第25話:夏の記憶(1)

 思い返せばあれは、私が初めて、空中で敗北を味わった瞬間だったように思う。

 同族に対して挑む、縄張り争いの戦い。

 自分より弱い相手に対して挑む、捕食のための戦い。

 生きるための戦い。

 勝った例こそ多くないけれど、その一方で負けたことはなかった。負けそうになったら逃げるようにしていた。

 蛇や狐は天敵だが、空へと舞い上がればもう追ってこられない。地上は危険で、空中は安全。巣立って間もない新米のからすだった私は、愚かにもそう信じ、あぐらをかいていた。

 それが完全に覆された。

 あの日。太陽の眩しい夏の日。悠々と空を飛んでいた時、私は荒鷲の襲撃を受けた。

 初めて出遭った最悪の捕食者。本能的に逃げようとしたが、烏が速度で猛禽類に叶う筈もない。背中にくらった強烈な一撃、それだけで私は屈服させられる。

 そして……。



 翼を動かす力さえ出せず、身体はグライダーのように滑空して降下していく。

 傷口が焼けるように熱を帯び、一秒ごとにズキズキと痛む。重症、それも命に関わるレベルだと、私は直感的に分かってしまった。

 陸に住む獣の大半と比べ、空を飛ぶ鳥たちの身体は脆い。それに同じ鳥でも、鷹や鷲のような猛禽類とは違うのだ。私には強力なかぎ爪も、遠くまで見通せる鋭い目も、まともな戦闘経験も何一つ持ち合わせていなかった。

 だから先ほど荒鷲に襲われたとき、私には逃げる暇すら与えられなかったというわけだ。

 絶体絶命。しかし、生きるのを諦めるにはまだ早すぎる。

 眼下に見えるのは鬱蒼とした緑と、その中を筋のように走る人間たちの道路。どちらに落ちても無事では済むまい。だがどちらかと言えば、森に落ちた方がまだ助かりそうだ。木々の下まで入り込んでしまえば、鷲だってさすがに見逃してくれるだろう。

 目を瞑る。やがて、衝撃がやってくる。

 枝葉に何度もぶつかる内に、勢いは吸収されていった。どこかへ掴まろうと両脚に力を込めるも、出血のせいかまともに動かない。地面へと石のように墜落した。

 木漏れ日が差し込む開けたその空間は、人間が神社と呼んでいる場所のようだった。

 風が吹く。十数秒が過ぎたが、荒鷲が私を捕まえに来る気配は皆無だった。

 よかった。ひとまず助かったみたいだ――安堵しかけたその時、視界が不意に暗くなる。

 真横から、狐の顔が目の前に現れた。血の臭いを嗅ぎつけてきたのだろう。瞳がギラギラと光っている。弱った私を見下ろして、狐は嬉しげに唇を歪めた。

 いい獲物だ。そう、恍惚と呟くかのように。

 逃げないと。思った直後、翼の付け根に激痛が走った。

 噛みつかれたらしい。狐の牙が容赦なく皮膚を貫き、肉を引き裂いてズブズブと食い込む。私は無様にも悶え苦しみ、気が付けばそのまま持ち上げられていた。

 必死に藻掻いて逃げだそうとするも、鳥と肉食獣では体格が違いすぎる。抵抗の意思を砕くためには、狐が首を一振りするだけでよかった。尽きかけの体力が一瞬で削り取られてしまう。

 それからとどめを差すように、狐は私を地面へと叩きつける。その時点で、希望など少しも残されてはいなかった。

 ただ一つ可能なことと言ったら、死ぬまで悲鳴を上げ続けるくらい。

 痛い。

 怖い。

 苦しい。

 お願い、誰か。誰か助けて――。


『――こら、離れろこいつ!』


 不意に、人間の声が聞こえた。

 狐は、キャン、と驚いたような鳴き声を上げて私を解放する。それから、何かと何かが争っているような物音。

 朦朧となった意識では、何がどうなっているのかも分からぬまま、私はただ痛みを堪え続けた。

 やがて静けさが戻ってくる。一人の少年が息を整えながら、横たわる私を見下ろしていた。


『……大丈夫?』


 狐の気配はもう感じない。この子が、追い払ってくれたんだろうか。


『うっわ、ひどい怪我してる』


 顔をしかめながら、少年は私を抱き上げた。

 何をする。離せ。


『暴れないで、食べたりしないよ。病院につれてくだけだから』


 自分の何倍も巨大な相手に、気が動転していた私を、彼は優しく宥めてから運んでいく。

 少年の表情はどこか辛そうで、目の端には涙が滲んでいた。私のものとは違う、血の臭い。彼もまた何らかの怪我をしているのだと悟った。

 それならどうして、彼は私を助けようとするのだろう。普通、我が身を治すのが最優先だろうに。

 死が近付いているのを感じながらも、私は生きる望みを捨てていなかった。なるべく体力を温存しようと、抵抗するのを止める。背中から伝わってくる少年の体温が、弱った身体に心地良く温かい。

