第26話:夏の記憶(2)

 次に意識が戻った時、私は見知らぬ街路樹の根元にいた。

 爽やかなそよ風が羽の間を縫うように抜けていく。青空はどこまでも澄み渡って眩しい。身体を起こし、周囲を見回したが、そこは私の記憶に存在しない場所だった。

 都会から離れた郊外の住宅地、とでも呼べばいいだろうか。代わり映えのない人間の家屋が、道路に沿って等間隔で並んでいる。昼間だからか、人の気配は少なかった。

 自分はどうやってここまで来たのか、まったく記憶に無い。病院で治療を受けていた筈だが……誰かがここまで運んだのだろうか? だとしたら何のために?

 ともあれひとまず空に上がろう。そう思って翼を広げた時、私はある違和感に気が付いた。

 傷が、治っている。

 それどころではない。全身が異様に軽かった。あらゆる不調が身体から追い出されて、いつになく快適な心地なのだ。

 あの男性が治療してくれたのか。……いや、違う。傷跡まで完全に消えている。人間の技術がどれだけ凄くても、そんな芸当は不可能だ。これは、おそらく……。

 丁度いいタイミングで、杖をついて歩く老婆が目の前を通りがかった。耳元を掠めるように飛んでみるも、特に反応はない。別の角度から試しても同じだった。普通なら、怒るか驚くかするだろう。

 彼女は私が見えていない。考えるまでもなく、直感的にその理由を悟ってしまう。


 私は、既に死んでいるのだ。


 ※


 それから数日は、意味も無く彷徨うだけの日々が続いた。

 自分の置かれた状況は理解した。そうなった理由も、まあ、おおかた自覚してはいる。あの少年に近付きたい。だけどここからどうすればいいのか、私の小さな脳味噌ではどうにも思いつけなかった。彼を探し出す、そのとっかかりさえ無いのだ。

 途方に暮れていた私に、初めて声をかけてくれたのが師匠だった。


『烏の妖怪か。まだ変化して日が浅いようじゃの』


 後から聞いた話だが、既にその頃、師匠はほとんど視力を失っていたらしい。にもかかわらず、一瞥をくれただけで私の現状を読み取ってしまえるのは、やはり神様としての格の違いなのだろうか。


『あてが無ければ着いてきなさい。居場所を与えよう』


 私は頷いた。背中に乗せられ、純白の毛並みに半ば埋もれながら、高千穂の山までの数時間を過ごし。その道中で名前を授かった。


『ただいまよりお主を“黒羽”と呼ぼう。名無しのままでは不便じゃからの』


 後々になって名前の意味を知った時には、神様なのに単純だなと可笑しくなった。黒い羽。いやまあ確かにその通りなのだけど。初めて授かった名前というものに、最初の頃は違和感があったが、繰り返し呼ばれる内に段々と慣れた。すぐに愛着まで湧くようになった。

 一方、山の動物たちからは“マヤ様が拾ってきたやつ”と呼ばれていた。侮蔑的な意味合いはまったく無い。むしろ逆に愛されていた。間もなくして、私は山での暮らしにすっかり馴染んだ。

 ある日、私は師匠に事情を打ち明けて、楓という少年に会いたいと相談した。

 断られるとは思っていなかったし、実際、すぐに許可が出た。師匠は良い意味の放任主義者で、私にも他の動物たちにも、神様の立場から命令を下すことはほとんど無かった。その方針が幸いした。

 まず、師匠の知り合いである蛇神様のもとへと向かった。

 言うまでもなく、蛇は烏の天敵だ。てらてらと光る鱗に、不気味な艶のある瞳、考えるだけで怖気が走る。食べられたりはしない、師匠はそう言い切っていたが、蛇神と対面する時はそれでも本能的な恐怖を覚えた。

 高千穂の南、宮崎県の南端。日南の主たる白蛇は、大木のような巨体に反して穏やかな性格をしていた。マイナスの印象はたちまちに消え失せ、かの神とはそれから長い付き合いになる。

 恩人の少年を探している。そのことを告げると、蛇神はあからさまにテンションが高くなって、すぐに万全の協力を約束してくれた。

 蛇神のつて・・を辿って、私はあちらこちらへと飛び回った。他の神々からも追加で情報を貰いつつ、記憶を頼りに楓と出遭った神社を探し、そしてついに見つけ出した。

 幸運の女神なんてものが本当に実在しているなら、彼女はあの時、私に味方してくれていたのだろう。神社の敷地内にある神木から、鳥居の向こうに伸びる車道を眺めていたとき、予感のようなものを覚えた私はそちらへと飛んだ。学校の帰りだろうか、ランドセルを背負った一人の少年が、鼻歌を歌いながらのんびりと道の端を歩いている。


 それこそが楓だった。


 以来、高千穂の山と楓の家を往復するのが、私の習慣になった。

 普段は師匠のもとで暮らし、週に二度ほど彼のところに向かい。手頃な梢や電線の上から楓の影を追う。話すことも、触れることも叶わない状態だったが、その時の私は満足していた。

