第22話:博愛か、罪滅ぼしか

 その瞬間、六つの瞳が一斉に僕へと向く。

 唐突な提案に固まった黒羽と、興味深げに目を細めるマヤ。僕の言葉が理解出来なさそうな狐。反応は三者三様だったが、驚きという点だけはどれも共通していた。


「待ってください」


 聞き違いじゃない。そのことを明確にするように、もう一度はっきりとそう言えば、強めの力で左肩を掴まれる。黒羽が片手を腰に当て、訝しげな表情で眉をひそめていた。


「何のつもりだ?」

「……そのままだけど?」

「説明しろ。どうして止めた?」


 語気を強めて問い質してくる彼女は、いつになく不服そうな雰囲気だ。


「まさか許すって言うんじゃないだろうな。私らはこいつに殺されかけた。こいつをどうにかしない限り、汝に平和な毎日は戻ってこないんだ」

「分かってるよ」

「それなら躊躇う理由なんて無いだろ」


 黒羽の言う通りだ。僕たちの行いは疑いようのない正当防衛。生きるために必要な暴力なのだ。

 狐に対する敵意だって、肺の内を焼きそうなほどに強いのを持っている。泣いてもわめいても懇願されても、こいつをみすみす逃してやるつもりなどない。ただ――。


「……もしかしたら、別の方法もあるんじゃないかなって」

「はあ?」

「だから、他のやり方だよ。例えばその、封印するとか。別に命を取らなくてもさ、完全に無力化出来ればそれでいいんじゃないの」

「……汝、それは戦術的ミスだぞ」

「知ってる。だけど思ったんだ。狐の言い分にも一応筋は通ってるなって。幸せな暮らしを台無しにされたら、僕だってそいつを恨むと思うし」


 一人言のように呟きながら、狐の顔面を見下ろす。潰れた片目はおぞましく醜く、そしてゾッとするほどに印象的だった。こいつをこんな風にしたのは、他ならぬ僕なのだ。

 どちらもある意味では被害者で、ある意味では加害者になる。そう考えると、憎しみは途端に勢いを失って、胸の奥に何かが詰まっているような感覚に襲われた。


「……ああ、くそ」


 相反する思いに悪態をつく。どうせならどこまでも理不尽であって欲しかった。そしたらこうして迷うことも無かったのに。

 この葛藤に名前をつけるとしたら、選択肢はきっと一つしかない。


「罪悪感があるんだ。ここでこいつを殺したら、多分それは一生消えない」

「だから殺さず生かしておくと?」

「可能なら」

「正気か?」

「正気だし、本気だよ」

「……ったく、冗談にしては趣味が悪いぞ。生かしたまま無力化なんて、そんな、中途半端な……」


 黒羽が頭に手を当てて、ひときわ大きなため息をつく。

 彼女としては絶対に受け入れられない提案だろう。狙われたのは僕だが、実際に傷付いたのは黒羽なのだ。その時点で僕は彼女に頭が上がらないし、彼女の意思を無視するなど論外もいいところ。とはいうものの、安易に妥協するのも僕は嫌だった。