 記憶はそこから途切れ途切れになる。焦ったような人間の叫び声と、爆走する車のエンジン音を聞いた気もするが、よく覚えていない。

 我に返った時、私は透明な箱の中に寝かされていた。

 白い布きれが傷口に巻かれ、身体を自由に動かせない。ならばとばかりに目と耳で周囲の状況を探ろうとした直後、私は、自分を観察する人間たちの視線に気が付いた。

 三人ほどいる。白衣を纏った男性と、中年の女性、そして私を助けてくれた少年だ。


『残念だけど、助かりそうにないね』


 男性が首を横に振った。

 言葉の意味こそ分からないけど、おそらく良い内容ではないのだろう。少年の顔が悲しげに歪んだから、きっとそうだ。


『出血がひどすぎるし、骨も何本か折れていた。じっとしているだけでも苦しい筈だよ。明日の朝までもつかどうか』

『そんな。叔父さんなら治せるでしょ? ここは動物病院なのに』

『……悪いね。もう少し早く治療が出来ていれば、可能性はあったかもしれないが』


 男の言葉に少年は肩を落とした。私のために悲しんでくれるのか。私が死のうが死ぬまいが、一切関係のないことだろうに。

 母親らしい中年の女性が、少年の肩にそっと手を乗せる。


『楓、そろそろ帰るわよ』

『やだ』


 なるほど、この少年にはそんな名前があるのか。

 込み上げる感情に自分でも驚く。私の喉では彼の名を発音できない。それがこんなにも口惜しいなんて。


『可哀想だよ』

『……もう夜遅いわ。また明日、様子を見に来ましょう?』

『でも、朝まで生きているか分からないんでしょ』


 箱の縁を握り締め、楓は再び私を見下ろす。随分と強情だ。

 ため息を吐いた母親に、白衣の男性が苦笑しつつ言った。


『もし良ければうちで寝かせることも出来るが、どうする』

『大丈夫なのかしら?』

『来客用の布団がある。息子は驚くかもしれないが、まあ従兄弟だ。仲良くするだろうさ』

『悪いわね、お願い』

『お返しに、今度ラーメンでも奢ってくれよ、姉さん』

『はいはい。……じゃあ、楓。その烏が気になるんだったら、今日は叔父さんちに泊めてもらいなさい。明日の朝、迎えに来るから』

『うん、分かった』


 よく分からないが、話し合いは終了したみたいだ。

 女性が立ち去って行き、男性と少年だけがこの場に残る。扉の閉まる音の後、足音は次第に遠ざかっていった。


『……楓くん、一つ訊いてもいいかい』

『なに? 叔父さん』

『このからすは野生だ。君のペットじゃない。家族でもない、まったくもって無関係な動物だ。それなのに何故、君はこの子を助けたのかな』

『……よく分かんないけど、何となく』

『何となく?』

『襲われてて、可哀想だったから』

『……そうか、なら仕方ないね』


 私の視界に入らない位置で、男性の笑う気配があった。


『ま、次からはもっとスマートなやり方を選ぶべきだ。野生動物は怖いんだよ。たとえばコウモリ。外国で、こいつに噛まれた女の子が、狂犬病っていうものに感染して意識不明になったことだってある』

『気を付けるよ。もう、痛いのは嫌だし』


 左手を振ってみせる楓。そこには私と同じように、白い布が何重にも巻かれていた。


『それじゃ、叔父さんは向こうの部屋で仕事してるから、何かあったら呼ぶんだよ』


 最終的に、私と楓だけが取り残されてしまった。

 何の気紛れか、彼は私に付き添ってくれるらしい。種族は違えど、多少なりとも寂しさは薄まりそうだ。

 お礼の一つでも言いたかったが、それを許さないほどに体力は磨り減っていた。

 夏だというのに冬のように寒い。いや、正確に言えば周りの空気は暖かいのだ。それなのに、身体からどんどん熱が逃げていく。

 自分でも上手く説明出来ないが、死が近付いていることは何となく分かった。

 何も遺せなかった、短い命。喉の奥から虚しさがこみ上げてきて、私は一つ、弱々しく鳴く。すると、それを聞いた楓は優しく微笑んでみせた。


『大丈夫だよ』


 何を言っているんだろう。人間の言葉が理解出来れば良かったのに。

 部屋の隅から椅子を持って来た楓は、私の近くにそれを置き、腰掛ける。それから唐突に鼻歌を口ずさみ始めた。

 幼子をあやすような、優しいメロディー。死への不安が溶かされていく。遠い昔、母鳥の翼に守られて眠った時の記憶を、ふと思い出した。


『……子守歌。小さい頃、お母さんがよく歌ってくれた。歌詞は知らないけど』


 段々と、意識は曖昧になってくる。

 そうだ。最後にもう一度、彼の顔をしっかりと見ておこう。

 最後の力を振り絞って寝返りを打った。私が動いたことにビックリしたのか、楓は歌うのを止め、私を覗き込んでくる。好都合だ。この距離なら視界もぼやけない。

 視線と視線が絡み合い、気が付けば彼に見惚れていた。


 ……ああ、綺麗な瞳だな。


 暗闇にけがされていない、透き通るほどに純粋な色をしてる。どんな風に世界を見ているんだろう。

 叶わないと分かっている。それでもやっぱり、もう少しだけこの子のことを知りたかった。

 見ず知らずの烏を、利益も無いのに狐から守ってくれた、優しくて勇敢な少年の命を見守っていたかった。

 もう一度……彼に触れてみたかった。

 ひときわ強い痛みが全身を貫く。無理に動いたせいで傷口が開いたのだろう。

 もうしばらく生きさせて。せめてこの夜が明けるまで。あてもなく何かにそう願ったが、世界はそこまで優しくなかった。そのまま、まるで眠りにつくように、私の意識は静寂へと溶けていく。

 ……それで終わりだと思っていた。

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