2章:熊本の夜
第5話:熊本にて
熊本駅のホームに降り立った時、ポケットの中から着信音が鳴り響く。
慌てて取り出せば結城からだった。ちょっと待ってと黒羽に手で合図した後、僕は電話を耳元に押し当てる。
苦笑交じりの声が鼓膜を揺らした。
『おい楓、お前三限サボっただろ』
そういえば講義が入っていたっけ。色々あってすっかり忘れていた。だが言わせていただくならば、今は正直それどころではない。
「やんごとなき理由がね。先生は何か言ってた?」
『何も。来週までに読む文献は二人分確保しといた』
「助かる」
『おう。で、それはともかくとしてだ。お前が講義休むなんて珍しいよな』
「……僕だって面倒くさくなる時はあるんだよ?」
『だけど専攻に来なかったのは初めてだろ? それも大事な必修科目に』
「……何が言いたいの?」
『何かあったのかって訊きたい』
率直な問い掛けに声が詰まった。
何かあったのか。現在進行形でありまくりだ。普段は能天気な癖に、こういう時に限ってどうしてそんなに勘が良いのか。
「……何も無い。普通だってば。疲れたからのんびりしたかっただけ」
平静を装って応えれば、結城は納得してなさそうな声で『ならいいんだが』と呟いた。
『ところで、そっち妙にざわついてないか?』
「……そうかな?」
自然と声が強張る。運の悪いことに丁度そのタイミングで、発車を知らせるベルの音が辺りに響いた。
咄嗟に通話口を押さえたが、遅い。小さく息を飲む音が聞こえる。どうやら結城に勘付かれたようだ。
『駅か? おい楓、今どこにいるんだ?』
しばらく黙った後で、誤魔化すのは無理だと悟った。
「……熊本」
『熊本!? マジでどうしたよ、トラブルでもあったのか』
「ん……ま、まあそんな感じ。詳しくは話せないんだけど」
自然と歯切れが悪くなる。だが、妖怪から逃げているとは流石に言えない。可能なら何もかも打ち明けてしまいたいが、これはあくまで僕の問題だ。大切な友達を巻き込みたくはなかった。
『新手の詐欺とかじゃねえよな? よく分からんけどこっち戻ってきた方がいいぜ。木崎のやつだって心配してたし』
優しい言葉が心に沁みる。伝わってくる彼なりの気遣いが、普段の日常をどうしようもなく恋しくさせた。
「出来るならそうしたい。でも無理なんだ」
『何故に?』
「……個人的な事情が、色々と」
駄目だ、説得力のある言い訳が思い浮かばない。結城には悪いがもう通話を切ってしまおう。これ以上はボロも出そうだし。
早口になりながら友人へ別れを告げた。すぐにまた会えると信じて。
「取り敢えず無事だから安心してよ。そっちにもちゃんと戻るしさ。連絡ありがと。じゃあね、バイバイ。またその内に」
『あっ、おいちょっと待っ……』
はい、何も聞こえませんでした。少しの罪悪感を覚えつつ、素知らぬふりして携帯を耳から離す。動揺した様子の声が鼓膜の裏側に残った。
今度、また謝っておくことにしよう。
ポケットに携帯を仕舞い、黒羽に小さく頭を下げた。
「ごめん、待たせた」
「誰からだ?」
「友達。心配してくれてたみたい」
「いいやつだな。大切にしろよ」
言われなくともそのつもりだ。人は城、人は石垣、人は堀。そんな言葉だってある。たしか武田信玄だっけ。
博多にしても熊本にしても、人の気配があるおかげか大学より気が楽だ。それでも多少の警戒はしつつ、僕と黒羽は歩き出す。
改札を出たところで某ゆるキャラに遭遇。何やらタスキを肩にかけ、笑顔なのか無表情なのか分からない剽軽な顔で、元気よく僕たちに手を振ってきた。試しに片手を軽く上げ応えてみる。
投げキッスが返ってきた。
「不思議な生き物だ」
「夢と希望の塊だよ」
冗談を言い合いながら駅の外に向かう。
開け放たれたガラス戸の先。
「晴れっていいね、やっぱり」
僕たちが霧の勢力範囲から抜け出したのは、今から三十分ほど前のことだ。
久留米を過ぎたあたりから周囲が次第に明るくなり始めた。熊本の県境を越えた時点で、太陽の姿を拝めるまでに天候は回復し、やがて完全な晴天に変わった。黒羽曰く、狐の術にも限界があるそうで、霧の外に出てしまえば追跡や探知はされなくなるらしい。
ひとまず、安心しても良さそうだ。
時刻は夕方の四時。まだ明るいが、目的地まではまだ数時間かかる。急ぎたい気持ちもあるが、出発すればやがて日が暮れ、夜の山道を歩く羽目になるだろう。
黒羽とも話し合って、今夜は予定通り熊本で過ごすことに決めた。
※
近くのコンビニで夕飯と換えの下着を買う。黒羽の分も必要だったが、女性ものに手を伸ばすのは躊躇われたので本人に持ってこさせた。何食わぬ顔でレジまで持っていく。
「2550円になります」
そう言う男性店員の視線は、隠しきれない好奇に満ちていた。なんだこのカップルは、こいつめいい女性を捕まえやがって。……こんな感じの心情だろうか。あまり良い気分ではないのだが、初見で見惚れた人間として、まあ分からないでもない。
ホテルはすぐに見付かった。
フロントで簡単な手続きを済ませ、一泊分の代金と引き換えに鍵を受け取る。ここでも探るような目線を向けられたが、何も訊かれなかったので無視をした。
ビジネスホテルなので内装は簡素なものだろう。だが宿泊できれば十分。そんなことを思いながら僕たちはあてがわれた部屋へと向かい、扉を開けて中に入った。
そして直後、とんでもない問題に直面して頭を抱える。
ベッドが一つしかなかったのだ。
「ちょっと待って予想外だった」
狼狽のあまり舌がもつれる。我こそこの部屋の主と言わんばかりに、ズドンと設置された寝台はおそらく一人用。眠るときの安全を考えて、同じ部屋にしようと言ったのが間違いだったようだ。それか従業員がいらぬ世話を焼いたか。
なかなか奥へ進もうとしない僕の背を、黒羽は急かすように押してくる。
「どうした? この大きさなら二人で寝られるだろう」
「それだよ。黒羽、自分が何を言ってるか分かってる?」
いくら非常事態とはいえ、ベッドを共有するのはまた別問題だ。しかも相手が目もくらむ程の美人となれば尚更。間違いなく変に意識して、朝まで眠れなくなる未来が待っている。
むしろ君はそれでもいいのか。妙齢の女性としてあまりにも無頓着ではなかろうか。それとも僕のことなど端から男として考えておらず、ただ単に合理的手段を突き詰めているだけなのか。そもそも、そもそも……!