 博愛主義者だと言われるかもしれない。こんなことしても狐の憎しみは消せない。だけどこの場で意見を下げれば、僕はまた一つ大切な何かを失ってしまう気がした。


「守られてばかりの僕に、こんなことを言う資格なんて無いと分かってます。だけどもし、今よりも穏便なやり方で事が済むなら、僕はそっちを選びたい」


 マヤに向かって訴える。構わん殺せとどうしても言えない自分に、言い表しようのない無力感を覚えながら。


「ありますか。そんな、都合のいい方法が」


 ノーと告げられれば、大人しく諦めるつもりだった。


「まあ、可能かと訊かれれば可能じゃよ」

「師匠!」

「仕方ない。嘘はつけんじゃろうが」


 口元を歪め、マヤは短く息を吐く。山犬の表情は読み取るのが難しい。僕には笑ったように見えた。


「儂はどちらでもよい。お主らに決定を委ねよう」


 表面上は、神様らしく中立を保っている。だが僕にとっては強力な賛同者を得たも同然だった。私情以外に、狐を殺す理由が無くなったのだ。


「……黒羽は、納得出来ないよね」

「だが汝も引き下がる気はない、そうだろ」


 僕が無言で頷けば、黒羽も沈黙のまま唇を噛む。

 これは信念と性格の問題だ。たった一つの冴えた解答なんて無い。話し合っても永遠に埒はあかないだろう。

 黒羽の正体を知って動揺した直後なだけに、ストレスで息が詰まりそうな気分だった。


「間違ってる」

「だとしても、僕はこうする方がいいと思う」

「……」


 黒羽は何も応えない。応える気力すら湧かないみたいだ。心底不愉快そうに頭を掻いてから、せわしなく色々な仕草を見せる。苛立たしげにつま先で地面を叩き、視線をあちこちに動かしてはまた僕へと向き直った。一番最後は舌打ちだった。


「……ホント、どんだけお人好しなんだよ、汝は」


 苦笑いを浮かべ、手をヒラヒラと降る黒羽。呆れと諦めが半々に入り混じったような、何とも言えない表情だった。そのまま唐突に踵を返すと、彼女は洞穴の方角に向けて歩き去ろうとする。


「ちょっ、黒羽!?」


 慌てて呼び止める僕に、彼女は振り向きもせず言った。


「好きにしろ」

「え」

「好きにしろって言ったんだ。私の目的はどっちにしろ果たせた」

「目的って」

「“汝を守りに来た”。一番始めに伝えてるだろ。……忘れたのか」


 そうだった。いつのまにか狐を倒すことに意識が向いていたけれど、思えばそれは方法に過ぎなかったのだ。僕を守り、怪異から生き延びさせるための。

 何よりも大切な部分をあわよくば失念しかけていた自分が、どうしようもなく情けなく思える。


「私が手伝うことなんてもう無い。狙われたのは楓だ。そいつの始末も汝のこれからも、自由に決めればいいさ」


 迷いの無い足取りが、声を掛けようとした僕を躊躇わせた。細身の背中はあっという間に遠ざかっていき、やがて、木々の影に隠れて見えなくなる。

 何だか黒羽に突き放されたようで、僕は呆然とその場に立ち尽くしていた。

 考え方だけでなく、種族的な違いまで理解してしまったからだろうか。さっきまですぐそこに居てくれた筈の彼女が、今は果てしなく遠く感じる。

 刺されたような胸の痛み。それに名前をつけることで、想いは一層激しさを増していく。

 恋してる。

 僕は黒羽に恋していた。

 隣に彼女がいないだけで、心はこんなにも悲鳴を上げてる。恋を病に喩えた詩人も、きっと似たような苦しみを味わったのだろう。彼か彼女か知らないが、最高で最悪なセンスの持ち主だ。

 無意識の内に手を伸ばす。届く筈もない。虚空を掻いた指先はやがて力なく垂れ下がり、気が付けば僕はうなだれていた。

 夕暮れ時の太陽が山の端の向こうへと沈んでいく。まるで照明を切ったかのように、黄金色の世界が薄闇で覆われた。


「さて、結局こやつは殺さぬということでよいかの?」

「……はい。どうするんですか?」

「昨日、お主がここへ来た時に蛇神と出会ったじゃろう。あやつへ引き渡す」

「迷惑では」

「小間使いが欲しいと漏らしておった。迷惑どころか喜ぶじゃろうな。……ああ、案ずるな。狐が逃げ出す心配はあるまい。やつとて神格の端くれ、謀反を企てたところで胃袋へ直行させられるのみぞ」


 マヤから慰めの言葉は無い。多分、わざとそうしているのだろう。下手に気を遣われるよりも、淡々と物事を進めてくれた方が楽な時もある。

 マヤは遠吠えを上げた。何事かと驚く僕の耳元を、数秒後、何かが掠める。僕たちの周りをグルリと一周した後で、そいつは犬神の眼前へと着地した。見れば、一匹のウグイスだった。


「話は聞いておったな。伝言を頼みたい」


 一声鳴くと、ウグイスはすぐに飛び去っていった。僕にはさっぱり分からなかったが、どうやら会話は成立していたらしい。


「山から出れぬのは実に不便じゃ。動物たちの力を借りねば、外の連中と連絡を取ることさえあたわぬ」


 マヤが前足を立てる。大気に煌めきをまき散らしながら、純白の巨体はゆっくりと起き上がった。確認するように四肢を動かすが、その動きはどことなくぎこちない。自嘲気味の笑みを浮かべて言う。


