第8話:暗闇と霧を越えて
思わず息を飲む。狐の牙は……黒羽を貫く一歩手前で、静止していた。
赤黒い瞳が、己の脇腹に新しく刻まれた傷と、そこから流れ出す液体とを驚いたように凝視する。憎悪が炎のごとく燃え上がり、狐の標的が黒羽から僕へ向いたのが分かった。
こっちに来る。
咄嗟に両手で防御姿勢をとったその時、車体が大きく横に揺れた。
「掴まってください!」
運転手がハンドルを切ったのだ。不意をつかれたのだろう、狐の身体が遠心力で放り出され、腹から電柱に勢いよく激突する。
すぐに起き上がって追ってくるも、流石にダメージが大きかったらしい。速度は目に見えて落ちていた。
狐との距離がどんどん開いていく。それでも狐は諦めずに追尾してきたが、流石に追い付けないと判断したようだ。不意に踵を返したと思えば、そのまま霧の彼方へと姿をくらましてしまった。
尾を引いていた戦闘の緊張も、次第に薄まって消えていく。
振り切れたのだろう、多分……。
「――っ、黒羽!」
何をしている、早く助けないと……! 上半身を車外へ引き摺り出されたままの彼女に、僕は身を乗り出すようにして手を伸ばした。ガラスの破片に気を付けながら、そのまま車内へと引き入れる。
「うっ……ぐ……」
苦しげな呻き声を上げる黒羽。両腕は弱々しく垂れ下がり、右肩には出血の跡があった。瞼は閉ざされているものの、意識があるので死んではいない。だけど……。
「大丈夫!? 僕の声聞こえる!? 黒羽!」
不安のせいで声が震える。
ついさっき目撃した。背中から車の外装へ、強烈に叩きつけられる彼女の姿を。
傷は目に見えるものだけとは限らない。実は骨が折れているかもしれない。内出血が起きているかもしれない。もしもそうなら、今すぐ病院へ行かないと命に関わる。
「ねえ黒羽!? 黒羽っ……!」
突然、柔らかいもので口が塞がれた。
黒羽の手だ。半開きの瞳で僕を見据え、うんざりした様子で彼女はぼやく。
「……そんなに叫ぶな。頭に響くだろうが」
「黒羽……!」
思わず口からため息が漏れる。僕はこれ以上ないくらいにホッとした。
「安心しろ、軽い脳震盪だ……っ」
忌々しそうに後頭部をさすりながら、黒羽は歯を食い縛って起き上がる。僕は天井の明かりを点けて、彼女の頭から血が出ていないかどうかを確かめることにした。
「……どうだ?」
「たんこぶが一つ。それだけ」
「つまり、軽傷だ」
「丈夫なんだね」
「鍛えているからな」
「頭は関係ないと思うけど。……そうだ、肩も見せて」
「大丈夫、たいしたことない」
「いいから」
この世には信じちゃいけないものが二つある。一つは政治家の公約。もう一つは黒羽みたいなタイプの“大丈夫”だ。そもそも常識的に考えて、あの牙で噛まれたのに大丈夫なわけがない。
少々強引に黒羽を横に向かせる。服の袖で、肩に付着した血液を拭った。出血はしてないみたいだ。でも痛々しいだろうな。そんなことを考えながら僕は傷口を確認しようとして……直後、驚きのあまり言葉を失った。
傷が無かった。
「……え?」
瞬きをしてみるが、やっぱり無い。
どういうことだろう? 僕は内心で首を傾げる。たしかに彼女は噛まれていた筈だ。仄かに赤い跡のようなものこそあるが、それだけで済むとは到底思えない。
……いや待て、もしかしてこれは。
「治ってる?」
「だから言ったろ、たいしたことないって」
「何をしたの?」
訊けば、耳の横を掻きながら黒羽が応える。
「回復の術をかけた。あのくらいならすぐに治癒出来る。ほら、頬の傷だってもう治ってるだろ?」
言われてみれば本当だ。いつの間に術を唱えていたのかは不明だが、現にこうして回復している以上、僕の気付かぬところで治療を済ませていたのだろう。まあ、無事ならそれでいいか。
「汝の方は? 怪我、してないか」
「大丈夫。黒羽が守ってくれたから」
「そうか。ならよかった」
黒羽が笑って、肩を竦めた。
「にしても驚いたな」
「何が?」
「さっきの楓の呪文だよ。ホテルの時とは威力が段違いだった」
「僕自身も驚いてる。今でも出来たのが信じられない」
「……素質があるのかもな」
「素質?」
「産まれつき頭の良い奴とか、運動の出来るやつとかと同じで、そっち方面にも向き不向きがあるんだ。もしかしたら汝は、そういう力を使いこなすことに長けているのかも」
何となく納得出来るような、出来ないような。
素質があると言われたって、実感はすぐに湧いてこない。今日まで長らく生きてきたけど、心当たりは何一つとてないのだ。あるいはそういうものなのだろうか?
