第6話:丑三つ時のときめき

 空を飛ぶ夢を見た。

 いつもの魔法で浮かぶパターンと違って、今回の僕には翼が生えていた。

 連なる山々を眼下に眺めながら、風を切って進むのは実に心地良い。雑多な喧噪から遠ざかれるし、何よりも世界は広いのだと言うことを実感出来る。流れる川も生い茂る草木も、空を行く自分にとっては皆等しく景色だった。

 どこへ行こうか。どこへだって行ける。高揚感にテンションが上がった。翼を羽ばたかせてもう少し上昇。滑空状態に移りつつ、目線を下げて僕は地上の様子を窺う。

 その時、急に視界が陰った。


「……っ!?」


 原因を考える暇もない。

 今すぐ逃げろ、全速力だ。僕の本能が最大級の警告を発し始める。上空からの刺すような圧力に、全身が恐怖でガタガタと震えた。

 迫り来る気配。咄嗟に左へ急降下した僕の横を、黒い影が矢のような速度で掠めていった。大鷲だ。

 僕を捕え損ねたとみるや、大鷲は急旋回してこちらへと戻ってくる。

 向こうの方が強く、大きい。戦っても勝ち目は無い。そう考えて脇目も振らず逃走を図る僕だったが、生憎、スピードも相手の方が速かった。

 あっという間に追い付かれる。あの脚に捕まるのだけは何とか回避したが、代わりに背中を盛大に切り裂かれた。

 焼けるような激痛の後、身体のコントロールが消え去った。薄れゆく意識の中、遥か下の地面を目掛けて、僕は為す術も無く落下していって……。


 ※


 正体不明の物音で、意識が夢から現実に引き戻される。

 昼間にあんなことがあったせいで僕はいつになく神経質になっていた。普段なら無視するようなことにも身体が敏感に反応し。目を閉じたまま息を殺して、あれは何の音かと全力で耳を澄ませる。

 特に何事も無く、数秒が過ぎた。

 変わらぬ静けさに安堵しながら、僕は肩の力を抜いていく。気のせいか、あるいは風の音だったのだろう。まったく人騒がせなことだ。

 寝直そうかとも思ったが目が冴えていた。

 今、何時ぐらいだろうか。

 人気が無い。ならきっと真夜中だ。ゆっくりと瞼を持ち上げていけば、視界が段々と薄黄色に染まっていく。眠る前、枕元の電球だけ点けたままにしておいたのだ。完全に気持ちの問題だが、真っ暗なのはどうしても落ち着けなかった。

 完全に瞳を開け終えた時、僕はそのままの体勢で固まった。


「……およ?」


 目の前に、黒羽の顔がある。

 おかしい。僕は内心で首を傾げた。

 思い出してみよう。たしか、いつまでたっても決着のつかない議論に辟易した僕たちは、最終的にベッドを共有した。だが寝る時は背中合わせだった筈だ。なのにどうして。どうして僕たちは向き合っている? もしや寝相が悪かったのだろうか。いや、それよりも……。


「……近いな」


 顔を少しでも前に出せば、鼻先が触れ合ってしまいそうな距離。

 お世辞にも女性経験が多いとは言えない僕にとって、それは完全に未経験の状況だった。

 動揺が全身を駆け巡る。取り敢えず数センチ後退してみた。高鳴る鼓動にあまり変化は無い。そうして気付けば、視線を引き剥がすことが難しくなっていた。

 そのことを、自覚しつつも無視をして、僕は黒羽を観察する。

 彼女の寝顔は穏やかで、正面から見てもやっぱり綺麗だ。鼻は高く、半開きの唇は鮮やかな桜色。ものすごく女性って感じがする。……あ、意外と睫毛が長い。

 艶やかなその腕は外見相応の細さで、胎児のように胸の前で重なっている。

 お互いに私服で眠ったせいで、黒羽の服装はタンクトップのままだった。危うく、日焼けしてない真っ白な腋が覗きかけて、僕は咄嗟に首を下へ折り曲げる。そこで、彼女のところだけ掛け布団が綺麗にはねのけられていることに気付いた。

 寝相が悪いのか。それか暑がりさんなのだろう。どちらにしろ身体は冷やして欲しくない。


「もう、風邪ひくよ」


 目を覚まさないよう慎重に、布団を上へとかけてあげた。無造作に伸ばされた黒髪が、風圧で僅かに舞い上がる。

 奇妙な匂いが僕の鼻孔をくすぐったのは、まさにその時だった。またしても未体験の感覚に僕は目を白黒させる。


 ……何だろうか?


