ありげに口元を歪めた。


「知りたそうな表情をしておったから、おそらく、と思ったのじゃ。生憎、儂では役に立てぬがの」

「大丈夫です。今、彼女と会ったところで、昨晩と何も変わらないだろうから」

「……気丈じゃな。お主とて辛かろうに」

「……泣いたところでどうにもなりませんし」


 半分くらい嘘だ。泣いたら今度こそ堪えられなくなりそうだから、必死に涙を我慢してるだけ。自分に対して虚勢を張っているに過ぎない。

 マヤにはその事もお見通しかもしれないが、別にどっちでも構わない。


「これからどうするつもりじゃ?」

「家に帰ろうかと思います」

「短い一泊二日じゃったの」

「もしかしたらまた戻ってくるかもしれませんけど」

「その時は歓迎しよう。ただし足場には気を付けるように」


 器用にも、片目だけをパチリと閉じてみせるマヤ。僕が転落しかけた時のことを言ってるんだろう。……そう言えば、そんなこともあったっけ。


「もう落ちませんよ」

「そうしてくれると儂としても安心する」

「気を付けます。……ていうか、今更かもしれないですけど、マヤ様って結構フランクな話し方するんですね」

「そうかの?」

「いや、だって」


 僕の記憶が正しければ、初対面のマヤにはもっと威厳があった筈だ。

 重々しい話し方。全身から感じる神々しいオーラ。まさしくザ・神様といった感じで、僕も思わず跪きそうになったものだ。

 けれど今では何かが違う。神々しさは消えていない。だけど、何というかそう、茶目っ気があるというか。雰囲気が昨日より柔らかくなっているような……。

 そんな感じのことをオブラートに包んで伝えると、犬神は面白そうに笑った。


「神にもよそいきの顔はあるというだけの話じゃよ。お主も初めて話す相手へは丁寧に接するじゃろう? それと同じ」

「は、はあ……」


 つまり、今はもう打ち解けたって意味だろうか。確かに僕も、昨日のような緊張は感じないけど。


「ちなみにこっちが素じゃ」

「えっ」


 ……本当に?


「意外そうじゃの」

「もしかして、神様ってわりかし人間っぽいものなんです?」

「わりかしも何もその通りじゃよ。人間も神も、大元は同じなのじゃからな」

「はい……?」


 ちょっと話について行けない。神様と人が同じって……どういう意味だろう。何かの比喩かな。


「その不思議そうな顔は何じゃ。人は皆、その身に等しく神の力を有しておるもの。常識じゃろうが」

「じょう、しき……?」


 疑問符に満ち満ちた声で呟けば、マヤはカッと目を見開いた。


「もしや、近頃の若者は古事記を読まぬのか……!?」

「……多分、読んでる方が少数派だと思いますよ」


 驚愕の表情を浮かべる犬神。いや、驚きたいのはこっちなのだが。


「愚かしいことじゃ。己の祖国の成り立ちを知らずに生きているとはのう」


 そんなことを言われても困る。古事記といえば日本で最古の歴史書だ。小説間隔でホイホイと読めるようなものではない。


「よろしい、儂の身体を背もたれにすることを許す。ここに座れ」


 おそるおそる腰を降ろした。マヤの尻尾がふわりと持ち上がって、毛布のように僕の身体を包む。


「そもそも、人が食べておる食物は全て神の身体から生まれたものでな――」


 まるでその目で見てきたかのように、犬神は淡々と神話を語る。

 曰く。太陽神アマテラスの弟であるスサノオノミコトは、神々の住まう高天原(たかまがはら)を荒らしたことで下界へと追放されてしまう。

 腹を空かせたスサノオは、食物神であったオオゲツヒメに食べ物を求めた。彼女は鼻や口、尻から様々な食材を取り出してスサノオに差し出したが、スサノオはそれを不浄と感じ、オオゲツヒメを殺害してしまう。

 その後、オオゲツヒメの屍体から色々な食物の種が現れた。稲、粟、小豆に麦、そして大豆。これらの種は五穀と呼ばれ、人々の農耕の始まりになったという。


「……つまり、僕たちは普段から神様を食べている、と?」

「そう考えて差し支えない。ここから先は言わずとも分かるな?」

「僕らの身体は神様で出来ている?」

「いかにも。故に、我らの距離はお主らが思っておるよりもずっと近いのじゃよ。神が民草を慈しむ理由でもある。勿論、真なる神々と人とでは天と地ほどの差があるがの」


 数日前の僕ならまず信じなかったような話だ。古事記なんてファンタジー小説だとさえ思っていた。けれどこうして本物の神様から聞かされれば、いくらそれが荒唐無稽であっても信じるほかない。

 そういえば、確かあの時。


「誰だって力を持ってる、って黒羽が教えてくれたんです。もしかしてそれも」

「個人差こそあれ、人がその内に神を宿しとる証拠じゃな」


 頷かれて、ようやく納得がいった。

 陰陽師の弟子でも寺産まれでもない僕が、黒羽に教えられて何回か練習をしただけで術が使えるようになったのは、本当に力があったからなのだ。彼女の言ったとおり、これまでは単に使い方を知らなかっただけで。結果的に、そんな力は無いのだと誤解していた。

