第20話:戦いの後。秘密を知って

 峡谷の上に人影が見える。長身でスラリと細く、見慣れた黒髪は腰の辺りまで無造作に伸ばされていた。

 その瞳が僕を捉えるやいなや、彼女は躊躇いもなく身体を宙へと投げ出す。足の裏で地を蹴って、一息の内に加速した。風のように速く、矢のように鋭く。落下を始めたのはこちらが先であるにもかかわらず、僕たちの距離はみるみる内に縮まっていった。

 信じられない気持ちで心は一杯になって、視線がそちらへと吸い寄せられる。


「黒羽っ!」


 震える声で名前を叫ぶ。そこで、僕は驚きのあまり目を見張った。

 彼女の手足が急速に形を変えていく。

 両腕は大きく横に伸び、漆黒の羽が無数に生える。やがて巨大な翼になった。

 それと同時に彼女の靴が、内側から膨らんで弾け飛ぶ。現れたのは枝のように細い四つの指。前方に三つ、反対側に一つ、それぞれの先端には爪がついている。

 考えを巡らせる余裕は無い。だがおそらくこれは――。


「――からす?」


 街に住んでも田舎に住んでも、見掛けないことはまず無いであろう真っ黒な翼。半人半鳥と化した黒羽の姿から、僕が真っ先に思い浮かべたのはそれだった。

 スピードを上げる。水面がすぐそこまで迫る中、彼女は勢いをつけて僕に追い付くと、広げた両脚で僕の胴体をガッチリと掴んだ。

 エレベーターが上昇する時の感覚を、数倍強力にしたような圧力が僕を襲う。


「……っ!」


 内臓が下へと押し付けられる。黒羽が翼を羽ばたかせ、全力で減速を試みていた。

 しかし止まらない。それでも彼女は諦めず、歯を食い縛って重力に抗い続ける。いつになく必死なその形相が、一瞬だけ悲壮な無力感に歪んだ。


 ――――直後、水飛沫。


 巨大なハンマーで打ち据えられたかのような衝撃が、背中から腹部へ強烈に突き抜けた。

 視界がぼやけ、肺の空気が押し出される。本能的に息を吸い込んだが、入ってきたのは川の水。鼻や口から喉の奥へ、更には気管にまで侵入し、頭が激痛で真っ白に染まった。

 数秒の記憶の空白。

 気付いた時には岸にいた。ゴツゴツとした石の感触が背中にある。視界に入るのは不安げな黒羽の顔。

 こうして地面に降りてなお、彼女の腕はまだ翼のままだった。


「楓」

「黒……げほっ……!」


 起き上がろうとして、盛大に咳き込む。口から水が吹き出した。


「焦るな。落ち着いて、ゆっくりと呼吸するんだ。……ほら」


 苦しくて涙目になっていた僕を、黒羽は穏やかな声色で包み込んでくれる。

 見れば、彼女の顔には擦り傷と土汚れが目立ち、絞められた首には痛々しい帯状の跡が残っていた。

 胸が割れそうな気分になる。あれだけ狐に痛めつけられたのにまだ僕を気遣うなんて、その負担は計り知れなかった。

 山ほど訊きたいことがあるが、生憎と余裕が無い。

 命の危険が過ぎ去れば、忘れていた右足の痛みが存在感を取り戻してくる。願わくは夢であってくれと、一縷の望みを胸に起き上がってみたが、傷口は今なお絶賛出血中だった。

 川の水がじくじくと沁みる。無数の針で絶え間なく突き刺されているようだ。

 痛い。

 男のくせに情けないとか、薄情なことを言わないで欲しい。

 僕だって動物に噛まれた試しはある。だが今回は規模が違うのだ。足の肉が引き裂かれるレベルの怪我なんて、産まれてこのかた一度も経験したことはなかった。

 足下の石が鮮やかな赤に染まるのを見て、僕は次第にパニックに陥っていく。


「ぐっ、黒、羽ぁっ……」


 助けて。

 縋るように名前を呼ぶ。そんなことしても痛みは和らがないというのに。

 僕の目の前で、黒羽は王子様みたいに膝をついた。その表情は固く、感情を押し殺しているようにも見える。

 右足を確認した後、僕には聞き取れない声で何かを呟いた。すると、その手足がたちまち人間のものに変わる。二の腕の怪我は既に消えていた。

 見慣れた姿に安らぎを覚えたが、一方で違和感は拭いきれない。


「安心しろ。すぐに治してやる」

「……回復の術?」

「そんなものは無い」

「え。でも、昨日とか自分で」

「あれは嘘だ」


 僕を怖がらせないように、黒羽はゆっくりと顔を近付けてくる。

 吸い込まれそうなほどに綺麗な瞳が、僕の頭をぐちゃぐちゃに掻き乱した。

 後ろへ下がろうとする自分がいる。

 彼女が見せた半鳥の姿に怯えを抱いている自分がいる。

 けれどそんなのどうでもいいと断言出来るほどに、心の大部分は黒羽の方を向いていた。

 その証拠にほら。こうして彼女に詰め寄られただけで、心臓はこんなにも高鳴ってしまう。


「な、なに……!?」

「私の霊力を汝に移し、傷を急速に治癒させる」

「く……ちで……?」


 驚きと多少の期待を込めて訊けば、彼女はやけにぶっきらぼうに返した。


「それが一番手っ取り早いんだ」


 身長の関係で、黒羽が僕を見下ろすような形になる。

 艶やかな指で僕の顎を支え、そのまま促すようにして持ち上げた。もう一方の手は耳の横を愛撫した後、うなじを経由してから後頭部を支える位置で止まる。