 だけど次第に欲が出てくる。物足りなさが少しずつ、けれど確かに降り積もって、黒い炎で胸の内が焦がされる。楓の姿を見るほどに、楓のことを知るほどに、私は彼へと惹かれていった。

 話したい。

 触りたい。

 声を聞きたい。

 寄り添って想いを伝えたい。

 許してもらえるなら……もっと先に進んだって構わない。私の想像力は思いのほか凄かった。

 実はいじめっ子だったとか、いたずらっ子だったとか、楓にそういった悪逆な本性でもあれば、簡単に見限れたのだろう。実際はそれと真逆だった。

 おそらく楓は、助けを求められたら断れない性格をしてるのだと思う。自然界では損にしかならない優しさが、彼の中では死なずに生き残っていた。予想……いや、私の理想通り。楓は実に献身的な少年で、それが垣間見える振る舞いの一つ一つが、私にとってはかけがえもなく尊いものに感じれた。

 けれど博愛的な性格は、時として悪いモノを呼び寄せることもある。

 楓が中学生になったばかりの頃、私は彼の近くに、一体の幽霊の存在を感じ取った。

 幽霊とは文字通り、死した人間の霊魂が成仏せず現世に留まったものだ。未練を叶えようとするあまり、優しそうな人間へ語りかけ、縋りつく。時に取り憑いて害を及ぼす。私が見つけた幽霊にとって、その標的が楓だった。

 どこで拾ってしまったのか。そいつは女の幽霊で、楓の背後から一定の間隔を保って追跡していた。しかも日に日にその距離が縮まってくる。楓は自分が狙われているとも知らず、いつもより疲れが溜りやすいことを不思議がりながら、普段と変わらない毎日を過ごしていた。

 やがて、楓の背中に触れそうな近さにまで幽霊が迫る。手を前に出して楓へもたれかかろうとしたその時、屋根の上から様子を見ていた私は、堪えきれなくなって飛び出した。


『楓から離れろ!』


 そう叫んだつもりだ。幽霊が理解していたかは知らないが。

 妖怪と幽霊では妖怪の方が強い。とはいえ体格差もあったので、そいつに挑むのはやっぱり怖かった。

 翼を広げて威嚇をし。

 くちばしで何度も女をつつき。

 捕まれば頑張って拘束から逃れ、返す刀で顔面に体当たり。

 必死で幽霊に攻撃を仕掛けて、やっとのことで追い払う。それでもしばらくは警戒を緩めなかったが、以降、女が再び姿を見せることはなかった。諦めてくれたのだろう。

 安心する一方で、懸念も募っていく。

 あの女と似た存在は世の中にたくさんいる。そして楓のような人間は、彼らにとって実に都合の良い救世主だ。潤んだ声で『助けて』などと頼られたら、人の良い楓のことだ、断れずに手を差し伸べるだろう。そして己の命を磨り減らしていく。

 師匠に事の顛末を話したところ、更に不安を煽るような返事があった。曰く、妖怪と違って幽霊は力が弱い。故にその場にいるだけで、近くの人間から生気を吸い取ってしまうそうだ。これこそ、憑依された人間が段々と衰弱していく理由だ、とも。

 そんなことを聞かされて……黙っていられる筈が無い。

 もしも世界が、楓の優しさを利用するようにできているのなら。それを守るのは救われた私の役目だ。

 命を捧げて楓を守ろう。悪意から彼を遠ざけよう。彼が彼らしく生きられるように。本人には知られなくても構わない。

 ……そんな、嗤えるくらいに自分勝手な決意を抱いた、次の日の朝だった。


 ※


 目を覚ました時、私は自分が一人の人間になってしまっているのに気付いた。

 背中とお腹の筋肉を使い、戸惑いながらも頑張って寝返りを打つ。翼と脚だけは烏のまま残っていることに安堵しつつ、寝床にしていた木の枝の上から飛び降りれば、重たい衝撃が足の裏から伝わって来た。目に映る世界の変貌ぶりに、私は自分が何倍にも大きくなっていることを知る。

 おそるおそる、身体を動かしてみた。首、問題無し。翼も今まで通り動く。脚もどうやら大丈夫そうだが、方法が分からなくて上手く歩けなかった。取り敢えず、空を飛んで師匠のもとへ向かった。

 強者の余裕か年の功か、半人半鳥になった私を前にしても師匠が驚く気配は無かった。変化に怯える私を見つめ、一言、微笑むように口にする。


『愛じゃな』

『愛?』


 あまり縁の無い言葉だった。思わず聞き返せば、師匠は『いかにも』と頷く。


『自分では気付いておらぬようじゃがの、お主の奥底には人間になりたいという強い願いがあった。黒羽を妖怪にせしめた感情に起因するものじゃ。少年への想いが強すぎるあまり、お主は自らの魂を意図せず変化へんげさせてしまったのじゃよ』


