第27話:烏、天高く飛んで行け
頬に添えられた温かな感触が、僕の意識を現実へと引き戻していく。
ハッとなって身動きする僕を、黒羽は膝の上に抱き抱え、慈しむような目つきでうっすらと微笑んできた。僕の目元に艶やかな指を這わせ、雫を一つ、その上に掬い取る。そこでようやく、僕は自分が知らぬ間に涙を流していたことに気付いた。
「起きたか」
「……僕、どのくらいこうしてた?」
「数時間ってとこだな。もうすぐ日付が変わる」
全ての記憶を曝け出したとは思えないほど落ち着いた口調だった。何かを抑えているかのように、いつになくしきりに瞬きを繰り返す。
「……黒羽」
名前を呼べば、彼女はビクリと肩を竦めた。
「これまでも、僕を守っててくれたんだね」
「そうだ。楓があの日助けた烏、それが私。生死の狭間で苦しむ私に、汝は手を伸ばし希望をくれた。私が汝を守ってきたのは、そのときの恩返しがしたかったからだ」
「……しかも、烏の身体を捨ててまで?」
知ってしまった衝撃の事実に、自然と声が震える。予想より遥かに深く、長く、黒羽は僕のことを想っていた。本人に気付かれずともその人を守り続ける、だなんて、一体どれほどの覚悟があれば出来るというのだろう。
僕の質問に頷いたあと、黒羽は自嘲気味の笑みを浮かべて言った。
「全部見たから分かるよな。馬鹿みたいだっただろ? 守るって呼べば聞こえはいいけど、実際は汝に執着してただけだ。楓に寄ってくる浮遊霊どもと同じさ」
「同じじゃないよ。幽霊は憑く先を守ったりしない」
迷わず否定する。霊界の事情には詳しくないが、勝手な都合で粘着してくる連中と黒羽をいっしょくたにするなんて僕は嫌だった。
ロマンチストな頭だと嗤われるかもしれないけど、君と僕との関係は一言じゃ絶対に言い表せない、すごく愛しくて特別な何か。
黒羽のことを考えるだけで、焼けそうな程に胸が熱くなる。衝動的に手を伸ばし、僕は彼女に語りかけていた。
「ねえ、これからも一緒にいよう。今夜限りでお別れなんて嫌だ、君のことをもっと知りたいよ」
記憶を覗いた今なら分かる、彼女だって本心ではそれを望んでいる筈だと。黒羽の燃えるような情念を、ついさっき僕は我が身のように体感した。
けれど黒羽は首を縦に振らない。
「駄目だ。汝の側にはいられない」
「君だってそう願ったのに?」
「汝と私は何もかも違うんだぞ。人間と妖怪が結ばれて、幸せになった例が一体どこにある?」
「だったら僕らが初めてになればいいじゃないか」
身体を起こして、僕は黒羽と正面から向き合った。多少の不安には目を瞑り、懇願するように想いを伝える。
「この際だからハッキリさせとく。好きだよ、黒羽」
「――いっ!?」
僕の言葉に首を縮める。
当初の余裕はどこへやら。黒羽は分かりやすく狼狽し、対する僕はこれ以上ないくらいに積極的だった。
黒羽と出逢ってすぐの頃は、狐の攻撃から生き残ることしか考えてなかった。けど今は違う。
こちとら今夜が最後のチャンスなのだ。遠慮なぞ知ったことか。
「強くてカッコいい君に、抱き締められると胸がドキドキする」
「や、やめろ」
「凜々しい横顔に何度も見惚れた。結城が狐だと知ったとき、君の言葉に救われた」
「やめろっ……!」
「近付けば凄くいい匂いだし、たまーに見せる慌てた表情がとんでもなく可愛い。例えば今とか」
「だっ、だからやめろって言ってるだろ! 何がしたいんだ汝はぁっ!」
上擦った声で、真っ赤になって岩壁まで後ずさる。黒羽の表情を窺いつつ、僕は一歩分だけ距離を縮めた。微かに苦笑いを浮かべる。
「……よく言うよ。そっちは僕にあんなことまでしておいて」
「あれは仕方ないだろ! 楓の怪我を治すために、致し方なく――」
「そう。“あんなこと”しか言ってないけど、何のことか分かるんだ?」
「っ、この……!」
「余罪はまだあるよ。ついさっきの膝枕。バスやタクシーで僕を抱き寄せた。何度も僕を庇ってくれた。怖いの我慢して戦ってくれた。言われた台詞も全部覚えてる。何ならこの場で暗唱しようか?」
我ながら強引な口説き方だとは思う。普段なら恥ずかしくて出来なかっただろう。だが今夜ばかりは普通じゃなかった。僕の心持ちも、口説く女性の正体も全部。
「あんなの惚れるに決まってるだろ。責任取ってよ」
更に一歩、黒羽の方へ詰め寄る。
黒羽は情けない呻き声を出して胸の前で手を組んだ。烏羽色の瞳に月光を映し、迷うように目線を落とす。それから数秒後、彼女はキッと顔を上げた。
「……これを見ても、まだそんな事が言えるか?」
上半身を仰け反らせれば、黒羽の手足がたちまちに形を変えていく。両腕は大きな漆黒の翼へ。両脚は羽毛を纏って烏のそれへ。妖術で隠していた本当の姿が明らかにされていく。
数枚の羽が、花びらのように舞い散って落ちる。半人半鳥の姿に戻った黒羽は、翼を全開に広げて僕へと見せつけてきた。
「ほら、これが私の正体だ。人に恋しておきながら空への執着を捨てれず、完全に人になる勇気も無かった臆病者、それが私なんだ」
その声は、泣いてないのが不思議なほどに震えていた。