 僕が思わず首を縮めれば、黒羽の両手に力が込められて、僕の頭部をガッチリと固定した。


「……こら」


 じっとしてろ。

 咎めるように、そう囁いて……。


 その瞬間、唇が柔らかいもので塞がれる。

 世界の進みはゆっくりになった。まるで魔法をかけたみたいに。

 黒羽と触れた箇所を通じて、不思議な力が体内へと流れ込んでくる。喉を下ってお腹の中へ、手足の末端にまで余すところなく行き渡っていく。段々と力がみなぎってきた。

 全身で感じる何もかもが、溶けそうなほどに濃厚で。それでいて夢みたいに蠱惑的。心臓の鼓動は太鼓よりも大きく、思考が完全に寸断されてしまう。

 数秒か。それとも数十秒はそうしていただろうか。次第に身体から痛みが消えてくる。

 情熱的な時間は唐突に終わりを迎えた。

 世界の速度が元に戻る。名残惜しさを感じたけれど、遠ざかる黒羽を捕まえておくだけの勇気は無い。


「……あ」


 離れていく。酸素を求めてむさぼるように息を吸えば、僕たちの間にかかっていた銀色の糸も真ん中でぷつりと切れてしまった。

 微かに残るレモンのような味が、僕の心に焼き付いて離れない。

 自分は今どんな顔をしているのか、何となく想像がつく。きっと頬を赤く染め、ときめきに瞳を潤ませ、口を半開きにしたままで、催眠にかかったように黒羽のことを見つめているのだろう。

 どういうわけか黒羽もまた、目を見開いて僕だけを見ていた。

 傷はいつのまにか治っている。もう痛くもない。そうしてようやく、僕はついさっき黒羽が見せた姿について気を巡らせる余裕が出来た。

 あれは……何だったのだろう。

 脳内で記憶を辿っていく。術だとしたら辻褄が合わない。もしそうなら人から鳥になるとき呪文を唱える筈だ。しかしさっきは、鳥から人になるためにそれらしきものを口ずさんでいた。

 ここから導き出される事実はただ一つ。半人半鳥の身体、あれこそが彼女の正体なのだということ。


「……黒羽」

「……」


 返ってくるのは沈黙のみだ。

 考えれば考えるほど、黒羽のことが分からなくなってくる。彼女は一体何者で、どうして僕を守るのか。元から教えてはくれなかったけど、異形の姿を見た後だと、謎はますます深まるばかりだった。

 ただ一つ確実なのは、黒羽が僕の味方であることだ。そこだけは疑いたくない。


「……ここにいろ。すぐに戻る」


 再び手足を鳥に変え、霧の彼方へと飛び去っていく。

 僕は呆然となって動けなかった。

 五ヶ瀬川のせせらぎを除いて、森は静まり返っていた。遠くの方から激しく水の跳ねる音が聞こえてきたが、まもなくそれも収まる。

 やがて黒羽が、脚で狐を捕まえて戻ってきた。

 最初に言った通り、川の流れに晒されて力を失ったらしい。狐の身体は雑巾のように伸びきって、近寄ってみてもピクリとも動かない。僕たちを散々追い回し、苦しめてきた凶暴な妖怪も、これではただの獣同然だ。少々デカいけど。


「死んでるの?」

「いや、生きてる。……今は、な」


 淡々と応える黒羽。気のせいかもしれないが、僕には彼女が無理をして抑揚を抑えているように聞こえた。

 小さく何かを呟けば、彼女の手足がまた人間のものに変わる。

 やっぱりだ。信じたくはなかったが、二度もこの目で見れば信じるしかなかった。


 ――黒羽は、妖怪なのだ。


「十分に衰弱してるから抵抗は出来ないだろう。あとは、こいつを師匠のところに連れて行くだけだ」


 その事実を実感したせいで、途端に彼女との間に壁が出来た気がする。

 怖くはない。黒羽は黒羽だ、変わらない。そう、断言するのは簡単だった。だけどそれでも心のどこかに、彼女が人であったならと叫ぶ自分がいる。

 ああ、そう言えば。熊本で狐から逃げ切った時、術をかけた様子もないのに、黒羽の傷はいつの間にか治っていたではないか。当時は不思議に思ったが、何のことはない、自然に治癒したのだろう。妖怪なら、回復力も人間とは桁違いである筈だ。

 適当な嘘で誤魔化したのも、僕に正体を知られたくなかったからと考えれば納得がいく。


「……楓」


 仲良くなりたい。黒羽のことをもっと知りたい。大切にしたい。胸の奥底で密やかに芽生えていた想いが、ことごとくその成長を否定されたようだった。


「楓」

「えっ」

「行くぞ」


 ……呼ばれたことにも気が付けなくて、それでまた、僕は自分がどれだけ動揺しているかを自覚する。

 黒羽は狐を担ぎ上げ、そのまま山の中へと入っていった。遭難しては困ると慌ててその背中を追いかける。

 術主の狐が弱っているからだろう、霧はいつの間にか晴れ始めていた。

 気まずい沈黙が僕たちの間を満たす。どうやら説明するつもりはないらしい。僕もまた、強引に問い詰めるだけの度胸が無くて、ただ黙々と足を前に出すばかりだった。

 きっと今、自分は生涯で一番ひどい顔をしているのだろう。

 鏡を見ずとも分かってしまう。そのことが無性に悲しかった。

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