「自覚はなさそうだな?」
「だね。あの時だって、出来る! って思いはなかったし」
安全だと判断したのだろう。法定速度を優に超えていた車が、ゆっくりと減速していく。
シートに散乱したガラスの破片を僕は手で払い落とした。そうして背もたれに身体を預ければ、ようやく一息つける気がする。前を向きながら呟いた。
「君を助ける、ただそれだけを考えてたもの」
「……っ」
隣で息を飲む音がした。
見れば、黒羽は何かを堪えるような表情で、拳を強く握り締めていた。ジーンズに皺が出来るくらいに。
その裏にある感情を汲み取れないまま、静かに時間だけが流れていく。訊こうか訊くまいかで迷って、結局訊けなかった。
冷たい夜風が背後から吹き込んでくる。
「黒羽、寒くない?」
「私は暑がりだ。だけど……今は、少し寒いな」
そりゃそうだろう。なんてたってタンクトップだ。
僕は着ていたカーディガンを脱いで、黒羽に手渡した。
「羽織りなよ」
「……ありがとう」
彼女は素直に礼を言ってカーディガンの袖に手を通す。一部、血で汚れている箇所があるのは妥協点だ。加えて僕が半袖になったりもするのだが、これもまた妥協点だ。
「こうすると汝が寒いんじゃないのか」
「いや? 実は僕って暑がりなんだよ」
「嘘をつくのが下手だな」
「……やっぱり寒がりかも」
僕は苦笑した。ただしカーディガンを取り返すつもりはない。こういう時はレディーファーストであるべきだ。そうでなくとも守って貰えてるのだから、せめてこの程度のお返しぐらいは。
そんなことを思いながら身を縮めていると、黒羽が肩に腕を回してくる。
唐突な出来事に戸惑う間もなく、僕はそのまま抱き寄せられた。身体の中で心臓が跳ねる。
「え、あっ」
反射的にびくりとなった僕を、彼女は穏やかな声色で宥めた。
「動くな。取って食いやしないから」
「……どういう意味合いが?」
「こうすれば少しは暖かいだろ。他にいい方法でもあるのか?」
淡々とした返事。こういうことを躊躇せずに出来る人種なのかもしれない。だけど一方で対照的に、触れ合った部分を通し伝わってくる彼女の鼓動は、気のせいでなければ早鐘のようだった。
戦闘で乱れた黒羽の髪が、彼女の匂いを伴って僕の頬に触れる。全身の血潮が荒々しく脈打ち始めた。
熱い。
僕と黒羽とどっちの熱なのか、自分でも分からない。
「鳥だって同じことをやってる」
「そうだね。ペンギンとか」
「体温調節のためだ。それ以上でも、それ以下でもない」
「分かってる」
寄りかかってもいいかな。僕は黒羽の顔色を窺いながら、少しずつ、体重を左方へと動かしていく。
拒絶される気配は無い。それどころか僕に呼応して、彼女もまたこちらへともたれかかり始めた。
“人”という漢字は、二人の人間が支え合う様子を表わしているらしい。
今の僕たちがまさにそんな感じだった。危ういけれど安定してる。安定してるけどある意味で危うい。一瞬でも気を抜けば、たちまち全てを彼女へと委ねてしまいそうで――。
「お取り込み中のところ申し訳ないのですが」
運転手の声で我に返った。
彼の存在を完全に忘れていた。今までのやり取りを全て聞かれていたことに気付いて、僕の声が恥ずかしさで上擦る。
「は、はいすいません。何ですか」
「結局どちらへ向かえばよろしいのでしょう」
「宮崎の高千穂まで。……行けます?」
遠慮がちに尋ねれば、運転手は腕時計で時間を確認する。眉を持ち上げる姿がバックミラーに映った。
「長旅になりそうですねぇ」
了承、そういう意味だろう。
どこまでも続く筈だった日常は、先の見通せないハイウェイへと変わって、僕たちを乗せた車は夜の道を突き進んでいく。
疲れていたけど、眠る気にはなれなかった。
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