余計な勘ぐりの末に頬を赤くした僕を見て、黒羽は小さく首を傾げる。
「もしかして恥ずかしいのか?」
「……っ!」
言い当てられてドキリとなった。微塵も気にしていないようなその口調が、余計に僕の羞恥心を煽る。悪いかこの野郎。だいたい君は、どうしてそこまで距離感が近いんだ。
「……こうしよう。僕は床で寝るから、黒羽はベッドを使って」
「嫌だ」
「なんでさ」
「汝の疲れが取れないだろ。それなら私が床でいい」
「戦ったのは君、僕は逃げてただけだ」
「汝を守るんだから当然だろ」
「女性は床で眠れって、僕に言わせるつもり?」
「……たしかにそうなるかもしれんがな」
察しの悪い僕に、黒羽は苛立ちを滲ませながら続ける。
「私より楓の方が大切なんだよ」
……何それ。
嘘偽りの無い真っ直ぐな声色が、僕をどうしようもなく複雑な気持ちにさせた。
黒羽のことが分からない。
勘違いさせるような台詞を臆面も無く口にし。一方で自分に関することは、突き放すように沈黙を貫く。僕を守る理由すら秘密なのだ。
振り向けば、彼女と目が合う。しばらく黙って見つめ合った後、どちらからともなくため息を吐いた。
「……後で決めようか」
「そうだな」
ひとまずの停戦協定。適当な場所に荷物を放って、僕はベッドに上半身を預ける。黒羽も真似して横になった。
純白のシーツは柔らかく、疲れた身体を優しく包み込んでくれる。
こうしていると、狐に襲われたあの時の恐怖が遠い昔のことのように思えた。
「黒羽」
呼べば、隣で寝返りを打つ気配がする。
「……ありがとね、守ってくれて」
「ああ」
素っ気ない返事はいかにも彼女らしい。
僕がしばらくジッとしていると、黒羽は不意に鼻歌を口ずさみ始めた。幼子をあやすような優しいメロディー。聞いた記憶がある気もするけど、題名を思い出せない。
「何の曲?」
「さあ。歌詞は知らない、旋律だけだ。昔、とある人に聞かせてもらった」
「それを今でも覚えてるんだね。黒羽にとって、その人は特別な人だったの?」
「……ああ、そうだな」
そこで、彼女は少しだけ沈黙を挟んだ。
「大切な人だ。……大切な」
そうしてまた、おもむろに歌い出す。
僕は目を閉じてそれに聞き入った。次第にうとうとと微睡みかけ……パチンという音で、ふと我に返る。黒羽が手を打ち鳴らしたのだ。
「そうだ、せっかくだからあれを教えておこう」
起き上がった黒羽はコンビニのビニール袋を掴み上げると、備え付けの鏡台にそれを乗せた。そしてまた僕の隣に戻ってくる。
何をしようと言うんだろう? 面妖な気配に僕は身体を起こす。
二メートルほど離れた袋に向け、黒羽が腕を真っ直ぐに伸ばした。僕の方を見て、唇の端を持ち上げる。己の成果を得意げに報告する子供のように、無邪気で快活な笑みだった。
「よーく見とけよ」
十本の指が複雑な形に組み合わされる。眼前の標的を見据え、黒羽は朗々とした声で呪文を唱えた。
「――
瞬間。まるで刃物で切り裂かれたかのように、ビニール袋がスパリと両断された。
「えっ?」
今のは……何? 現実には有り得ないことが起きていたけど。霧のように、これも術の一種なのだろうか。
「だいぶ手加減した。本気を出せばもっと頑丈なものだっていけるぞ? 気力を使うがな」
驚いて固まった僕の背中を、黒羽は促すように押してくる。
「さあ練習しよう。万一のための自衛手段だ」
「いや、出来ない」
「出来るさ。誰だってその力を持ってる。使い方は私が教える」
淀みないハッキリとした口調に、不思議と自信が湧いてきた。
思えば出逢ってから今に至るまで、僕は黒羽に何もかも任せきりだった。けれどこの術を習得すれば、彼女の負担を少しでも減らせるかもしれない。
「……分かった。やってみる」
緊張しつつ頷けば、黒羽はどこか楽しそうに笑った。
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