 意味もなく、両手を閉じたり開いたりしてみる。

 何だろう、すごく不思議な感じだ。努力を重ねればもっと沢山のことが出来るようになるんだろうか。


「さて、もうじき夜明けのようじゃな」


 東の空が急速に明るさを増していく。山の陰から顔を出した陽光が、木の葉の間を縫って僕たちを暖めた。

 ……ああ、そろそろ帰らなくちゃな。


「綺麗な景色ですね」

「じゃろう?」


 大きく息を吐きながら呟けば、どこか得意気にマヤが笑う。

 遥か彼方、太陽と山頂が上手い具合に重なったその様は、台座に乗せられた大きな宝石のようにも見えた。


「儂にはもう味わえぬが、この温かみだけで朝が来たと分かる。先代の主から受け継いだ、高千穂で最大の宝玉じゃよ」

「へぇ、先代なんていたんですか?」

「うむ。立派な牙を持った白猪じゃった。まだ京に都があった頃、当時この山で二番目に長く生きていた儂に力を移し、そして果てた。安らかな最期じゃったわ。今は儂が座っているこの下で眠っておる」


 どこか寂しげな口調だった。過去を懐かしむような、遠く離れた友を惜しむような。僕には想像することしか出来ないが、きっとその猪神はマヤにとって大切な存在だったのだろう。


「もうじき、儂も同じようになろうの」

「……」

「どやつに力を遺そうか。未だ決まっておらぬ。そもそも素質のあるやつがいない。儂が主になった時と比べて、山の獣たちは皆小さく、馬鹿になっている」

「……マヤ様が黒羽を拾ったのは、もしかしてそのため?」

「お主は実に賢いの。その通り、当初はあの子に主を継がせようかと考えておった。儂が見つけた時点で、既にそれなりの力を持っておったしな。こやつなら、と期待したのじゃ」

「言い方から察するに、途中で気が変わったんですね」


 そう言うと、マヤは自嘲するように笑った。


「黒羽の気持ちはお主とて知っておるじゃろう。山の主になったからといって山からは普通に出られるが、それでも精神的にはここに縛りつけられる。真面目なあの子なら尚更な。じゃがそれは、お主を守ろうとする黒羽の望みと相反することじゃった。親が我が子の願いを潰そうとしてどうする」


 そのようなことは出来ぬよ。マヤの口から放たれた一言に、僕は底知れない愛情を感じ取って目を伏せた。

 子供を虐待する親は世の中にいくらでもいる。束縛する親はもっと多い。そんな連中と比較して、マヤの優しさは明らかに桁が違っていた。むしろ、だからこそ主として選ばれたのだろうか。


「あの子にとって、この山はあまりにも狭すぎる。鳥の翼は大空を羽ばたくためにあるもの、そうであろう?」

「……はい」


 そうとしか言葉が出てこなかった。感動の台詞も感嘆のため息も、ここでは全て余計なもののように感じる。


「まあ、さような老婆心を働かせた末、儂はこうして跡継ぎに悩んでいるわけじゃが」


 小さく苦笑するマヤ。


「素質って言葉が出てましたけど、黒羽にはそれがあったんですよね」

「儂の見る限りではな」

「素質の無い、他の動物に継がせるのは駄目なんですか?」

「可能ではあるが好ましくはないの。相応の器を持った者でないと、拒絶反応が生じかねん」

「拒絶反応?」

「注がれる力に肉体が耐えきれず起こる。分かりやすく言えば、死ぬか廃人になるのじゃよ」


 うわぁ、物騒な単語。

 僕を包んでいた尻尾がそっと持ち上がって、促すように背中を押してくる。もう行きなさい、そういう意味だろう。両脚に力を入れて立ち上がる。


「……ああ待て、お主に渡しておく物があった」


 マヤの足下から何かが浮かび上がり、僕の手の中にスルリと滑り込んだ。

 手を開けてそれを見てみれば、そこにあるのは見慣れた代物。不思議な力を仄かに感じる、一枚の黒い羽だった。


「これ、黒羽の……?」

「お守りだそうじゃよ。数刻前、儂に預けていきおった。自分がいなくともお主に危険が及ばぬように、と」


 そんなことまでしてくれるのか。

 十年前の夏の日、僕が彼女を助けたのはほんの気紛れだ。なのに彼女はそれだけで、命を賭けてまで僕を守り、離ればなれになっても守り続けようとしてくれる。……どれだけ恩返しすれば気が済むんだ、まったく。


「不要であれば、受け取らずともよかろうぞ」


 いらないわけがない。答えの分かりきった質問に、僕ははっきりと首を横に振る。

 目頭が一気に熱くなった。感極まってきた僕は、黒羽の羽を胸元に優しく抱き締める。


「……ズルいよ、ホント」


 卑怯だ。

 これを持っている限り、僕は彼女のことを忘れられない。一方で捨てることも出来ない。こんなの……まるで呪いのアイテムじゃないか。


「持って帰ります。ずっと持ち続けます」

「分かった。儂から伝えておこうかの。他に伝言はあるかね?」

「……一つだけ。“またね”と」

「一途じゃな」

「どこかの誰かと同じです」


 頑張って笑顔を浮かべる。ここを立ち去るのは哀しいが、それでも最後は朗らかに終わりたかった。


「さようなら、マヤ様」

「さらばじゃ、若者。お主の望むようにいきなさい。失敗はすれど後悔はせずに済む」

「はい」


 数百年を過ごしてきた神様の言葉だ。重みが違う。


「幸あれ」


 マヤからの祝福に首肯を返し、僕はその場を後にする。

 途中で振り返りたくなる気持ちを堪えて、黒羽と歩んだ獣道をゆっくりと遡っていく。あの時と比べて森は明るく、行きと違って帰りは至極順調だ。

 道に迷えば、帰らない言い訳になるだろうか。

 そんな悪巧みが心中に芽生えたが、意識して考えないようにした。

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