第15話:戦いの前の一息

「ほら。汝の好きなだけ食べていいぞ」


 洞穴の奥から持ち出してきた麻袋を、黒羽はこちらへと放ってくる。キャッチしたそれはズシリと重く、触ってみればゴツゴツと固い感触があった。

 袋の口を開けてみる。入っていたのは無数の乾いた木の実だった。色と形には見覚えがある。


「これは……クルミ?」

「ご明察。オニグルミ、全部この山で採れたやつだ。美味しいし栄養も一杯ある。……まあ、もしかすると汝は食べ慣れていないかもしれないが」

「あまり食べないけど嫌いじゃないよ。クルミパンとか普通に買うもの」


 お金に余裕がある時だけね。余計な一言を付け加えて応えれば、黒羽は突然神妙な顔付きになる。


「……汝は、貧乏なのか?」

「違うよ。今のは言葉の綾」


 気遣うようなその口調がおかしくて、つい笑ってしまった。

 意味を掴めず瞬きを繰り返す彼女に、僕は簡単に事情を説明してあげる。


「僕って大学生だからさ。欲しいものを何もかも買う訳にはいかないって話。親からの仕送りにも限りはあるし。食材とか洗剤とか、必需品だけでも結構な額になるんだよ」

「そうなのか」

「たくさんバイトすれば金は稼げるけど、働くのが好きじゃないんだ。だから財布に余裕は無い。だけどそこまで貧しくもない。普通に暮らしてる」


 すると黒羽は嬉しそうに、「なら良かった」と頬を綻ばせた。


「普通に暮らせるのは喜ぶべきことだ。人知れず苦労しているのかと思って、不安になった」

「苦労しないわけじゃないさ。でも、時々クルミパンを買うくらいの自由はあるよ?」

「美味しいやつか?」

「うん」

「そうか! 実はな、私もクルミが大好きなんだ。お揃いだな」


 僕が手頃な岩棚に腰を降ろすと、当然のごとく、黒羽もすぐ隣に座ってきた。毎度のことながら距離感が近い。

 彼女のいい匂いが鼻をくすぐる。それを妙に意識してしまうのは、きっと自分が特殊な状況に置かれて、色々と気持ちが昂ぶっているからだ。

 袋からクルミを二つほど取り出す。見た目通り乾燥していた。殻付きの実物に触れるのは、考えてみれば初めてかもしれない。スーパーで売られているのは、どれも中身だけの加工品ばかりだ。


「……で、ここからどうするんだっけ」


 遠い記憶を呼び起こす。たしか、素手でクルミを割る方法があった筈。一つでは駄目。こう、二つを上手いこと組み合わせて……。


「固っ……!」


 割れない。なぜだ。


「かしてみろ」


 不甲斐ない僕の手の平から、黒羽はクルミを一つだけつまみ上げる。

 包み込むように持ち力を込めれば、バキリという小気味よい破砕音の後、強固な殻が一瞬で破片に変わった。

 何だろう、想像と少し違う。


「どうぞ」

「い、いただきます」


 真似出来ないな。内心で苦笑しつつ、僕は黒羽の手からクルミを受け取る。

 もう一個も。目線でそんな風に言われたので、大人しく二つ目を差し出してみたところ、黒羽はそちらも容易げに握り潰してみせた。


「凄い力だね」

「鍛えてるって言っただろ? 強くなければ大切なものは守れない。守られるのもいいが、守るのも同じくらい私の性に合ってる」

「……確かにそうかも。黒羽、喋り方だってどことなく武人っぽいし」

「武人っぽい、か? あまり自覚は無いが」

「正直めちゃくちゃカッコいいと思う」

「そうか。だとしたら嬉しいな。武人とは強きを以て弱きを守る者。私にピッタリだ」


 得意げに微笑む黒羽。僕は小さく肩を竦めた。


「なんか情けなくなってきた」

「どうしてだ?」

「男が女性に守ってもらうとか、一般的には逆じゃない?」

「それは人間の考えだな。自然に生きる動物たちを見てみろ。たしかに荒事は雄が引き受けがちだが、雌だって時として戦うだろ? カマキリみたいに、雌の方が強い生き物も多い。性別なんて大した違いじゃないのさ。守る力を持つ者が、守りたい相手を守る。ただそれだけだ」