「こうして立ち上がるのも何年ぶりか」


 空中から銀色の縄が生じて、狐の身体を完全に縛り上げた。抵抗する暇も与えず、そのまま逆さ吊りにしてしまう。狐も必死に暴れていたが、縄は切れるどころか軋むことさえなかった。


「こやつを麓まで連れて行く。お主はじっくり休むとよいぞ」

「……マヤ様」

「何かの?」


 優しい声色に、僕は拳を固く握り締める。

 訊いていいのか分からない。訊くべきことかも分からない。それでも、神様なら答えをくれるかなという希望に駆られて、僕は問い掛けた。


「……僕は、これからどうすれば」


 マヤが眉を持ち上げる。返事はすぐには来なかった。

 膿で汚れ、白濁した眼球が僕へと向けられる。質問はものすごく曖昧だった。しかし問いかけの真意も僕の中にある逡巡も、目の前の犬神には全てお見通しなのだろう。

 見えない筈の二つの瞳で、マヤは間違いなく僕を見ていた。


「お主は黒羽と似ておるの。あの子も以前、同じような質問を儂に投げかけてきた時があった。山の主にもなれるような存在なら、きっと正しい道を示してくれる、そう思ったのじゃろうな」


 図星だった。ドキリとなった僕を前に、唇の端をうっすらと持ち上げる。


「数百年を生きてきた儂にも、未だに分からぬものが二つある」

「……何ですか」

「女心と秋の空じゃよ」


 なんて役立たずな解答だ。そんな文句をつい口走りそうになってしまう。

 女心がどうとか、僕にしてみれば今更って感じだ。どれだけ親しい間柄でも、他人の気持ちなんて完全に分かりっこない。もちろん当然のことではある。だが今回の一件で、僕は見えないことが前にも増して恐ろしくなった。親友だと思っていた相手が、実は自分に殺意を抱いていたのだ。

 相手の心情が分からなければ、こちらの想いだって上手く伝えられない。いや、それだけならまだいいのだ。僕が一番避けたいのは……多分、失敗すること。

 僕は黒羽が好きだ。声にしてハッキリとは伝えてないけど、彼女もおおよそ勘付いているだろう。だが、どうすればこの恋が実るのか分からない。間違った道を突き進んで、望まぬ結果になってしまうのが怖い。

 彼女と袂を分かつのは、きっと何よりも悲しくて辛い。

 だからこそ僕はマヤに訊いた。具体的な答えでなくてもいい。せめて何らかの示唆を貰えれば……と。結果的に、その期待は儚くも裏切られてしまったわけだけど。


「お主がどうすればよいか。それは自分で考えることじゃ。迷いとは、幅広い可能性を持っていることの裏返し。喜べとは言わん。恵まれておるとも言わん。じゃがの、どれだけ苦しい環境に置かれても、選択を他人に委ねるでない」


 ……無慈悲なものだ。マヤの言葉は正しい。頭ではそう理解していても、肩を落としてしまう自分がいる。


「つまり、僕が決めろと」

「うむ。考え、悩み、選べばよい。それが出来ることこそ強さじゃ。時間は多くないが、それでもお主にはまだ残されておるじゃろう?」

「……分かり、ました」


 不安で押し潰されそうになりながらも、辛うじて首を縦に振る。返ってきたのは、我が子を慈しむような微笑みだけだった。

 僕はどうすればいいんだろう。

 どうしたいんだろう。

 胸に手を当て問い掛けてみるけれど、モヤモヤは少しも晴れてくれない。

 俯いた僕を横目に、マヤは巨体を揺らして立ち去ろうとする。その時、狐が叫んだ。


「おい、待ちやがれ!」


 見れば、狐は憎しみのこもった目つきで、僕の顔を睨み付けていた。


「俺はお前を許さねえからな! 情けを見せて、罪滅ぼしのつもりかよ?」

「……ああ、そうだね」


 言い返す気力すら湧いてこず、僕は苦笑と嘲笑を足して二で割ったような笑みを浮かべる。

 たしかに狐の言う通りかもしれない。よくもまあ、こんなにも的確な言葉を持ってこれたものだ。


「君の言うとおり罪滅ぼしさ。完全な自己満足だよ」

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