第9話:非日常に乾杯を
「休憩を挟んでもよろしいですか?」
唐突に、運転手がそう訊いてくる。
狐を振り切ってから一時間弱。増え続ける料金メーターに僕が冷や汗をかき始めた、その矢先のことだった。
大丈夫かな。車はまだ霧を抜けていない。停車すれば向こうにもそのことを気付かれる。だが流石に、すぐさま襲撃を受けるほど狐との距離は近くないだろう。
「いいですよ」
頷けば、運転手は朗らかに笑って言った。
「助かります。長丁場ですので、安全のためにもね」
車が減速して左折する。草木も眠る丑三つ時だが、どうやらコンビニは眠らないらしい。不眠症なのだろう。普段なら無用の長物、ブラック労働の権化として見ていた二十四時間営業だったが、今夜ばかりはその明かりがありがたかった。
入り口の前に駐車。周りに僕たち以外の車はいない。あまり嬉しくない貸し切りだ。
「お客さんも何か買われますか?」
「いえ。彼女とここに残ります」
眠っている黒羽の肩に、手を当てながら僕は応える。ちなみに、彼女の頭は膝の上。いわゆる膝枕というやつだ。
彼女が寝息を立て始めたのは、ちょうど熊本の市街地を抜けた頃。
最初はもたれかかったままだったが、横にした方が彼女も楽なのではと考え、独自判断によってこのようにした。
性別的には逆な気もする。だが、僕は時たま女々しいと言われるし、黒羽も黒羽で男勝りなところがある。ここまで来るとよく分からない。
運転手が車を降りて、店内へと姿を消す。手持ち無沙汰になった僕は、黒羽の寝顔へ意味も無く視線を落とした。
綺麗だ。
そう思うのは、果たしてこれで何度目になるだろうか。
「……役得かなぁ」
命を狙われているので、割に合わないところはあるけど。
「ああ、そうだ」
ポケットから携帯を取り出す。充電自体はホテルで済ませた。が、次にいつ出来るかは分からない。念のため、災害用の省電力モードに切り替えておこう。
ホーム画面を確認した時、結城と木崎さんからいつの間にか『ライン』が来ていたことに気付く。
順に『結城より楓、現在位置を報告せよ』『熊本にいるって聞いたんですけど、本当ですか!?』。気にかけてくれる友人たちに感謝しつつ『東』『今はいないよ』とだけ返しておく。二人とも大切な人だ。必要以上に巻き込みたくはない。
そうしていると、不意に窓ガラスが叩かれた。
思わずびくりとなったが、何のことは無い、運転手だった。両手に持った缶を目の前に差し出してくる。片方はコーヒー、もう片方はコーンスープ。
「お好きな方をどうぞ」
「いいんですか?」
「会社の規則ではアウトですがね、誰も見てやしません。それにこういう時は暖かいものを飲むべきですよ」
「……じゃあ、コーンスープで」
「ファイナルアンサー?」
「コーヒーは苦手なんです」
苦笑しつつ缶を受け取る。思いのほか熱くて、何度かお手玉した。
目と目で合図を送り合って、どちらからともなく乾杯の仕草。
「非日常に」
「非日常に」
飲めば、ほのかな甘みが喉を下っていく。疲れた身体に心地良く染み渡った。
「お客さん、学生ですか」
「勘がいいですね」
「つかぬことを訊きますが、どちらの?」
「九鳥大学。文学部二年、言語学研究室」
「なんと同じだ。私は法学部だったんです。もう三十年も昔ですが。実に懐かしい」
となると、この人は僕の大先輩というわけだ。予期せぬ縁にちょっとだけ嬉しくなって、会話は次第に弾んでいった。
「言語学というと、やはり英語とかを学ぶのですか?」
「色々と。今朝の講義は漢文の長恨歌でした」
「むぅ、聞き覚えがあるような無いような。何でしたかね、たしか……」
「“天にありては願わくは比翼の鳥となりて、地にありては願わくは連理の枝とならん”」
「ああそれだ! 昔、高校の授業で読まされたものです」
合点がいった、とでも言わんばかりに、運転手さんはパチンと手を打ち鳴らす。
ついさっき僕が暗唱したのは、漢詩『長恨歌』の終わりの部分。簡単に言えば「君が大好き、ずっと一緒にいよう」という意味だ。比翼連理という四字熟語は、これが元ネタになっている。
ちなみに僕のお気に入りのフレーズでもある。
扉を開け、運転手さんが運転席に戻ってきた。しばし一服。コーヒーの香りを心地よさげに嗅いでいる。
……そういえば。
ふと気になった。この人のドリフトはやけに上手だったな、と。
「運転手さんは、走り屋だったんですか?」
脈々が無いなと思いつつも尋ねる。帰ってきたのは苦笑いだった。
「昔の話です。あの頃は風に魅了されていました。このあたりの峠なんか、もう我が庭のようにとばしまくっておりましてね。ある日、速度超過で免停をくらって、それっきり落ち着きました」
「人吉のイーグル?」