 甘くはない。

 爽やかでもない。

 適切な形容詞が思い付かない。だけど不思議と魅力的で、何故だか嗅ぐのを止められない。

 濃厚な芳香をしばらく堪能して、僕はようやくその正体に勘付いた。

 これは、もしかして。


「黒羽の、汗の匂い……?」


 そう思った瞬間、下腹部にゾクリと震えが走った。

 恐怖や悪寒のそれではない。不快というより心地良い。だけど正体は自分でも分からず、僕は内心で狼狽える。

 と、その時。僕の視線に気付いた黒羽が、薄目を開けてこちらを見た。


「んぁ……? あぁ、なんだ、汝か」


 寝ぼけているのがありありと分かる声。数秒間、彼女は烏羽色の瞳を真っ直ぐこちらへと向け続け……。にやーっ、と。これ以上無いくらい満面の笑みを浮かべる。甘い音色に忍び笑いを織り込んで、僕の名前を唄うように紡いだ。


「……楓。ふふっ……」


 そしてまた、瞼を降ろして眠りにつく。

 これは一体なんですかって、思わず声に出して言いそうになった。

 昼間の黒羽からは想像も出来ないような柔らかさ。蕩けてしまいそうな響きが僕の心を鷲掴みにする。頭がクラッと揺らいだ。

 絶対に固持すべき最終防衛ラインは何とか守り抜きつつも、その一方で、意識と視線は磁石のように黒羽へと吸い寄せられていく。

 髪。睫毛。瞳。汗の匂い。幸せそうな表情。低めの声に、身じろぎをする仕草。そして再び眠りに落ちていく様子。五感で受け取る黒羽の全てが、輝いて見えて仕方ない。

 パキリ、と。脳内で理性にヒビが入る。微かに上下する眼前の膨らみへ、僕の手が無意識に伸びていって……。


「……っ! 駄目!」


 ギリギリの所で我に返った。咄嗟に身体を反転させて、彼女の姿を視界から締め出す。

 シーツを口元に押し当てて、震えながら懺悔した。

 何を考えているんだ僕は。


「一体何を考えているんだ僕はぁ……!」


 彼女は命の恩人なんだぞ? それなのに……この馬鹿! 屑! 変態! ろくでなし! 地獄に落ちろ下衆野郎!

 愚かなる自分へと向けたありったけの罵声は、果たして声になっているやらいないやら。だが少なくともいくつかは口に出し、そして黒羽にも聞こえていたようだ。目を覚ました彼女が不機嫌そうに背後から抗議してくる。


「……やかましい、安眠妨害だ」

「ごめんなさい」

「どうしてこっちを向かない」

「ごめんなさい」


 それしか言えない。黒羽が事態を理解していないことが、僕の罪悪感をますます煽った。


「おい、聞いているのか。おい」


 ちょんちょん、と。まるで誘っているかのように、彼女の指が背中をつついてくる。だけど、ここは無視すべきだ。ようやく落ち着きかけた天秤が、ともすればあらぬ方向に傾いてしまいかねない。

 僕は全力で目を閉じて、邪な思考を脳内から打ち消そうと試みる。

 再び物音が聞こえたのは、その時だった。


「っ、今のは」


 さっきより大きい。退廃的な空気が一瞬で吹き飛ばされ、緊張が室内を満たしていった。


「楓、起きろ」


 言われた通り、慎重に身体を起こした。

 枕元の明かりが不規則に明滅を始める。首の後ろに、電流の走ったような感覚があった。自然と声は小さくなる。


「……嫌な予感がするな」

「近くに来てるの?」

「おそらくは。靴を履け、ここから出るぞ」


 二人でゆっくりと入り口までにじり寄っていく。僕と違い、黒羽は何かを感じているのか、後退しつつも窓から目を離さなかった。そのまま何とか靴箱に辿り着き、逃走の準備がひとまず整う。

 そこでふと、ベッド横のリュックサックに目が留まった。

 戻ろうか。躊躇ったがすぐに首を振る。大した物は入っていない。財布と携帯はあらかじめポケットの中だ。

 黒羽が振り向き、指と目で僕に合図を送る。

 扉を開けろ。そういう意味だろう。頷いて、僕は彼女の指示に従いかけ……瞬間、紛れもない恐怖に全身が強張った。

 窓の傍。分厚い遮光カーテンが、あるはずのない風に揺らいでいる。

 警告を発する直感に反して、視線は否応なくそちらに引きつけられ、僕の足をその場に固定せしめていた。

 生唾を呑み込む。殺気だった獣の吐息が、僕の耳にもはっきりと聞こえた。


 ――来る。


「伏せろ!」


 刹那、轟音と共にガラスが飛び散った。茶色の巨体が室内に侵入してくる。そいつは僕たちが寝ていたベッドをクッション代わりにして着地すると、獣特有の俊敏さでたちまちにその体勢を整えた。

 薄明かりの中、赤い瞳が僕を見据え、そしてスッと細められる。嗤ったのだろう。

 背筋に冷たいものが走る。二度と会いたくない相手との、存外に早い再開だった。

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