第14話:孤独と友情の狭間で
瞼を開けると、でこぼことした真っ黒な岩肌が目に入った。
どうやら眠っていたらしい。いや、正確には眠らされたのだろう。神様の術とか多分そんな感じのやつで。起動中の頭でそう考えながら、僕は目と手で周囲の状況を把握しようと試みる。
洞穴の外が明るいので、今はおそらく昼時だ。証拠として胃に張り付くような空腹感がある。そういえば昨夜から何も食べてないんだっけ。まあ、すぐに死ぬことはないだろうけど。
身体の下に敷いてあるのは……藁で出来たゴザ、だと思う。実物に触れるのは初めてだった。普段は黒羽が使っているのか、端の方がほつれている。
周囲には誰もいない。慎重に寝床から身体を起こせば、慣れない場所で眠ったせいか、肩や背中がパキパキと音を立てた。
紺色のカーディガンが足下に落ちる。黒羽に貸していたものだが、僕を寝かせるときにかけてくれたらしい。そこまで寒くはなかったが、念のため羽織ることにした。
外に出た僕は、見覚えのある大木を目指して歩き始めた。
一見すると道なき道だが、目を凝らしてみればうっすらと、踏み固められた帯状の跡が見えてくる。大人しくそれに沿って進んだところ、無事に目的地まで辿り着けた。
記憶にあるのとまったく同じ位置に、犬神がゆったりと腰を据えている。
「おはよう、若者」
「おはようございます。どのくらい眠ってました?」
「今、
予想通りお昼だ。ここに着いたのが早朝だから、ざっと計算して六時間ほど、僕は意識を飛ばしていたらしい。
マヤが尻尾をメトロノームのように動かして言った。
「黒羽はヤブツバキの横を下った先じゃ。行ってあげなさい」
頷いて、僕は再び草木の中へと割り入っていく。
こうして山を歩いた経験は少ない。山間の田舎で育った子供ならまだしも、僕の実家は生憎と海辺にあったのだ。けれど一晩中行軍を続けたおかげで、足を置いたら危なそうな場所などは、何となく見分けがつくようになっていた。
木の棘や段差に注意しつつ、慎重に斜面を降りていく。
不意に、ポケットの中で携帯が震えた。
こんな場所でも電波が届くのか。文明の偉大さに敬服しつつ、立ち止まって確認してみれば木崎さんからの電話だった。
「もしもし?」
『楓くん!? お願いです助けてください!』
思わず身構える。甲高い彼女の第一声だけで、ただ事ではない何かが起こったのだと分かった。
「どうしたの」
『いなくなったんです』
「え?」
『結城くんが、いなくなったんです……!』
予想外の事態に僕は言葉を失う。
結城と最後に会話したのは昨日。姿をくらました僕を心配し、電話をかけてくれた時のことだ。僕の拙い言い訳を怪しんではいたものの、とりわけ奇妙な様子は感じなかった。それなのにあいつがいなくなったって。一体どうして――?
「木崎さん、詳しく聞かせて」
『は、はい』
電話越しでも、彼女の動揺が痛いほどに伝わってくる。僕もまあ似たようなものだけど。それでも努めて平静を装いながら、僕は近くの木に身体を預け、携帯電話を耳元に押し付けた。
「いついなくなったの?」
『……おかしいなって最初に気付いたのは、今朝です。昨日の夜送ったLINEにまだ既読がついてなくって。いつもなら大抵返信があるのに、珍しく遅いなって思ってました』
「忙しいだけじゃない? ……って言いたいけど、言い方からしてそれだけじゃなさそうだね」
『大学の講義にも来なかったんです。電話にも出てくれないし、何を試しても駄目。で、昨日の夕方、結城くんが言っていたことをついさっき思い出したんですけど』
「……それって?」
『“楓くんを探しに行く”って』
「え」
熊本でのやり取りの記憶が、僕の脳内で鮮明に蘇ってくる。
結城に迷惑をかけられないという思いもあり、詳しいことは伝えなかった。だが一つだけ、突き放しきれずに漏らしてしまった情報がある。僕の居場所だ。熊本駅にいることが分かれば、結城が僕を追いかけてくるのも容易である筈。
仮に、結城が僕を心から心配していたとしよう。友情が彼を突き動かし、僕を見つけ出そうと決意させたとしよう。
その場合、おそらく到着は夜になる。狐が僕たちを探して、街中をうろついているだろう時間帯だ。
……もしかして、巻き込まれた?