「人吉のイーグル。本当に、遥か昔のことですよ」
照れ臭げに頭を掻きながら、運転手は胸元の名札を指差してみせた。鷲津 浩一という名前がそこに書いてある。鷲津……イーグル……ああ、なるほどね。納得した。
僕らにとっては命の恩人でもある以上、その二つ名に下手しいコメントをすることは出来ない。個性を極めた独特の響きに、ただ温かな微笑みを送るばかりだ。
「荒鷲の名に恥じない走りでした」
「いやはや、光栄です。今となっては若気の至り、あるいは黒歴史」
「でも、そのおかげで僕たちは助かりましたし」
「たしかに。そう考えれば多少は誇れるものになりますな」
運転手は愉快そうに手を打ち鳴らした。それからフッと、唐突に神妙な顔をする。その口が次に何を言うか、僕には何となく分かってしまった。
「そろそろ、事情をお訊きしてもよろしいでしょうか?」
「……はい」
秘密のままにはしておけない。この人には知る権利がある。僕たちの目的と、追われている理由とを。
「僕は、恨まれているんです」
「ほう」
「小さい頃、善意のつもりでやったことが、一匹の狐の命を奪ってしまった。それがあいつ。妖怪になって復讐にきた。今日……いやもう昨日か。昨日の昼間に、僕は最初の襲撃を受けました。その時に守ってくれたのが黒羽だったんです。彼女がいなかったら、僕は今ごろ……」
言葉が詰まる。その続きを口にするのは、不吉な気がして躊躇われた。
沈黙の後、運転手が訊く。
「それ以来、ずっとここまで逃げてきたのですか?」
「まず博多まで行って、そこから新幹線に乗りました。駅の近くで宿をとったんですけど、そこで何故だか見付かってしまい」
「また逃げてきた、と」
「着の身着のまま手ぶらでね。それから今に至ります」
「荒鷲との出会いというわけですか。もう三十年ほどタクシードライバーをやっとりますが、お客さん以上にワケありな方はまだいらっしゃいませんなぁ」
実に不名誉な称号だ。
僕はコーンスープを一口飲んだ。美味しい。黒羽の分も残しておくべきだろうか? いや、でも放っておいたらすぐ冷めるし、わざわざ起こすのも悪いように思う。そもそもそれって間接キスじゃないか……。
「お二人はどういった間柄なんでしょう?」
「運転手さんにはどう見えます?」
「ふむ……少なくとも兄妹ではなさそうですが。恋人、それともご友人といったところですか」
「正解は僕にも分かりません」
僕は首を横に振る。僕と黒羽の関係を表せるような言葉、知っているなら教えて欲しいくらいだ。
「知り合ったばかりで何も知らない。何から何まで秘密なんです。彼女のこと、どうして僕を守ってくれるのか」
強いて言うなら護衛対象と騎士様だろうか。起きてるときの黒羽はとんでもなくカッコいい。それを本人に伝えることまでは、流石に恥ずかしくて出来ないけれど。
「運転手さんなら、僕らの関係をどう名付けますか」
ふと、そんなことを訊いてみる。別に答えなんて求めちゃいない。口に出せばスッキリするかな、そう思っただけだ。
「パートナー、というのはいかがでしょう」
「パートナー?」
思わず問い返した。
「化け狐から逃げているとき、お二人はまさに以心伝心といった感じでした」
「自覚が無いんですけど」
「本当に相性の良いペアは、そもそもそのことに気付かないものです。自然と親しくなっている」
言われて、僕は苦笑いを浮かべた。
何を言ってるんだこの人。内心ではそんな感じだが、意地になって否定する理由も特に無い。
僕と黒羽が共に過ごした時間はお世辞にも長くない。けれど運命共同体という点では、まあある意味でパートナーなのかもしれない。本人を差し置いてそう考える。
「少し、不謹慎かもしれませんが」
前置きしてから、運転手が口元を緩ませた。
「あなたの話を聞いていると、まるで映画か小説のワンシーンのように感じます」
「映画」
「ええ。だってそうじゃありませんか。妖怪に狙われたかと思えば、見ず知らずの女性が現れて守ってくれる。よく出来たシナリオだ。ちなみにお客さんが主役」
「……好きなんですか、そういうの」
「これでも月一で映画館に足を運んでおります」
「銀幕の脇役になってみた感想はどうです?」
「二度目をどうかと言われれば、慎んで辞退するでしょうな」
声を上げて笑う。考えすぎだとは思うが、暗に僕らを責めているようで、申し訳なさに心が痛んだ。
「巻き込んでしまい、すいません」
「謝ることじゃございませんよ」
運転手は即答する。
笑いもせず、怒りもせず、どこか全てを達観するような表情。
「仕事ですから」
中途半端な励ましの言葉よりも、ずっと優しい応え方だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます