第3話:誓いと因縁

 後ろを振り向く余裕もなく、ひたすらに足を前へと動かす。

 大学通りの下り坂には、帰宅途中の学生の姿がチラホラと見受けられた。人の気配に僅かばかり安堵するが、かといって霧が晴れた訳ではない。こめかみの後ろはさっきからずっとピリピリしたままだ。


「どこに行けば!?」

「南だ」

「随分と曖昧だね……!」

「ここを離れるのが先決だからな。あいつはまだ近くにいる」


 納得だ。ならば取り敢えず真っ直ぐ進もう。

 中、高、大学と運動系の部活に所属していなかったせいで、身体が走ることに慣れていない。スピードはともかく、スタミナがいつまで続くか。考えた傍から苦しくなり始め、僕は歯を食い縛る。

 そのすぐ後ろを、黒羽が庇うようについてきていた。

 坂を下りたところで、偶然にも停車中のバスと出会った。大学発、駅行き。地獄に仏だ。僕はそれを指差し、それから黒羽に合図を送る。


「乗ろう!」


 黒羽が頷いた。

 声と両手で全力のアピールをしたおかげか、バスは僕たちのことを待っていてくれる。駆け込み乗車を運転手からたしなめられたが、いたしかたない必要経費だ。

 こんな天気だからか乗客は少なく、ちょうど後部に二人がけの椅子が空いている。リュックを降ろし崩れるようにして座ろうとした僕を、黒羽は険しい表情のまま手で制して、代わりに自分が窓際に陣取った。


 ……きっと、外からの襲撃を警戒しているんだ。


 どんな理由があるのかは知らない。だけどこの人は本当に、僕をあの怪物から護ろうとしてくれているのだ。

 文字通り、身を挺して。

 そう考えると、胸の奥が痛くなる。

 男の僕でさえ、あいつに襲われたときはただ怖かった。今だって同じ。立ち向かおうだなんて勇気はこれっぽちも無く、安全な場所へ逃げなきゃという気持ちが全身を完全に支配していた。

 それなのに、彼女はどうしてここまで出来るんだろう。ここまでしてくれるんだろう。

 汗が、黒羽の端整な横顔を流れ落ちていく。至近距離から漂ってくる黒髪の匂いは、摩耗した心に心地良く甘い。


「……説明、してくれるよね」


 言えば、黒羽がこちらを向く。沈黙で続きを促していた。


「あの化け物、あんなのこれまでに見たことない。ベンチを一瞬で粉々にした」

「野狐だ。妖怪の一種で、力を持った狐。さっきは使わなかったが、色々な術で私たちを化かすことも出来る」

「例えば?」

「他のものに姿を変える。昔話でよくあるだろ? 女と一夜を共にして、夜が明けたらそこは草むらだった……そんな感じ。他にはこの霧も術の一つだ」

「どうにか出来ないの?」

「私なら気配で見破れる。だけど汝には厳しいだろうな。妖狐の変化は外見を完全に模倣する術だ。例えば、あいつが汝の知り合いに化けて近付いてきたら、違和感を覚えたりしない限り気付くのは難しいと思う」

「妖怪って言ったけど、幽霊とはまた違う?」

「……曖昧なとこだ。幽霊は元々生きていたやつの魂だが、妖怪はそうとは限らない。幽霊が力をつけて変化したパターンもあるし、生きたまま妖魔に姿を変えたやつだっている。色々だ」

「あの狐は」

「さあな。多分、前者じゃないか」


 次から次へと語られる衝撃の内容に僕はため息を吐いた。

 信じたくない。だが実際に襲われた以上、信じるしかない。巨大で、機敏で、力が強くて、しかも面妖な術で攪乱してくる。今の僕らが相手取っているのは、そんなバトル漫画に出て来るようなやつだ。

