第21話:狐の運命

 悠然と横たわる犬神の前へ、黒羽が狐を投げるようにして置く。僕らの間の強張った雰囲気は、時間が経っても和らぐことはなかった。

 マヤは意味ありげに眉を持ち上げてみせる。あの川岸があるのは神域の外だ。だがそれでも、あそこでの出来事はある程度把握しているのだろう。黒羽に救われ、唇を重ね、そして彼女の正体を知った時のことを。

 僕も黒羽も何も答えなかった。マヤも何かを尋ねる気はないらしい。大きな鼻で狐の臭いを嗅いだ後「ふむ」と呟く。


「どうやら黒羽の見立てどおりらしいの。こやつは妖狐。どこの稲荷神にも属しておらぬ、完全な野良の狐から変化へんげした個体のようじゃな。……そして、お主に対し特別な恨みを持っておるぞ、人間よ」


 その断定に僕は肩を落とした。既に分かっていた内容ではあったが、一連の騒動は全て僕自身に原因があったと再確認すれば、どうしようもないやるせなさが募ってくる。


「正直……まだ完全には受け入れられません。受け入れたくなくて」

「そうかい。ま、お主にとってはまったくの善意でやったことじゃからな。裏目に出たとなっては、動揺もする」

「……理不尽ですね」

「お主の場合は不運と言うのじゃよ」


 マヤからの優しい言葉に少しだけ肩の荷が下りる。よくよく考えればただの言葉遊びなのだが、他人から言われるだけで説得力が五割増しになるから不思議だ。

 狐が目を覚ます気配は無い。川に落としてから結構な時間が経っているが、力を取り戻したような素振りも見せていなかった。

 死んでいるみたいだ。だが、黒羽曰くまだ生きているという。妖怪のことはよく分からない。


「なあ、あれこれと話すのは後でいいだろ」


 狐を見張りつつ、黒羽が言った。


「こいつを始末するのが先だ。師匠、決めた通りにやってくれ」

「よかろう」


 マヤは鼻をスンとならした。どうやら、この中で事情を把握していないのは僕だけらしい。

 黒羽に訊きたいことがたくさんある。だが、今それを口に出すのは明らかなタイミング違いだ。個人的な欲求はひとまず胸の奥に仕舞って、僕は再び狐へと目を向ける。

 どうやって退治するのだろう。黒羽には出来ず、マヤならば可能な方法とは一体何だろうか。

 邪魔かなと思いつつ、気になったので尋ねてみた。


「あの、これからどうするんですか?」

「どうすると思うかの?」


 ……いや、そんなこと言われても。


「さっぱり分からんという顔じゃな」

「普通のやり方じゃ駄目なんだろうなとは、薄々察してます」

「左様。こやつの首を噛み砕き、腹を裂き臓物を引きずり出すのは容易いこと。だがそれでは不十分なのじゃよ。妖怪に人の知る物理法則は当てはまらぬ。たとえ身体を粉微塵に破壊しても、魂が残る限り蘇る可能性がある。……難儀に聞こえような、お主には」 


 厄介だ、とは感じる。だがそれと比べて驚きは少なかった。だってこの狐は、投げ槍を腹にくらってもピンピンしているようなやつなのだ。私には殺せない、という黒羽の言葉も、今ならばすんなりと納得出来る。


「……でも、不死身ではないんですよね?」


 訊けば、犬神は首を縦に振った。


「古来より、人の子は魔術という手段で以て妖怪に抗った。儂はそんな回りくどいやり方を好まぬ。より手軽で、確実なすべを用いようぞ」

「つまり……?」

「食べてしまうのじゃよ」


 予想以上に生々しい言葉で、僕は思わず目を丸くした。

 食べるってことは……食べるってことだ。食事だ。その意味は分かる。だが想像が追い付かない。


「パクリと?」

「パクリと。一片の肉も残さず、みなまで」


 そこから、黒羽が説明を受け継いだ。


「相手を自分の一部として吸収すること、それが捕食だ。魂まで取り込む以上、食べられた側は二度と蘇ることが出来なくなる」

「それってさ、普通の生き物でも変わらないの?」

「当然だ。でないと今ごろ、世の中は草食動物の幽霊で溢れかえってるだろうな」


 なるほど、言われてみればそうかもしれない。詳しい理屈はちんぷんかんぷんだけど、取り敢えずイメージはついた。もはや僕の理解を越えていたりもするが、それは黒羽と出逢った時からずっとだ。今更である。