 言われてみればその通りかもしれない。黒羽なりに励まそうとしてくれているのだろう。


「それに私は、戦って勝つだけが強さじゃないと思うぞ」


 彼女に殻を割って貰いつつ、僕はチマチマとクルミの実を口に運んでいく。生で食べるのは初めてだが、普通に美味しかった。微かに混ざる甘みがいいアクセントになっている。


「うん、美味い! やっぱりクルミは最高だな」

「食感がいいよね、ポリポリしてて」

「同感だ。ところで楓、喉は渇いてないか? 沢の水。汝が眠っている間に、上流の方で汲んでおいた」


 黒羽が洞穴の奥から持ってきた竹筒を、ありがたく受け取って傾ける。ちょうど飲み物が欲しいと思っていたのだ。

 冷たいせせらぎが僕の喉を下る。全身に染み渡っていくような感じがした。


「癒される」

「だろ?」


 得意げに語尾を持ち上げるのが、ちょっとだけ可愛かった。


「楓が飲んでるのを見たら私も欲しくなったな。すまない、余ってたら回してもらえるか?」

「えっ」

「どうした」

「いや、まあ、いいけど……」


 それって間接キスじゃない?

 思い浮かんだ素朴な疑問は、恥ずかしくて口に出せなかった。

 僕から受け取った竹筒の中身を、黒羽は豪快に一口で飲み干す。間違いなく同じ場所に口をつけていたが、彼女が気にするような様子はなかった。ドギマギしていたのは僕だけらしい。

 そういうとこだぞ奥手な自分。


「……黒羽は、ここに住んでるの?」


 ふと気になって、問い掛ける。少し考えてから黒羽が答えた。


「まあそんな感じだ。師匠と一緒にな」

「僕だったら不便に感じそうだけど」

「街中の暮らしに慣れていたらそう思うかもしれないな。私は違う。生きていくだけなら楽だぞ」

「本当に別世界だね。僕なんて実家が海辺にあったからさ。まともに山の中へ入ったのも初めてなんだ」

「そうなのか? それはもったいない」


 黒羽もクルミを食べつつ応える。小気味良い、ポリポリという音が洞穴に響いていく。

 次第にクルミの殻が積み上がって、足元に小さな山を形成していた。


「いつからここに?」


 遠慮がちにそう訊けば、黒羽は指についたクルミの欠片を舐め取る。それからゆっくりと話し始めた。


「何年か前。師匠がまだ山の外で活動出来たころ、拾われたんだ。それからずっとここで育てられた。色んなことを学ばされ、他の動物たちとも関わった。日本語を身につけるのとか苦労したよ。だけどおかげで汝とも話せる。今みたいに」


 黒羽の視線は真正面を向いている。けれどその意識は、どこか遠くの別の場所を思い描いているようだった。


「麓の街まで出たことはあるぞ? だけど“人間として”生きた経験は、ほとんど無い」


 気付けばクルミをつまむ手が止まっていた。僕は洞穴の壁に背を預け、黒羽が初めて語ってくれた過去に思いを馳せる。

 拾われた。ということは、彼女は捨て子だったんだろうか。

 親が子を見捨てるなんて想像すら出来ない。だがそれはきっと、自分が恵まれた環境で育ったからこそ持てる考えなのだろう。この胸にある同情の思いだって、彼女からすれば勝ち組の傲慢みたいなものだ。


「……じゃあ、学校とかには行ってない?」

「一度も」

「働いたりも」

「してるように見えるか?」

「……ごめん」

「謝ることじゃない。これでも私は幸せだ。今も今までもずっと、な」


 淀みない声色に僕は圧倒された。自分の人生を、こんなにもハッキリと肯定出来る人は多くない。大抵はどこかに不満を感じているか、正体不明の鬱屈した思いを抱えて生きているもの。僕だってそうなのだ。

