第16話:襲来

 僕たちに残された最後の数時間は、諸々の準備と誘導経路の確認であっという間に過ぎ去り。僕の命運を決める戦いの時が、いよいよ間近にまで近付いてくる。

 時刻は夕暮れの手前だと思うが、立ちこめる霧のせいで太陽の位置は分からない。

 狐が近付いているのだ。熊本では間違いなく振り切った筈だが、どうにかして再び僕の居場所を特定したのだろう。纏わり付くような湿り気に僕は身震いをする。

 喉が渇いた。沢の水で潤したばかりなのに。

 周囲の物音に気を配りながら、僕たちは森の中を進んでいく。

 黒羽が手にしているのは、即興で作った手製の武器だ。落ちていた手頃な樫の枝を、黒曜石のナイフで削った簡素な槍。投擲用に小さめのものが四本。初撃の牽制が目的だ。

 加えて接近戦用に、一回り大きめのものを二本。こちらは僕と黒羽で一本ずつ持っている。狩りに赴く原始人の気分だった。

 こんなもので狐を倒せるとは思っていない。だが無いよりはマシになるだろう。


「ここからは師匠の力も届かない。用意はいいか」

「……うん」


 狐を油断させるため、僕たちはマヤの山から十分な距離を置く必要がある。既に覚悟は決めてきたけれど、安全圏から抜け出すのはやっぱり怖かった。

 我慢しろ。そう自分に言い聞かせる。黒羽が一緒なのだ。大丈夫、きっと無事に帰れる。


「……怖いか?」

「……怖くないって言ったら嘘になる」

「大丈夫だ。汝のことは私が守る」


 五ヶ瀬川に沿ってしばらく進み、途中で逸れて茂みの中に入った。

 次第に、水の流れる音が遠ざかっていく。それが完全に聞こえなくなった頃、僕たちは少し開けた空間に辿り着いた。

 黒羽に続いてその中心に進む。ここなら動きやすく、逃げやすい。見通しが良すぎて、ここにいるぞと自分から暴露しているようなものだが、今更って感じだ。どうせ相手に位置はバレている。

 森は静寂に満ちていた。

 湿度が高く、ジメジメと蒸し暑い。滲み出る汗で、肌着と素肌がピッタリと吸い付いていた。そういえば今は七月だっけ。


「ちょっと気になったんだけど、この霧の術って簡単に唱えれるものなの?」

「いや。汝に教えたやつよりも複雑で、使う力も莫大だ。私には無理だな。それがどうかしたのか?」

「こんな大規模な術を展開しながら追ってくるとか、本当に出来るのかなって」


 僕がホテルで術の練習をした時には、たった数回で息が上がり始めた。故に想像が付かないのだ。一体どれだけの力を持っていれば、広大な範囲に霧を生じさせながら黒羽と互角以上に戦えるというのだろう?


「……言われてみればそうだな」


 黒羽が眉を潜めて言った。


「あいつにそこまでの力があるようには見えなかった ……いや、単に私が気付かなかっただけなのか? それとも向こうが隠匿していた……?」

「そう言えば、熊本で見つかった理由もまだ分かってないよね」

「有り得ない筈なんだがな。この術で分かるのは“どこにいるか”までだ。“それが何か”までは突き止められないのに……どうして」


 彼女の表情が心なしか険しくなる。

 僕が不穏な雰囲気を感じ始めたその時、唐突にうなじの毛がぞわりと逆立った。


「――来た」


 妖怪、神様と立て続けに接してきたせいで、自然と直感が研ぎ澄まされていたのだろう。二時の方向。迫り来る敵意の存在が、今回ははっきりと感じ取れた。

 考えるのは後回しだ。僕たちは反射的に臨戦態勢をとった。


「私の後ろに! 油断するなよ」


 黒羽が僕を庇うように前に出る。目の前の濃霧を睨み付けながら、手に持った槍を静かに構えた。

 息が詰まるような数秒。

 霧の中から、木の葉を踏みしめる足音が聞こえてくる。リズムは至極ゆっくりと。徐々にこちらに近付いているみたいだ。

 来るなら来い。でも出来るなら帰って欲しい。相反する思いが脳内でせめぎ合う内にも、容赦なく時間は過ぎ去って、やがて霧の彼方から一つの影が浮かび上がってくる。

 輪郭が段々と明瞭になっていく。そいつは……予想に反して、人の形をしていた。

 誰だ? 違和感と共に凝視する。やがて僕の頭がその顔を認識した時、僕は思わず目を見開いた。


「……どうして」


 開いた口が塞がらないとは、まさしく今のような状況を差すのだろう。

 驚きのあまり文字通り言葉を失った僕に向かって、“彼”は軽快に片手を上げ、この場に似合わぬ朗らかな笑顔を浮かべてみせた。


「よう楓、無事で何よりだぜ」


 現れたのは他でもない。大学における僕の友人、宗像むなかた結城ゆうきその人だったのである。

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