第19話:決着

 鼓動がこれ以上ないくらいに早い。枯れ葉の積もった足場は悪く、気を抜けば足を滑らせてしまいそうになる。それでも、僕はスピードを落とすわけには行かなかった。

 捕まれば死ぬ。明確な死の恐怖に、僕の身体は普段以上の速度で動く。

 荒い吐息が段々と大きくなってくる。背後の追っ手は、少しずつその距離を縮めているようだった。

 怖い。

 常識的に考えて、獣の足に人間が勝てる筈がない。まして山の中ならなおさらだ。だがせめて。せめてもう少しだけ逃げ続けることが出来れば……。

 黒羽、ごめん。

 心の中で、ここにはいない彼女へと謝罪する。

 きっと黒羽は怒るだろう。『汝はどうしてあんなことをした』『死にたいのか』 問い詰める姿が目に浮かぶようだ。

 もしもそうなったら、僕はこう応えることにしよう。君は命がけで僕を守ってくれた。そのお返しだ、と。

 高慢ちきの英雄願望かもしれないが、僕が囮になれば、結果として黒羽は生きていられる。もちろん僕だって死ぬつもりはない。あくまで最悪の場合の話だ。

 生い茂る草木が目の前に張り出して、全力の疾走をしつこく妨害してくる。

 棘が素肌を引っ掻くが、この程度の傷に構っている暇はない。前へ。ひたすら前へ。事前に何度も道を確認したおかげで、霧の中でも迷ったりすることは無かった。

 それでも最後まで追い付かれずに済んだのは、考えてみれば奇跡だったかもしれない。

 延々と続きそうな茂みは唐突に途切れ、遊歩道の策を飛び越えた先。僕は開けた崖の上に出る。

 眼下から水の流れる音が聞こえてきた。霧に隠れて川の本体は見えない。しかしこここそ、僕と黒羽が狐を連れて来たかった場所なのだ。

 峡谷の縁で足を止める。

 一歩でも間違えれば、僕は数十メートル下の水面へと真っ逆さまだ。溺れる間もなく衝撃で死ぬか、良くて大怪我を負うことになるだろう。けれどそれは、狐だって同じ。

 木の枝や対岸までの距離を確認した時、背後で草を踏みしめる音がする。

 そこで、僕は覚悟を決めて振り返った。


「追い詰めたぜ」

「そう見える?」

「文字通り背水の陣ってやつだな? だが今回、別働隊はいないようだ」

「……狐のくせに博識じゃないか」


 拳では殴れないので言葉で殴った。ちなみにこれも作戦の内。頭に血でも上らせておけば、狐の思考力も少しは低下するだろうという希望的観測だ。

 失敗したときの殺され方が一層えげつないものになりそうだが、それでも構わない。


「許しを請おうとしないのか」

「したところで見逃さないだろ。それとも便宜を図ってくれるの?」


 問いへの答えは返ってこない。赤く染まった狐の瞳に、血も凍るような不気味な光が宿る。ある意味で分かりやすい返事ではあった。

 身構える僕。チャンスは一度きりだ。これが成功するか否かは……数秒後、嫌でも分かることになるだろう。


 こんなところで終わってたまるか……!


「死ね」


 狐が襲いかかってくる、その瞬間。僕は迷わず空中へと跳び出していた。

 峡谷にかかる無数の枝、その中でも一番太そうなものを目掛けて目一杯手を伸ばす。

 危なかったが何とか届いた。火事場の馬鹿力というやつだろう。指先にグッと負担がかかって、僕の体重で枝は大きくしなる。樹皮と掌が擦れて痛かった。

 僕一人の力で、狐を崖下に突き落とすことはおよそ不可能だ。故に搦め手を使うしかない。

 まず、ここからターザンの要領で対岸に着地する。後ろを振り向き、跳躍してくるであろう狐に対し向き直る。そのまま全力で足を伸ばして、やつが地面に到達する前に蹴り落としてしまえば――。

 ……後になって思ったが、僕は狐の身体能力を過小評価していたのかもしれない。

 なまじここまで逃げ切れたものだから、心のどこかに余裕というか、無意識の油断があったのだろう。

 勝利のビジョンを脳内に描いて、僕は向こう岸に飛び移ろうとした。刹那、右足に焼けるような痛みが走る。

 無数の刃物が皮膚を破って、内側の肉にまでズブズブと入り込んでいくような感覚。見れば、まるで釣り上げられた魚のように、狐が僕のふくらはぎへと食らいついていた。


「ひっ……!?」


 食べられてる。

 おぞましい事実が、崩壊寸前で踏みとどまっていた僕の理性をあっという間になぎ倒していく。それは理屈ではどうにもならない、まさしく本能的な恐怖だった。

 狐を振り落とそうと僕は必死になって暴れる。だがその度に、数十キロはあろうかという体重が噛み口に集中して、耐えきれなくなった筋肉が段々と千切れ始めた。

 痛くて怖くて何も考えられない。気が付けば、目の縁に涙が滲んでいた。


「ぐぁ……離、れろっ……!」


 それでも必死に落ちないようもがく。ひときわ強力な痛みが脳天を貫いたとき、僕は耐えきれず悲鳴を上げた。やがて、ブチリという残酷な音の後で、右足の感覚は残ったまま不意に重みが消失する。

 数秒後に聞こえたのは、重たい何かが眼下の川へと着水する音だった。


「は、はは……」


 目だけ動かして確認する。狐の巨体はこつぜんと消えていた。一部の肉が痛々しくえぐり取られて、生暖かい血がドクドクと溢れ出してはいる。だがそれでも……。


「や、やった」


 落とした。いや、落ちていった。

 あいつの噛む力が弱かったのか、それとも僕の体組織が完全に噛み千切られただけか、その詳細は分からない。

 何にせよ勝負はついたのだ。僕が勝ち、狐は負けた。手酷い怪我こそしたけれど、これでもう命を狙われることはなくなるのだ。平和が戻った――――そう、安心したのも束の間。


「……嘘」


 パキリ、と。頭上から乾いた音が聞こえる。

 嫌な予感に視線を上げれば、僕がしがみついていた木の枝が、今まさに限界を迎えるところだった。


「待って」


 きっと、狐を落とそうと暴れた際に負担がかかっていたのだろう。

 必死の懇願も虚しく、枝の中間に生じた割れ目は、僕の目の前でみるみるうちに広がっていく。打てる策はもう無かった。


 ……ああ、駄目かも。


 思った直後、真っ二つに枝が折れる。

 無慈悲な浮遊感。身体が下へと落ちていく。何かを掴もうと必死に伸ばした手は、僕の不運を嘲笑うかのように虚しくも宙を掻いた。

 助からない。

 押し寄せる絶望に、僕が全てを諦めかけた……その時。


「――――っ! 楓ぇっっ!!」


 聞き間違える筈もない、黒羽の声を耳にした。

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