第2話:狐の襲撃

「……はい?」


 開いた口が塞がらない。

 初対面の相手から僕の本名を呼ばれた。それだけで十二分に不思議なのに、追加で映画のような台詞まで告げられたのだ。正直に言おう、理解が追いつかない。

 冗談か、それとも何かのドッキリだろうか? 黒羽と名乗った女性の顔は、まさしく真剣そのものだ。辺りを見渡してみたが、どこかから撮影されているような気配も無い。

 なら、もしかすると変人の類……?


「今、僕を守るって言った? 悪いけど必要ないと思うよ。僕、この通り五体満足だし」


 下手に相手を刺激しないよう、言葉を選びつつ慎重に返事をする。黒羽は短く「今の内はな」と応えた。


「信じられないのももっともだ。だけど危険が近付いている」

「危険?」

「汝は狙われているんだ」

「誰に」

「妖怪」


 失笑が漏れた。

 この人は本気で言っているんだろうか。それとも頭が残念なのか? 幽霊とかならまだしも、妖怪だなんて胡散臭い。そんなもの……この世にいるわけがないのに。


「馬鹿らしい」

「嘘じゃない」

「ふざけてるならやり過ぎだよ」

「ふざけてない! 本当なんだ、今すぐここから離れないと――」


 鬼気迫るような声色に恐怖を覚えた僕は、少し乱暴に黒羽の手を打ち払った。

 彼女が口を閉ざす。悲しげな表情に罪悪感を抱きかけたが、無視。今ので分かった、こいつは不審者だ。周囲に人の目があるとはいえ、このまま構い続ければ何をされるか分かったものではない。


「……いい加減にしろよ。危険だの何だの訳分からないことばっかり。新手の宗教? それとも詐欺? 言っとくけど、これ以上しつこいなら警察を呼ぶから」


 距離を取って、明確な拒絶の意思表示。すると彼女は唇を固く引き結ぶ。しばらく悩む様子を見せた後、ポツリと呟くように言った。


「この霧、変だと思わないか?」


 そこで初めて、ドキリとなった。

 黒羽の言葉が、心の中に芽生えていた違和感を膨らませていく。

 そう、霧はこれまでに何度も見てきた。だが今回のものは、上手く言えないがどこか異質なのだ。爽やかじゃないというか、普段と違って、まるで全身に纏わり付いてくるようで……。


「空気が冷え、その中の水分が凝結して出来る。普通、霧はそういうものだ。故に気温が上昇すれば、自然と薄くなって消えていくのさ。だがこいつはどうだ?」

「今朝から……ずっと残ってる。そんなの有り得ないと?」

「そうだ。この霧は自然現象ではなく妖術によって作られたもの。内部に対してレーダーのような働きをすると同時に、術主自身の隠れ蓑にもなっている」

「証拠が無いよ」

「ああ。だから汝に信じてもらうしかない」

「……そんなの」


 無茶言うな。思わず苦笑いを浮かべたくなる。けれど内心、僕は黒羽の主張に信憑性を感じ始めていた。

 妖術がどうとか、その辺りのことまで何もかも納得したわけじゃない。けれどニュースでも言っていたではないか。今回の霧は“原因不明”だと。

 不安になって僕は周囲を見渡す。心なしか霧が濃くなってきたようだ。数メートル先ですらぼやけて映る。売店の看板はさっきまでハッキリと見えていたのに、気付けば白いベールの彼方だった。

 いや、それよりも……。


「やけに静かだ」


 いつの間にか、人の気配が消えている。

 腕時計を確認。昼休みはまだ終わっていない。いつもなら学生でごった返す筈の時間帯だ。なのに今は、喧噪も笑い声も聞こえてこなかった。

 粘り着くような静けさが、僕に嫌な汗を流させる。


「何をした?」

「私じゃない。……ほら、来るぞ」


 立ち上がり、拳を握り締める黒羽。その目は真っ直ぐに正面を凝視している。つられて腰を上げた僕の耳にも、やがて“それ”が聞こえてきた。

 フーッ、フーッ、という荒々しい呼吸音。初めは遠くから、やがて段々と近付いて。むせかえるような匂いに思わず顔をしかめる中、僕の予想よりコンマ数秒ほど早く、一つの巨体が霧をかき分けて現れる。

 それは獣だった。


「なっ……!」


 地に着けられた四本の脚。黄色がかった毛並みに三角形の耳。片方の目は醜くもひしゃげ、体躯は僕より二回りほど大きい。開かれた赤黒い口の中には、鋭く尖ったいくつもの牙がそそり立っている。

 間違いなく、捕食者の有するそれだった。

 これは……狐?


「楓、下がれ!」


 僕が我に返るのと同時に、獣は地を蹴って襲いかかってきた。

 血走った瞳が見据えているのは……疑いようもなく僕。咄嗟に横へと飛び退いた直後、先ほどまで座っていたベンチが轟音と共に吹き飛ばされる。

 すさまじいパワーに鳥肌が湧き上がってきた。もしもあそこに座ったままだったら、今ごろ僕は――。


「っ、黒羽!?」

「ここにいるぞ」


 冷静な声が返ってくる。舞い上がる土煙の中、彼女はいつのまにか怪物の後ろに回り込んでいた。

 ふわりと。その片足が軽やかに地を離れる。勢いをつけて身体を回転。背後の殺気に怪物は慌てて振り返ろうとしたが、黒羽の方が速かった。刃のように、その踵は空を切って……。

 瞬間、清らかな風が吹いた。


「――フッ!」


 鋭い回し蹴りが怪物の脇腹に突き刺さり、胴体をくの字に折り曲げる。しなやかな身体からは想像もつかないほど力強く、一方でバレエのように美しい一撃だった。

 吹き飛ばされた怪物は体勢を整えきれぬまま地面に落下する。間髪入れずに黒羽が追撃を試みたが、二撃目のキックを怪物は転がって避け、そのまま霧の中に姿をくらました。

 撤退……したんだろうか。

 希望を裏付けるかのように、やがて普段の喧噪が戻ってくる。

 僕は呆然とその場で立ち尽くしていた。

 心臓がドキドキする。何もかも見たことのない世界。僕がこれまで二十年近くかけて構築してきた常識は、たった数分の間に儚くも崩れ去ってしまった。

 夢なら今すぐ覚めて欲しい。


「取り敢えず追い返せたな」

「い、今のは……!?」

「妖怪だよ。これで汝も信用しただろ?」


 そう言う黒羽は微かに息が上がっている。けれど声色は冷静だ。こちらの動揺まで丸ごと包み込んでしまいそうな微笑みに、強張った身体から緊張が抜けていく。

 彼女の言ったことは正しかった。理由は分からないが、怪物の殺意は間違いなく僕に向けられていた。撃退こそ成功したけれど、あれで諦める筈がない。きっとまたやって来るだろう。

 そうなったとき、僕一人では――。


「……一つだけ確認。君は僕の味方、そうだね?」

「そうだ」


 即答。事態をようやく認識し始めた僕に、黒羽が手を差し出して告げる。


「死にたくなければついてこい」


 頷く以外の選択肢は無かった。

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