不吉な予感が脳裏によぎる。全身の血の気が引いていった。
『……楓くん?』
「……ごめん、切るね」
『え?』
「僕の方からも電話かけてみる。木崎さんももう一度試してみて。それでも繋がらなかったら……警察に連絡しよう」
『あ、あの? ちょっと待ってください。そもそも楓くんは今どこに――』
無理矢理に通話を終わらせる。こちらの事情は話せない。話したところでどうにもならない。結城の居場所を突き止める方法も無いし、突き止めたところで僕はこの山から出られない。だからこれが最善だ。
一つ、大きなため息を吐いてから、僕は携帯の電話帳から結城の番号を探し出す。頼むから杞憂であってくれ。そう願いながら通話ボタンを押した。
息の詰まりそうな数コールの後。
『もしもし楓か?』
聞きたかった声が鼓膜を揺らす。今度のため息は安堵のそれだった。
「良かったぁ……!」
『良かったじゃねえ。今どこで何してんだ』
「同じことを訊きたくて電話したんだよ。どこにいるのさ」
『……質問に質問で返すなって習わなかったか?』
よし、この返事は間違いなく結城だ。微妙に苛立っているような感じもするが、少なくとも無事でいるらしい。
「木崎さんから聞いたけど、僕を探してるんだってね。彼女心配してた」
『そうか。ほとんど何も告げずに出てきちまったからな』
「電話にも出なかったって」
『……後でかけ直すつもりで忘れたんだよ。こっちも手が塞がってて……まあ、そんなことはどうでもいいんだ。お前、もう熊本にはいないんだろ』
「……うん」
『どこにいる? 何があったんだ? 昨日からちょっとおかしいぞ。話してくれ。俺が力になれるかもしれない』
結城の言葉に僕は唇をかみしめる。こんなにもいいやつと友人になれた、自分の幸運がちょっと信じられない。温かくて息が詰まりそうだった。
僕が結城の立場なら、彼みたいに行動を起こせるだろうか? 数秒考えて、首を横に振った。多分、いや間違いなく無理だと思う。
だけど、それとこれとは話が別だ。
頼れない。頼れば彼まで危険に晒す。それだけは何としても避けないと。
「……だから、本当に何でもないんだって」
他人の善意を拒絶するのは心苦しかった。相手が親しければ親しい程、一層。
胸の痛みを誤魔化すように、自然と声に棘を持たせる。
「こうして普通に話せてるんだから、無事に決まってるだろ。結城は心配しなくていいよ。取り敢えず木崎さんに連絡しときな」
『逸らすな。今はお前の話をしているんだ』
「……っ」
『嘘ついてることくらい声のトーンで分かるぞ』
「……」
『聞いてんのか。もしもし? もしもーし』
「……あれ変だな、ごめんちょっと電波が」
堪えきれずに携帯を耳から離した。受話器のボタンを一押しするだけで、友人の声はぷっつりと聞こえなくなる。
もちろん今のはデマカセだ。だがこれでいい。こうするしかない。
一度目は突っぱねた。二度目だって同じようにする。三度目もきっと変わらない。それでも結城が手を差し伸べてくれるなら、もしかすると心が揺らぐかもしれないが、彼もそこまでお人好しじゃないだろう。
今さらだが、向こうの居場所を訊くのを忘れてしまった。まあ、木崎さんのことは伝えたし大丈夫だろう。
携帯をポケットに仕舞い込み、僕は何度か深呼吸をした。
無事に帰る。たっだ一つの目的を達成するため、友人のことを意識的に頭から閉め出した。
