第7話:今日は厄日だ
「楓、行け!」
黒羽が叫んだ。跳びかかってくる狐に対し、彼女は手近な椅子を武器にして応戦する。脚の部分で牙を受け止め、膝を曲げながらその勢いを殺していた。
拮抗する押し合いを背に、僕は扉を開けて走り出す。
残っても何も出来ない。おとなしく逃げるべきだ。
脳内でフロアの見取り図を描く。階段よりエレベーターの方が近い。そう判断した僕は迷わず廊下を右に向かった。息を切らせながらエレベーターまで辿り着き、下行きのボタンを連続で押しまくる。
八、七……。階層を示すランプが順繰りに点灯していく。いつもより妙に遅く感じた。
「早く、早く……!」
背後から近付く気配に焦燥が沸き上がる。まだか。今、六階。五、四……来た!
鉄の扉が開くと同時に、僕は中へと滑り込んだ。いつでも押せるよう『閉』ボタンに親指を乗せた、そのタイミングで、廊下の角から黒羽が駆けてくる。すぐ後ろに狐も一緒だ。
「黒羽ぁ!」
僕が叫ぶ間にも、二人の距離は少しずつ縮まっていく。
このままじゃ追い付かれる。そう悟った僕は息を吸い込み、両腕を真っ直ぐ前に伸ばした。
教わったとおりに印を組む。僕の意図を察してか、黒羽が走りながら頭を下げた。
絹を編むようなイメージで。狐の頭部に狙いを定め、腹の底から声を張り上げて。
「急々如律令、斬!」
狐が怯んだ。だが、すぐに加速して迫ってくる。
全然効いていない。練習では、一度だけビニール袋を切り裂けた。しかし妖怪を相手取るには明らかに力不足だ。
けれど今回は事足りた。僕が作ったわずかな猶予で、黒羽は狐との距離を引き離す。彼女の身体がエレベーターに滑り込む直前、僕の親指は『閉』ボタンを押していた。
鋼鉄の箱が音を立て降下していく。
「大丈夫!?」
「ああ、何とか」
「顔のとこ血が出てるじゃないか。あいつに切られた?」
「振り払う時に爪でやられたんだ。大した怪我じゃない、すぐ治る」
黒羽は素っ気なくそう言った。派手に揉み合ったのだろう、黒髪がぐちゃぐちゃに乱れている。右の頬を押さえる手の隙間からは、赤い液体が筋を引いていた。
「くそ、どうして私らの居場所が分かったんだ」
「後を付けられてたとか」
「もしそうなら私が気付く。そもそも霧を抜けた時点で……。まあいい、とにかく逃げるぞ」
エレベーターが一階に到着する。飛び出した先、ホテルのフロントには人の気配が無い。好都合だ。その方が色々とやりやすい。
入り口の自動ドアを強引にこじ開け、僕たちは外へと躍り出た。案の定、霧がかかっている。どういう訳か昼間より薄い。気になったが、理由を考える余裕など僕らには無かった。
転びそうになりながら駅へと急ぐ。いつ背後から狐が現れて、牙と爪とで僕を引き倒すかと思うと心臓が縮みそうだった。黒羽にピッタリ守られているとはいえ、不安はそう簡単に軽減されない。
「――あった、タクシー!」
予想通りだ。熊本駅東口の前、『空車』のランプが闇の中で光っている。ドアが自動で開くのも待たず、僕たちは転げ込むようにしてそれに乗り込んだ。
「出してください!」
訴えれば、壮年の運転手は怪訝な顔をする。
「どうされましたか。まずはどちらへ向かわれるか――」
「いいから早く! 僕たちの命がかかってるんです!」
「そんなことをおっしゃられても」
言うことを聞いてもらえない。だが一から説明している暇も無い。ああもう、一体どうすれば……。
「あれを見ろ」
黒羽が運転手の頭を掴み、強引に後ろを向かせる。乱暴な、と内心で微かに思ったが、どうやら効果のある荒療治だったようだ。運転手の顔がみるみる青ざめる。
その直後、アクセルの唸る音と共に車が急発進した。
身体が座席に押し付けられる。車はわずかにふらつきながら、スピードを上げて県道に出た。
「な、何なんですかあれは!」
「妖怪だ」
「妖怪!?」
「詳しいことは後で話す。取り敢えず加速してくれ!」
「……ったく、今日は厄日だ!」