 明らかに一筋縄ではいかない。


「君なら倒せる?」

「……すまない」


 期待を込めて問い掛ければ、黒羽は悔しげに唇を噛んだ。


「私はあいつより弱いんだ。傷ならつけれる。逃げることも出来る。だけど……それまでだ」

「でも、さっきは追い払ったじゃないか」

「不意をつけたからだよ。おおかた、私のことをただの人間だと思っていたんだろう。現に二度目は避けられた」


 言われてみればその通りである。現に彼女の強烈な回し蹴りを受けても、怪物の動きが遅くなることはなかった。攻撃力だけでなく耐久も嫌なほどある、と。


「そ、そうだ。警察に守ってもらうのは?」

「どれだけ頼りになるかな。彼らは対人特化の組織だ。怪異との戦い方なんて知らない」

「……」

「警官が一人や二人いたところでやつは止められないさ。ただ単に死体が増えるだけだぞ」


 そうかもしれない。いや、考えてみればそんな気がしてきた。警察と聞くと万能感が漂ってくるが、彼らが相手取るのは僕たちと同じ人間だ。そうでなければ害獣のたぐい、それでも精々イノシシ程度。妖怪が敵ではちょっと頼りないし、そもそも信じてくれるかさえ怪しい。

 かといって、お祓いやら何やらで事が収まりそうな気配もない。そもそも、これだけ大規模な濃霧を作り出せる時点で既に格が違う。

 ……そんなの、一体どうすればいいんだ。

 僕の不安を見破ったのか、不意に黒羽が肩を掴んでくる。強引に僕を引き寄せた後、耳元で囁くようにして言った。


「必要以上に怖がるな」

「ふぇっ」

「たしかにあいつは倒せない。だけど追い返すことなら出来る。たとえ私がどうなっても、この命を捨てることになっても、楓には指一本触れさせない」


 掠れ気味のアルトで紡がれる、騎士がお姫様を口説くような台詞。破壊力がすさまじかった。


「――汝は、私が守ってみせる」


 二度目のそれは、動揺している僕の心にとんでもなく効いた。

 追われているにも関わらず心臓はドクンと高鳴り、頬がカアッと熱くなる。

 死にたくないって思いとは、明らかに違う別の何か。


 こんな感情、知らない。


 他人から触れられるのは嫌いだ。その筈なのに、嫌悪感が湧いてくることは不思議と無く、反対に僕は黒羽の温かさから安心を貰っていた。

 視界が歪む。そこに映る彼女は、太陽のように眩しくて美しい。これまで知り合ったどんなやつらよりも王子様だ。


「……君は強いよ」

「そうなりたかった」

「自分の弱さを自覚してる。だから強い」

「……ありがとう。嬉しいよ、楓」


 涼しげなはにかみに、また胸の奥が痛くなる。

 お礼を言うのは僕の方なのに。僕は黒羽に何一つ返せない。精々、言葉遊びで励ましてやれるくらいだ。

 仕方のないことだと割り切るしかなかったが、それでも無力感が凄まじかった。

 感謝と謝罪で迷った結果、僕は次なる質問を放つ。


「あいつが僕を狙うのはどうして?」


 数秒、考え込む仕草をみせた後で、黒羽は答えた。


「手を見せろ」

「はい」

「逆だ」

「はい」


 何となくその意図が分かった。僕は言われた通りに腕を出し、カーディガンの袖をまくり上げる。

 露わになるのは右手の甲。正確にはそこに残る筋状の痕だ。周りの肌と比べてその部分だけが格別に白く、近付けばそれなりに目立って見える。


「……子どもの頃、噛まれたんだ。地面に落ちた烏を助けようとして、狐に」


 小学四年生の夏だった。ある日、一人で神社へ遊びに行った僕は、そこで狐が傷付いた烏を捕食しようとしている場面に出くわしてしまったのである。

 自然界の摂理とか、弱肉強食の原則とか。そんな小難しいことを知った今の僕なら、厳かに十字を切って通り過ぎたことだろう。けれど当時は無知だった。加えて無駄に純粋で、分かりやすく言えば愚かだった。

 当時、僕はささやかなイジメにもあっていたから、襲われる烏と自分とが重なって見えて、余計に同情が湧いたのかもしれない。

 烏が可哀想! 幼心にそう思った僕は、勇敢にも哀れな被食者を護ろうと試み……パニックになった狐から、それはもう盛大に噛みつかれてしまった。

 咄嗟にその顔面を殴って引き剥がしたものの、不幸にもパンチが当たったのは眼球。結果として、僕は悲惨な出血を狐へ強いることになった。その後そいつはどこかへと逃げ、親戚の動物病院へ運んだ烏も翌日には息絶えた。両手に花ならぬ両手が血まみれ。僕にとっては踏んだり蹴ったりの思い出である。感染症に罹らなかっただけ、まだ運が良い。