 黒羽に対して持っていた思いに、憧れのような感情が新しく加わる。

 ああ、やっぱり彼女は強いんだ。肉体だけじゃない、心だってこんなに。


「何だか湿っぽい空気になったな。ほら、話題を変えるぞ。狐を倒す作戦の話をしよう」


 黒羽がパチンと手を打ち鳴らす。そうだった。本題をすっかり忘れていた。


「たしかマヤ様の力を貸してもらうんだっけ」


 思考を切り替えて問い掛ければ、黒羽は頷く。


「最後の部分は、そうだ」

「というと?」

「狐とて馬鹿じゃない。楓がいると分かっていても、師匠の領域には入ってこないだろうな。師匠は師匠で山から出られない」

「待ってても事は良くならない、ってことだね。ならどうするのさ?」

「抵抗できないくらいに弱らせるんだ」


 黒羽は人差し指を立て、空中に小さな円を描いた。


「流れる水には浄化の力があるだろ? 渓谷の上までやつを誘導し、隙を見て五ヶ瀬川に突き落とす。十分に力をそぎ落としたところで捕まえて、師匠の元まで持っていく。トドメはお任せだ。単に殺すだけだと、復活する可能性があるからな」

「……なるほどね。流し雛みたいだ」

「似たようなものさ」


 黒羽が言うからそう聞こえるだけかもしれないが、妥当な作戦だと思う。正攻法では勝てない。ならば搦め手で、というわけだ。


「つまり僕らは、川の近くに陣取って待ち構えるんだね?」

「いや、違う」

「へ?」


 変な声が出た。

 何が違うんだろう。狐は僕を追ってくるんだから、これが一番ベストなのではなかろうか。


「“僕らは”じゃない。動くのは私一人だけだ。汝はここにいろ」


 案の定出やがった。黒羽らしい、実にイケメンで自己犠牲的な解答。

 僕にとっての最善を考えてくれたのだろう。無事にここまで辿り着けたのだから、これ以上は危険を冒さなくていい、そんなところか。

 黒羽が僕を気遣ってくれた、その事実は素直に嬉しい。だが認めるかどうかは……また別問題だ。


「……それは、どうして」

「分かるだろ。汝を危険に晒したくない」

「あいつは僕を探してるんだよね。なら僕を囮にすればいい。誘い込む手間も省けるんじゃないの」

「う……たしかに、そうだが」

「反論があるなら教えてよ」

「……っ」


 黒羽は声を濁して俯く。僕を納得させるための言葉を、必死になって探しているみたいだった。


「もう一つ訊く。僕をここに残したとして、どうやってあいつを見つけるつもりなのさ」

「近付けば感じ取れる。そうでなくとも大まかな方角くらいは――」

「それじゃ駄目だよ。言ってたじゃん、霧がレーダーみたいな役割を果たしてるって。向こうは黒羽の位置が分かるのに、こっちはほぼ盲目。そんなんで本当に戦えんの?」

「……でも、楓が」

「黒羽に無茶させるくらいなら、囮なんていくらでもやってやる」

「私の心配はいいんだ。それよりも自分のことを――」

「その台詞、とんだブーメランじゃない?」


 僕は肩を竦めた。

 黒羽の方を向けば、戸惑った様子で瞬きを繰り返している。初めて見る表情だった。


「――黒羽」


 名前を呼ぶ。僕よりも少しだけ背の高い、細身の身体がビクリと撥ねた。


「僕だって安全な場所にいたい。だけどそれと同じくらいに、君に傷付いて欲しくない。僕の分まで黒羽が危険を背負うつもりなら、そんな作戦、絶対に認めたくない」


 目と目を合わせ、思いの丈を真っ直ぐに口にする。嘘でも大袈裟でもない。いつになく僕は真剣だった。

 一人でやる方が楽なのであれば、大人しくここでくつろいでいよう。しかし黒羽の反応からしてそうは思えない。準備をし、都合の良い場所で待ち伏せている方が、霧の中で敵を探すよりまだ簡単な筈だ。

