4章:霧の中の死闘

第17話:狐の陥穽

 瞬間、狼狽して立ち尽くす僕の隣で、ヒュッ、と風を切る音が響く。

 僕が状況を把握する間もなく、黒羽の手から離れた投げ槍は一直線に結城へと飛んでいった。コンマ数秒の後、鋭く尖った先端が彼の腹部に突き刺さる。結城は口から苦しげな呻き声を漏らすと、糸の切れた人形のように力なく仰向けで倒れ込んだ。


「っ、黒、羽……?」


 信じられずに僕は横を向く。

 今、彼女は何をした? どうして攻撃したんだ? 結城は僕の友達だ。味方なのに……!


「何し……やめろ!」


 応えず二本目を構える黒羽に、気が付けば僕は掴み掛かっていた。自分の分は足下に捨て。両手で黒羽の投げ槍を押さえ込み、奪い取ろうと試みる。

 純粋な力比べでは勝てない。僕だってその事実は承知の上だ。たとえそうであっても、彼女の攻撃を何とかして止めなければ。

 包丁レベルの凶器が正面から突き刺さったのだ。急いで手当てしないと結城の命に関わる。

 だが取っ組み合いが成り立ったのは一瞬だった。投げ槍を強引に一捻り。僕が思わず力を緩めたところで、黒羽は素早く背後へと回り込み、巻き付くようにして僕を拘束する。

 必死になって暴れたが、こうなっては最早どうにも出来ない。


「離せ! 僕の、僕の友達だ!」

「違う」

「違わない!」

「違うんだ! あれをよく見ろ」


 真剣な声にビクリとなる。黒羽の言う通り、僕は結城に目を向けた。

 腹からは赤黒い液体が流れだし、結城の周りに水たまりを作っている。悲鳴を上げる余力さえないのか、彼が何かを口走ることは無い。突き立った槍は墓標のように見える。

 突然、その足が動き始めた。

 足首が関節の限界を越えて曲がっていく。引っ張られたふくらはぎが、ピンと張られたロープのごとく宙に浮いた。天を向いていたつま先は、人体の構造を無視して弧を描き、やがて地面へと接触する。

 そこからはまるで巻き戻したビデオか、ゼンマイ仕掛けのロボットのよう。足先のわずかな部分のみを支点にして、倒れていた身体がゆっくりと起き上がっていく。

 異常な動きに鳥肌が立ちつつも、そこから目が離せない。


「人間じゃない」


 短く、だがはっきりとそう告げてから、黒羽は僕を解放する。そのまま僕の前方に割り込み、結城から庇うような位置で身構えた。


「……いやはや、やってくれるな」


 完全に立ち上がった結城は、肩を竦めてそう言った。腹部の槍を引き抜けば、血液が筋を引いて流れ出てくる。鉄臭い匂いが強さを増した。

 傷は浅くない筈だ。なのにどうして、そんなにも余裕で笑っていられるのだろう。


「一度死んでても痛いものは痛い。……まあでも、お前に片目を潰された時と比べれば、こんなのたいしたことはない」


 返事の代わりに、黒羽が槍を放つ。矢のような速度で飛翔するそれを、結城はこともなげに空中で掴み取ってみせた。


「ったく、手荒なもてなしじゃねえか」


 更に黒羽が槍を投げる。今度は両手で二本同時だ。片方は同じように防がれたが、流石に複数は対応しきれないのだろう。もう一方が結城の腕を掻い潜り、その太股に先端を深々と食い込ませた。


「おおっとぉ」


 なおも不気味に笑い続ける。体格の良い友人の姿に、僕は初めて恐怖を覚えていた。

 違う。

 僕の知ってる宗像結城は、絶対にこんなやつじゃない。


「……まさか」


 浮かんでくるのは最悪の予感。

 狐は他のものに姿を変える。それは黒羽が教えてくれた。だがどれだけ妖術が得意だったとしても、会ったことのない人間には化けられない筈だ。

 仮にこいつがそうだとしよう。すると、狐と結城は一度どこかで出くわしていたことになる。彼と僕とが友人関係にあると知っていれば、なりすましを目論むのも当然の帰結だ。そして大抵の場合、成り代わられた相手は隠蔽のため命を奪われる。