「これはその時に縫った痕。結構深くてね、今でもまだ残ってる」

「楓にとって、それは誇らしいものか?」

「どうかな。半分くらい恥ずかしい。馬鹿だった頃の象徴だもの。名誉の負傷って言えば、まあ耳触りは良いかも」


 嗤えば、黒羽は黙ったまま何も言わなかった。意味深な沈黙が、僕の脳内で一つの仮説を作り出す。


「……まさかとは思うけど、あの狐が化け物の正体?」

「ご明察だ。現に片目が潰れていただろ? 汝の話とも一致する」

「てことは、僕がどれだけ遠くに逃げても、あいつは絶対に諦めたりしないの?」

「ああ。何故かって、それが狐の存在理由だからだ。私も詳しい事情は知らないが……おおかた、汝の付けた傷がやつの死を招いた、とかだろうよ。積もり積もった汝への憎悪が、死を越えてやつを妖怪へと変えた」


 有り体に言えば、今回の件は僕の自業自得というわけか。

 当時の僕に悪意なんて無かった。そんな言い訳もしようと思えば出来る。

 だが当の狐にしてみれば、生きるため狩りをしていたところに、突然人間が乱入してきて大怪我をさせられたのだ。ましてやそのせいで息絶えたとなれば、憎まない方がおかしい。僕なら末代まで祟る。

 明らかに、謝罪して済む話ではなかった。たかだか“ごめんなさい”の六文字に一体どれほどの価値があるというのだろう。狐の復讐はまったくもって正当なものだ。

 しかし僕だって、黙って殺されるつもりなどさらさら無いわけで。


「……最悪だ」


 頭を抱えた僕を、黒羽が慰めるように撫でた。


「嘆くことない。少なくとも、助けられた側は汝に感謝してるんじゃないか?」

「だけど、最終的に死なせたし」

「それでも私なら感謝する」

「あの烏も同じならいいんだけどね」


 確かめる術がないので、あまり救いにはならない。


「というか、どうしてそんなことまで知ってるのさ」

「さあ、どうしてだろうな」


 ショッピングモールの脇を通って、バスが駅前の停留所に停まる。

 深い霧のせいで駅名すら見えない。空気中の水分に照明の光が溶け込んで、ボンヤリと輝く様はひどく不気味だった。


「お金、持ってる?」

「……これだけだ」


 ポケットから小銭を取り出す黒羽。百円が一枚、十円と一円が二枚ずつ。まったく足りない。


「オーケー、僕がまとめて払うよ」


 彼女は命の恩人だ。たかだか数百円のバス代くらい、安いものである。

 ふと、彼女はどうやって大学まで来たのかが気になった。所持金があれだけなら電車に乗るのさえ厳しい。タクシーなど論外。ということは徒歩? いやまさかな。

 周囲を警戒しながら黒羽が先に降りる。後ろに続く僕。地に足をつけた瞬間、どこかから襲いかかってきやしないかと気が気ではなかった。


「……大丈夫そう?」

「狐の気配は今のところ感じない。撒いた……いや、退いたんだろうな」

「居場所がバレてるなら、襲ってきそうなものだけど」

「下手に暴れて騒ぎを起こしたくないのかもしれない。私という予想外の邪魔者も現れたし」

「……慎重で、賢い」

「つまり手強いってことだ。何をしてくるか私にも分からん」


 油断するなよ。鋭く囁いた黒羽に、僕は首を縦に振って応えた。


「ここからどうするの?」

「安全な場所に向かう。そこに私の師匠がいるんだ。あの狐より何倍も強い」

「力を貸して貰うってわけだね。で、具体的にはどこなのさ」


 訊けば、黒羽が一つの地名を口にする。

 そこは僕たちのいる場所から、電車とバスを乗り継いでようやく辿り着ける山間の地。


 宮崎県――高千穂町。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る