考えても仕方ない。取り敢えず、今は黒羽を呼びに行かなくては。
名も知らぬ草をかき分ける。黒羽の長身を探しつつ、一人で歩む森の中は想像以上に静かだった。夜でもないのに、いつのまにか心細い気分になってくる。
やがてどこからか、ハッ、ハッ、という鋭い呼吸の音が聞こえてきた。
周囲を見渡し、どこだろうと小首を傾げ、視線を持ち上げてようやく見つけ出す。
大きな樫の、下から二番目の枝に彼女はいた。
両足を引っかけて逆さまにぶら下がり、息を吐くタイミングに合わせて腹筋をしている。歯を食い縛って全身に力を込め、彼女が上半身を持ち上げる度に、その頬からは汗が滴り落ちていた。
無造作に伸ばされた長い黒髪と、タンクトップの裾が重力で垂れ下がる。惜しげも無く露わにされた黒羽の腹部は、たくましく六つに割れていた。
引き締まった筋肉と、色白の肌が木漏れ日に照らされて、彼女を余計に美しく彩る。木の葉ばかりの単調な世界において、彼女の周りだけが妙に輝いて見えた。
胸の鼓動が加速する。
「198、199……200っ……!」
回数を数える声でさえ、どうしようもなく尊く思える。
……黒羽って、こんなにカッコよかったっけ。
絶対に、出逢った時より素敵さが増してる。もっと彼女を見ていたい。湧き上がってきたそんな衝動を、僕が自覚するまでには数秒ほど必要だった。
「ん……ああ、なんだ楓か」
黒羽の瞳が僕を捉える。身体を楽々と枝の上まで持ち上げ、軽やかに地面へと飛び降りた。今さらだが、常人離れした運動能力だ。
髪を手櫛で整えながら、黒羽はそのまま僕へと近付いてくる。長い間トレーニングを続けていたのだろう。汗だくだった。
ポケットからハンカチを取り出して、彼女に差し出す。
「汗拭く?」
「いいのか? ありがとう」
黒羽は朗らかに笑って受け取った。頭を逸らせて首筋の汗を拭う姿は、どことなく大学の陸上部にいそうな雰囲気だ。
「……む。なんだ、その視線は。私の顔に何か付いているのか?」
「え?」
「だから、そんなに見つめてくれるな。何というか、その、変な気分になる」
「えっ」
僕はドキリとなった。別に見つめたりなんて……いや、してる。ものすごく自覚もある。ついさっき、黒羽に見惚れていた時の余韻が、今でも頭の中に残っている。
秘めたる想いを暴かれた気がして、恥ずかしくなった僕は斜め下に目線を逸らした。
「……別に。何でもない」
「……ふぅん」
黒羽は訝しげに目を細めたが、それ以上気にするのは止めたみたいだった。
「そう言えば、よくここが分かったな」
「マヤ様から、黒羽はこっちにいるって聞いて」
「よく眠れたか?」
「ぐっすりと」
「上出来だ」
黒羽がハンカチを返してくる。指先に触れる湿り気の正体に、これまた心が動揺しつつ、僕はひとまずそれをポケットの中に仕舞った。
「目を覚ましたなら、伝えとかなきゃいけないな」
黒羽が真剣な口調で言う。
「狐を撃退する作戦。汝にも知る権利はある」
「どんな感じなのさ?」
「ここじゃ落ち着いて話せない。戻ろう」
ついてこい、と黒羽は身振りで示してきた。従おうと僕が足を踏み出した瞬間、唐突に奇妙な音が響く。空腹に耐えかねた僕の腹の虫が、盛大に自己主張を始めていた。
恥ずかしくなって顔を熱くする僕。黒羽が唇の端を持ち上げる。
「その前に何か食べようか、楓」
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