「私と一緒にいたい? ああそうか私も同じ気持ちだ! だけどな、生半可な覚悟じゃ続けていけない。続くわけない! たとえ最初は上手いこと出来ても、いつかは汝を不幸にしてしまう。それならばいっそ別れた方がいい」
彼女の不安は分からなくもない。人と鳥、しかも一方が妖怪となれば、似ているところを探す方が難しいくらいに何もかも異なっている。
例えば寿命。妖怪がどれだけ生きれるかは知らないが、人間のそれよりはずっと長いだろう。つまり先に死ぬのは僕。黒羽を残して一人だけ老いていくわけだ。たしかに悲しい。
「……どうだ。醜いだろ? 怖いだろ? こんなのと一緒にいるより、今まで通り普通に暮らした方が幸せになれるよな」
頷け、という無言の圧力。僕は静かに首を横に振る。
神話に出て来るような、異形の身体。初めて目にした時は驚いた。
だけど今は、もう。
「……怖くない」
再び手を伸ばす。後ろが岩壁なおかげで黒羽は後ろに下がれない。
艶やかな羽の隙間へと、櫛で梳かすように指先を差し入れていく。
「綺麗だよ。宝石みたい」
ふわふわだった。ずっとこうしていたい衝動に駆られる。
「黒羽の髪と、よく似てるね」
微笑みながら距離を詰め、あと一歩で身体が重なりそうなほどに近付いた。
困り顔になる黒羽。僕の決意をようやく感じ取ったのだろう。
「か、楓。待て」
「君のことが好きなんだ。嫌いになる方が楽だって分かってても」
「それでも、やっぱり私たちは――」
「君の不安も分かるよ。だけど二人で力を合わせれば、大抵の違いはきっと乗り越えていける。そもそも、鳥は空を飛ぶものでしょ。翼を捨てたら鳥じゃない。まあ、一部例外はあるけどね。別に黒羽が人じゃなくてもいい。僕は君が好きだし、これからも好きでいたい」
鎖骨の辺りに鼻先をぶつける。そのまま黒羽の首筋に沿って、僕は這うように頬ずりをした。
振り払おうと思えば簡単に出来る筈だ。黒羽は僕より力が強いのだから。
けれど彼女は、上擦った声で弱々しく僕に呼び掛けるだけで、抵抗らしい抵抗を何一つしようとしない。
柔らかくも固い、火照った身体。鳥類の体温は人間より高いと、以前にどこかで聞いたことがある。黒羽の身体が熱いのは、果たして生理的な理由か、それともそれ以外の何かなのか。
「ちょ、待てったら……!」
「嫌なら早く嫌って言いなよ」
言えるならの話だけど。意地悪な台詞を耳元で囁けば、黒羽は「っ!」と言葉を詰まらせる。
「ひ、卑怯だぞ!」
「何とでも言いなさい」
両腕で黒羽を抱き締める。少々……いや、結構強引に。
ハッキリと拒絶されない限りは、押して駄目なら押し倒せの精神で突き進もうと決めていた。それでもやっぱり、この一瞬だけは緊張が覚悟に勝って、身体の動きは自然とゆっくりになっていく。
分かってる。
これは全部、僕の悪質なわがままだ。
こうしてしまえば黒羽は断れないと、彼女の記憶を見て知ってしまった。
「待てって言ったじゃないか、もう……」
咎めるような呟きは、痺れそうなほどに甘かった。
温かい感触が僕の全身を包んだ。黒羽の翼が背中に回され、抱き締め返すように僕を彼女へと押し付けてくる。
応えてくれたことが嬉しくて、心臓は早鐘のごとく高鳴った。
そうして数十秒、いや数分くらいは体温を溶かしあっていただろうか。不意に、腕の中で黒羽が身じろぎをする。
「どうしたの」そう僕が訊けば、黒羽は小さく「いいや」と応えた。
「今になって気付いた。汝からは、善の匂いがするんだな」
「……何、それ?」
「説明は難しい。そうだな……喩えるなら、木陰に流れるそよ風の匂いだ。私には真似出来ない、心地良い……」
「……よく分からないんだけど」
「構わない。私が分かってる。それだけで十分」
黒羽は僕の耳元で深呼吸を繰り返す。吐息がかかってゾクゾクした。声の調子が妙に色っぽく感じるのは、果たして僕の気のせいか否か。
「そういえば、楓」
「何?」
「今、何時ぐらいだと思う?」
「え……さっき日付が変わったって言ってたから、夜中の一時前じゃないの」
「正解だ。つまり、まだ夜は長く続く」
……何が言いたいんだろう。不思議に思ったその瞬間、黒羽は唐突に顔を退き、真正面から僕の目を覗き込んできた。
美しい黒に否応なく視線が吸い寄せられる。呑み込まれるような感覚に、思考は泥沼のごとく掻き乱され。黒羽が何かするつもりだと気付いた時には、もう手遅れだった。
「人として生きろ。化け物と関わっても良いことなんて無いんだから」
「何を……」
「何もしないさ。そう、ただ……“少し、眠るといい”」
直後、全身からフワリと力が抜ける。
マヤにかけられたあの術と同じ、抗えない眠気が脳内に浸透していく。視界が斜めに傾いた。朦朧となって倒れかけた僕を、黒羽は優しく抱き留めて囁く。
「……すまない、楓」
応えを返す暇も無い。
薄れ行く意識の中で僕が最後に感じたものは、悲しげに笑う黒羽の気配と、唇に落とされた柔らかくてほろ苦い何かの感触だった。
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