戸惑いつつも、危機的自体だということは認識してくれたのだろう。せわしなくギアを切り替えながら、運転手はアクセルを踏み込んでいく。
視界は悪い。しかし深夜なおかげで、他の車がいないのが幸運だった。
僕は後ろを振り向いた。霧の彼方、ぼやけて見えなくなるギリギリの辺りに、巨大な獣の姿がある。目測、三十メートル。
「追ってきてる!」
「ドライバー、やつを振り切れるか!?」
「やってみましょう。これでも昔は人吉のイーグルと呼ばれた男です」
前方に交差点が迫る。赤信号だが速度は落とさない。車体の先端が停止線を越えたところで、運転手はハンドルを思い切り右に回しながらブレーキを踏み込んだ。同時にギアをローへ。方向転換ののち再びアクセルを吹かし、車体は力強く加速していく。
思わず拍手したくなるようなドリフトだった。
「どうですか!?」
「……駄目だ! 距離を縮められてる。もっとスピード出せ!」
「これ以上は危険です! サーキットとはわけが違う!」
「くそっ、仕方ない」
黒羽が舌打ちをしてから、おもむろに僕の肩を掴む。
「押さえてろ」
「どうするつもり!?」
「迎撃する」
言うやいなや、彼女は窓から上半身を乗り出した。
落ちてはいけないと、慌ててその下半身にしがみつく。抱き締めるような形になったのは、致し方ない不可抗力だ。
風圧に抗いながら体勢を整え、黒羽は後方の狐を睨み付ける。両腕を伸ばして叫んだ。
「斬!」
狐の横の地面が爆ぜる。当たってない。
「斬! 斬、斬、斬! 斬っ!」
黒羽が呪文を連続で放った。しかし、車上から動く目標を狙うのは流石に荷が重いのだろう。全て回避されていた。
狐が次第に接近してくる。追い付かれる寸前の距離感。
「ちょこまかと!」
叫んで、黒羽は車内に戻ってきた。そのとき車体がグラリと揺れる。見れば、トランクの上に狐が跳び乗ってきていた。
ガラス一枚隔てた近さ。赤い瞳と視線が交わる。蛇に睨まれた蛙のように、僕の身体は恐怖で強張った。
狐のかぎ爪が真一文字に振り抜かれる瞬間、黒羽が僕へと覆い被さる。
「危ない!」
ガラスは一撃で砕かれて、無数の破片が彼女の上に降り注いだ。
車の窓は割れても危なくないようになっているらしいが、それでも多少は痛い筈だ。僕を庇った彼女の頬には大粒の汗が浮かんでいる。しかし僕がそのことを気にかけるよりも早く、車内に頭部を侵入させてきた狐が黒羽の右肩に牙を立てた。
そして引きずり出す。
「うああぁっ!」
「黒羽!」
すんでのところで窓枠を掴み踏ん張る黒羽。車外へ投げ出されることだけは何とか避けられたようだ。だが逆に言えばそのせいで、彼女は両手を封じられていた。
狐が勢いよく首を振れば、黒羽の身体は車体へと叩きつけられる。
「がはっ……!」
重く、嫌な音が響いた。
力なくグタリとなった黒羽を、狐はのしかかるようにして押さえ込む。彼女の頭上で大口をカパリと開いた。
赤黒い舌に、刃物のような牙。目標は、きっと黒羽の首。背筋に冷たいものが走った。
黒羽が殺される。
惨劇を予感したその時、まるで魔法にかかったかのように、世界がいきなりスローモーションで動き始めた。
両手が自然と持ち上がり、胸の前で印を組む。心は不思議と静まり返り。ただ一つ、この一撃を成功させることに全神経が費やされていく。
己の全てがいつになく従順に動いていた。瞼を閉じれば、黒羽と過ごした短くも濃厚な一日の記憶が、脳内に蘇ってくる。
狐を追い払った後、僕に手を差し出してくれた黒羽。
自分がどうなっても僕を守る、そう約束してくれた黒羽。
寝ぼけてか、昼間とは打って変わって可愛らしい一面を見せてくれた黒羽。
最初は見知らぬ女性だった筈の彼女に、いつしか僕は信頼と親愛の情を抱き始めていた。
死なせたくない。
……死なせない。
「――斬!」
唱えた直後、鮮血が飛び散る。
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