 それに、何よりも。


「黒羽がどうかは知らないけど、僕は黒羽を大切に思ってるから」


 勢いに任せ、口走ってから自覚する。

 彼女と過ごした時間は短い。だがそれを補って余りあるほど濃密だった。

 身体を張って守り抜かれ、二度も死線をくぐり抜け。映画のような逃避行を続ける内に、僕は彼女に惹かれていた。

 人は、愛された分しかその人を愛せないという。

 僕に言わせればこれは間違いだ。正しくはこう。人は、愛された分だけその人を愛そうとする。まあ、個人差は多少あるかもしれないけれど。


「君が死ぬとか僕は嫌なの。分かった?」


 少し強めに言ってみる。すると黒羽は、口元にパッと手を当てて、声にもならない声を漏らし始めた。


「はっ、ぁう、えっと、その……」


 もう片方の手は胸の膨らみの上へ。半開きの目は心なしか潤み、その顔はまるで熱を帯びたように、耳から頬まで真っ赤に染まっていた。


「汝は、そうなのか。大切、か……」


 ……多分、照れてる。

 あの黒羽が。

 これまで、僕の心を散々にときめかせてきたあの黒羽が。


 女性の外見をあれこれと批評するのは、あまり紳士的ではないと僕だって分かっている。

 だけどそれでも言わせてもらおう。狼狽して、いつになく早口になる黒羽は……正直、とんでもなく可愛かった。


「……そうか、ああそうなんだな! よーし、もういい。分かったぞちゃんと分かった」


 やけに大きな声を出す黒羽。

 そのあたりで、僕もようやく、自分が言ったことを冷静に振り返ることが出来た。“す”から始まり“き”で終わる、二文字の単語こそ使ってないけど、考えてみればあの台詞は告白ともとれてしまうもので……。


「な、なんの話だったっけ!」


 声が上擦る。まるでサウナにいるかのように、全身が熱くなって仕方ない。黒羽の様子も似たようなものだった。


「き、狐を倒す計画じゃなかったかな」

「そうだね思い出した。たしかにそんな感じだった」

「ならばさっさと話を戻すぞ」

「オーケー。じゃあさ、取り敢えず合理的にいこう? 一人でやるのと僕を囮に使うのと、成功しやすそうなのはどっち?」

「……楓を囮にする方だ。汝を守りながら戦う手間より、迎え撃つ場所を決められるメリットが大きい。誘い込む距離も減らせるから、私の負担も結局は軽くなる」

「決まりだね」


 わざと大袈裟に抑揚を付けてみる。黒羽が苦笑しながら肩を竦めた。


「負けた。まったく、汝には敵わないな」


 吹っ切れたようなその様子に、僕は内心でガッツポーズをした。結果として再び狐と相まみえることになったわけだが、勝利のための致し方ない必要経費だ。


「――ただし」


 黒羽が前髪をかきあげつつ、釘を刺してきた。


「二つだけ条件がある。まず、絶対に私から離れるな。次に、もしはぐれたら大声で私を呼んでくれ。どこにいようが見つけ出してみせるよ」

「分かった」

「約束しろ」

「約束する」

「……よし」


 念を押す黒羽。もちろん彼女に従うつもりだ。僕は自殺志願者じゃないのだから。

 満足いくまでクルミを堪能したところで、黒羽が洞穴の奥へ麻袋を仕舞いなおす。

 腹六分といった具合だろうか。これから嫌でも動くことになるから、胃に物を溜め込むのはあまり得策じゃない。

 いつぞやのように黒羽が手を差し出してくる。僕は大きく深呼吸してから、そこに自分の掌を重ねた。


 ――温かい。


「やつはおそらく今日中にやってくる筈だ。あまり時間の余裕が無い。だから手早く準備を整える」


 黒羽が僕の手を引いて立ち上がった。


「さて、あの狐を倒しに行こうか」


 応えるように、僕はハッキリと頷いてみせる。

 全てが上手くいく保証はどこにも無いけど、不思議と不安は取り払われていた。

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