「ただし相手が自分より強ければ、取り込みきれない場合もままある。復活して、内側から身体を乗っ取ってきたりな。だから師匠に頼んだんだ」

「……マヤ様なら狐より力がある、と」

「余計な心配をしなくてもよくなるわけだな。……他にも理由はあるが」

「どんな理由?」

「こいつはちょっと食べたくない。小汚い。そもそも入りきらない」


 心から嫌そうな口調に、僕は狐へと齧り付く黒羽の姿を思い浮かべて……すぐに、頭を横に振った。うん、さすがにダメだ。なんというかその、ちょっと見たくない。野性的すぎる。


「理解したかの? それではそろそろ始めるとしようぞ。お主らは下がっておれ。血にまみれたくはあるまいて」


 言われたとおり距離を取る。マヤが自分で言っていたように、目は見えなくとも僕たちの居場所は把握出来るのだろう。狐の頭上で大口が開き、白い唾液が茶色の毛皮へと滴った。

 実を言うと、僕は残酷な場面が好きじゃない。

 しばらく目を背けていようか。そんな思いが心の中で芽生えたが、最後まで見届けろと自分に言い聞かせる。これは……清算なのだ。己の迂闊さがもたらした不運を、綺麗さっぱり片付けてしまうための。

 横たわる狐の首元に、マヤはゆっくりと口を近付けていく。大槍の穂先のようなその牙が、妖狐の魂を速やかに刈り取ろうとした……寸前。


「――なっ」


 突然、狐が魚のように跳ねた。直後に閉じられた犬神の口を紙一重で回避。そのまま地面を転がってマヤから離れていく。僕がハッとなった時、狐は既に体勢を整えていた。

 きっと、弱ったフリをして逃走のタイミングを窺っていたのだろう。一目散に茂みへと駆けていくその姿から、瀕死の獣らしい雰囲気は微塵も感じられなかった。

 まずい。ここで逃がせば面倒なことになる。何とかして捕まえないと――。


「待てっ!」


 黒羽が咄嗟に追いかけようとした。だがそれを、犬神は落ち着いた声で制す。


「よい」

「でも、師匠!」

「よいと言っておるのだ。老いても我は高千穂の神獣。侮ってもらっては困る」


 有無を言わせない重々しさだった。

 マヤの顔は狐へと向いている。その顎を微かに持ち上げて、大きく息を吸い込めば、純白の毛並みが小さないかずちを纏い始めた。

 なにか来る。予感のようなものを感じて、僕が反射的に身構えた、次の瞬間。


「――伏せよ」


 大きな音と共に、狐の身体がまるで巨大な手で押し潰されたかのように地面へと張り付く。

 手足をバタつかせて暴れるも、狐が不思議な力から逃れられそうな様子はない。いとも簡単に行われた超常的な現象に、僕は言葉を失った。

 すごい。いや、もうそんなレベルじゃない。格が違う。


「無駄な試みはやめよ。逃走の意思を捨て、我が眼前にかしずけ」


 淡々と命令が下されていく。すると狐は機械的に起き上がると、ぎこちない足取りでこちらへと戻ってきた。

 逆らう気配はない。逆らいたくても逆らえないのだろう。狐の顔はその身体に反して、誰が見ても分かるほどハッキリとした恐怖に歪んでいる。僕たちを襲ったあの時の威勢は、どこにも残ってはいなかった。


「怯えるでない。貴様の尊厳は侵さぬし、無駄な苦痛も与えぬ。この儂が山の主として保証しようぞ」


 マヤからの語りかけに返事はない。圧倒的な力の差を前に、哀れな狐はただ屈服し、果てしない絶望に全身を震わせるばかりだった。

 いい気味だ。

 ざまあみろ。

 こいつが死ねば、自分はそんな風に感じるだろう。

 ずっと前から僕のことを騙し、命を奪おうと策を弄していた。僕はこいつに足の肉を抉られ、黒羽は黒羽で大怪我をさせられた。僕に十分な力さえあれば、きっと迷わず殺している。向こうがこちらを殺そうとしているのだから、生きるためにやり返すのは当然のことだ。


 ……今の今まで、そう思っていたんだけど。


「さあ、瞳を閉じるのじゃ」


 マヤが再び大口を開ける。

 待ちわびた決着の瞬間だ。それなのにどうしてだろう、モヤモヤとした気持ちが心の片隅で渦を巻いている。正体は僕にも分からないのに、存在感だけがやけに大きい。

 どうしよう。不意に生まれる一抹の迷い。

 気付けば、口にしていた。


「――待ってください」

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