 だとすれば、本物の結城は今ごろ――。


「……嘘だ」


 絶望にかられて呟けば、そいつは口元に指を立てた後、チッチッチッ、と嘲るように舌を鳴らしてみせた。


「不思議に思わなかったか。お前たちが熊本にいることを、あの狐はどうやって知ったのか」

「……お願い。嘘だと言って」

「全部筒抜けだったんだよ。友達想いの誰かさんが、律儀にも居場所だけは教えてくれた。おかげで探し回る範囲がグッと狭まったぜ」

「結城……!」


 懇願するように彼の名を呼べば、返ってきたのはわざとらしく疑問符を浮かべた表情だった。


「結城? 誰だそいつは」


 ……どういう意味だ。


「なーんかおめでたい勘違いしてるんじゃねぇのか、楓よぉ」


 こいつは何を言っている? 結城の姿に化けているのだ。本人を知らないなんて、そんな訳が……。


「気付いてないなら教えてやろう。お前の同級生に、宗像結城なんて男は最初から存在していないんだぜ?」

「……え?」


 耳を疑った。

 結城が腕を一振りすれば、身体に刺さっていた槍はそれだけで皆、振り払われる。僕たちが目を見開き見つめる前で、彼は何かの儀式のように、両手を高々と天へ掲げた。

 直後、変化・・が始まった。

 皮膚という皮膚は茶色の体毛に覆われ、全身が獣のそれに形を変えていく。耳と鼻は三角形に尖り、四肢の先からかぎ爪が生えだした。衣服は内側から引き裂かれ、バラバラの布きれとなって周囲に散らばる。

 赤い瞳を爛々とたぎらせた、一匹の狐がそこに現れた。


「どうだ。見事な変身だろう?」


 姿は違えど声は結城のまま。その事実に、僕はゾッとするような違和感を覚える。 


「初めから、人間に化けた狐だった……?」

「そうさ。十年もかけてようやく見つけ出し、あのクソガキだと確かめるためお前に声をかけ仲良くなった。確信が持てるまでは動かないつもりだったが、こんな面倒なことになるんならさっさと殺しときゃよかったな」


 息が詰まる。怒りと憎しみの込められた嘲笑に、一言たりとも言い返せない。

 信じたくない。


「悲しいか? いい気味だ!」


 友だちだと思っていた。

 情に厚くて、趣味も合う、最高の相手と知り合えた。ずっとそう思っていたのに、全て演技だったのだ。僕は騙されているとも知らず、勝手に親しいと思い込み、更には彼の身を心配までした。

 熊本で狐に見つかったのも当然だ。自分で居場所を暴露していたのだから。

 巨人の拳で胸を殴られたような気分だった。


「俺はお前のせいで死んだんだ。お前はちょっとした善意からやったのかもしれないけどな、こっちからすりゃ堪ったもんじゃねえんだよ! 俺にはつがいがいた。もうすぐ子供も産まれる筈だった! それを全部失ったんだ!」

「……そんな。でも、僕は」

「悪気なんて無かったんだろ? いいよなあ。そうやって自分を正当化すれば、いくらでも善人ぶっていられるんだから。優男? お人好し? はん、俺からすりゃお前は極悪人だぜ」


 狐の言葉が、無防備な僕の心を容赦なく引き裂いていく。腹の底が黒くなった。多分、人々はこれを絶望と呼ぶのだろう。

 信じていた相手に裏切られ、そして人格まで否定される。それは、これまでに味わったどんな苦痛よりも辛く、残酷な仕打ちだった。

 全身から気力が抜けていく。喪失感に思わず膝を付きそうになった……その時。


「急々如意令、斬!」


 鋭い声が鼓膜を揺らす。直後に狐がよろめく気配。我に返った僕はハッとなって視線を持ち上げた。

 無造作に伸ばされた黒髪が、あるかなしかのそよ風に揺れている。


「黒羽……」

「こいつの言うことに耳を貸すんじゃないぞ。言葉責めは妖怪の常套手段だ」

「……だけど、たしかに本当のことだし」


 また、俯いてしまう。すると黒羽は背中を向けたまま、呆れたように盛大なため息を吐いた。


「よく聞け。善いか悪いかなんて見方次第だ。あるやつにとっては災難でも、別のやつには救世主になったりもする。言ったろうが。少なくとも助けられた側は感謝してるって」


 彼女は顔だけでこちらを向く。スッと細められた烏羽色からすばいろの瞳が、僕の脳裏に強烈に焼き付いた。


「こいつが汝を否定するなら、私はそれ以上に肯定してやるよ」


 ……黒羽。


「ほら、シャキッとしろ。こんなところで死にたくはないだろ?」

「……分かった」


 深呼吸。落ちていた槍を拾い上げ、僕は狐に向き直った。

 裏切りのダメージが消え去ったわけじゃない。胸は今でも割れそうな程に痛い。けれど黒羽が隣にいれば、僕はまだ立っていられる気がした。


「……見せつけやがって」

「悪かったな。けど本心だ」


 黒羽が目配せを送ってくる。僕は作戦通りに広場の縁まで後退した。近付いてくる狐の前に、黒羽が槍を構えて立ち塞がる。

 息を飲むような沈黙の中、一人と一匹は数メートルの距離を挟んで対峙した。


「二度ならず三度までも、か。邪魔なんだよクソ女」

「ほざいてろ、狐が」

 

 啖呵を切る黒羽。互いの初撃は、ほぼ同じタイミングだった。

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