 私はポカンとなった。


『……信じられない。願っただけで姿が変わる訳ない。もしもそんなことが出来るなら、今ごろ世界は怪物だらけになっているんじゃないのか』

『その通りじゃ。妖怪は肉体のくびきに縛られぬが、それでも助け無しに自らを作り替えるのは不可能に近かろう。普通であればの』

『……普通?』


 意味がいまいち理解出来ない私に、師匠は笑ってヒントを出す。


『考えてみよ、ここは高千穂ぞ?』


 そこでようやく、合点がいった。


『……土地柄か』

『左様。この地はかつて天照大神あまてらすが岩戸に隠り、天孫ニニギが地上に降り立った場所じゃ。神々との縁が深く、霊力に満ちあふれておる。お主も何となく感じるであろう? だからこそ変化も起こりやすい』


 ……初耳だ。だけど納得は出来る。事実、師匠に連れられ高千穂に来てからは、街中をさまよっていた時よりも身体の調子がいい。


『まして、この山は儂の神域じゃからな。土地の力は他よりも飛び抜けて高い。こういうのを、人間の言葉ではパワースポットと呼ぶそうな』

『そうか。で、元には戻れるのか?』

『儂に訊かれても知らぬわ。お主の変化に儂は関与しておらぬし』


 師匠にも分からないのなら、他の誰だって同じに違いない。

 慣れない身体は扱いに手を焼くようで、軽くて俊敏な烏の頃が懐かしかった。

 もしも、ずっとこのままだとしたら――。


『……私は、どうすればいいんだ?』

『それはこの儂が答えるべき問いではあるまい?』


 突き放し気味の返答に、真夜中の空を飛ぶような不安を覚えた。何も言えずにその場を立ち去る。

 変化を引き起こしたのは私の心だ。となると、しばらくすればまた不意に元へと戻っているのではないか。そんな風に思っていた。

 しかし結局、いつまでたっても烏の姿には戻らず、気付けば新しい身体にも馴染んでしまった。


 ※


 半人半鳥になってからというものの、私が楓を見守る方法は大きく変化した。

 これまでならば他の鳥たちに混ざって、電線や屋根の上にでも乗っかっていればよかった。この姿ではそうもいかない。変に目立てば周りから警戒されるだろう。楓にも近付きにくくなって、本末転倒だ。

 だから私は変わることにした。

 人間の言葉を師匠から教わり。

 脚と翼を、人間の手足に変身させる術を身につけ。

 街中で暮らす動物たちや、色々な神様から人の世の仕組みを学んだ。

 身体だって鍛えた。いかなる危険からも楓を守り抜くために。

 一年近くを費やした末、言葉が微妙に堅苦しいことを除けば、私は人として違和感なく振る舞えるようになった。

 しかしそれでも、彼と私の距離が今まで以上に縮まることはなかった。

 楓に声をかけるタイミングはいくらでもあった。手紙を書くとか、ご近所さんを装って仲良くなるとか。たくさんの策を考えて、その全てが実行されぬまま消えていった。

 勇気を出そうとする度に、情けなさが私に足踏みをさせる。

 心も身体もどうしようもなく中途半端な存在、それが私。一方で楓の傍にいたいと願いながら、もう一方では空への執着を捨てきれない。そんな生半可な覚悟で、人と妖怪の垣根なんて越えられるわけが無いのだ。寿命も、生き方も、考え方も何もかも違うというのに。

 たとえ最初は親しくなれても、すぐに亀裂が走ってしまいそうで。

 仲違いして鳴く羽目になるなら、このまま片想いを続けていた方が幸せだと思った。

 伝えたい想いは募るに任せ、楓へ寄ってくる種々雑多な悪意を追い払う日々。季節が矢のように過ぎ去って行く。いつしか楓は大学生になって、一人暮らしを始めた。これまでよりも高千穂から近い場所だったので、個人的には嬉しかった。

 楓の周囲に、例の狐を感じるようになったのは、彼が大学二年になった春だった。

 気配と言ってもハッキリしたものではなくて、初めは何となく嫌な予感がする程度だった。術か何かで誤魔化していたのだろう。あいつが私に気付いていたかは不明だ。

 私は迷った。放っておくわけにはいかない。だが敵がどこにいるのか分からない。楓を丸一日観察してみても、そいつはまったく尻尾を出さなかった。これでは動こうにも動けない。その巧妙さから感じる格の違いが、私を更に躊躇わせた。

 こいつはこれまでのやつらと違う。正面から戦っても、きっと勝てない。

 高千穂へ戻った私は、師匠に詳しい事情を話し、楓をこの山に連れて来たいと伝えた。無事に許可を得て、再び楓のもとへ向かおうとしたその時、一匹の渡り鳥から奇妙な霧の報告を受け取る。

 狐に先を越されたのだ。次の瞬間、私は翼を広げて大空へと飛び立っていた。

 休憩も挟まず飛び続け、数時間後に霧の中へ突入する。そこでは私の直感も鈍ったが、数年間慣れ親しんだ気配を探し出すのはそう難しくなかった。

 幾度となく見つめた青年の背中。恋い焦がれてきた背中が目の前にある。

 私から彼への一言目は、緊張のせいでいつもより強張ってしまった。


『そこを動くな』


 そうして楓に声を掛け、そこから私たちの逃走劇が始まる。

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