願わくは比翼の烏となりて
どくだみ
1章:霧と狐とイケメン女子
第1話:霧の濃い朝
僕が異変に気付いたとき、それは山の方から降りてきていた。
事の始まりは七月の下旬、もうすぐ大学の前期日程が終わろうかという頃。一限の講義に出席するべく、僕は一人暮らしのアパートを出た。
大学まではそこそこ距離があるので、いつも通り自転車を使って向かう。腕時計を見れば、現在は朝の八時二十分。いつもより出発が遅くなってしまったが、まあ問題はないだろう。
自宅からキャンパスまで伸びる大学通りは、田舎に似合わぬ二車線の道路だ。すぐ横を颯爽と走り去っていくバイク組を横目に、欠伸をかましつつペダルを漕ぎ続ける。便利だろうなとは思うけど、何となく恐ろしくて免許を取る気にはなれない。
前方に自転車の集団が見えた。二列にも三列にもなって、歩行者用の通路をもののみごとに塞いでいる。いつもの光景だ。そして非常に迷惑だ。だけど声を出す勇気までは無いので、これまたいつものようにその後ろをついていく。
大学が近付いてくるにつれ、チラホラと徒歩組の姿も増えてくきた。大学の近くに住んでいると楽だろうなといつも思う。我が家の場合、合格直後のアパート争奪戦に出遅れたせいであまり立地がよろしくない。スーパーからも大学からも絶妙に離れているという、実に中途半端な有様だ。
結局、講義開始の五分前に大学へ着いた。周りには、遅刻しまいと講義室へ急ぐ学生たちがチラホラ。至っていつも通りの風景に一日の始まりを感じつつ、歩き始めた僕はふと、遠くの方に意識を向ける。
いつも通りではなかった。
「……何あれ」
大学近くの山から流れてくる、白い煙のようなものが目に留まる。
二十年生きてきて初めて見る現象に、僕は思わず瞬きをした。あれは雲……いや違うな。低すぎる。ということは霧だろうか。だけど霧ってあんな広がりかただっけ?
違和感を募らせていたその時、不意に蒸し暑い風が吹く。まず、僕の見つめる方向からサッと一吹き。揺れていた大学旗が垂れ下がり、今度は反対側に
遠くから講義の予鈴が聞こえた。
いけない、このままでは遅刻してしまう。不思議な霧のことはひとまず頭から追い出して、僕は駆け足で教室へと急いだ。
きっと昼には収まっているだろうと考えていた。
※
『交通情報。福岡県西部から佐賀県にかけて広がる原因不明の濃霧により、JR各線は徐行運転を実施中。都市高速全域では交通規制が行われており、十二時現在、いずれも正常化の目処は立っていない――』
「……ひどいことになってるな」
呟いて、僕は携帯のニュースアプリを閉じる。
陽光が遮られているからだろう。もう夏も盛りに入りつつあるのに、大学の構内は異常なほど肌寒かった。
もともと天気予報では、今日は比較的涼しくなると言っていた。そのため薄手のカーディガンを持って来てはいるのだが、それだけではいかんせん心許ない。寒いのが苦手な僕にとっては、あまり好ましくない環境だ。
歩きながら外を見れば、一面の白が広がっている。
深い霧だ。
「これからどうなるんだろ」
僕が二コマ連続で講義を受けている間に、事態はますます悪くなっていたらしい。教室を出た頃には、百メートル先すら見えないレベルにまで霧が濃くなっていた。しかもニュースを見る限り、この霧は相当広い範囲に広がっているらしい。
自然現象。
そう言えばそれで終わりだが、正直、内心では薄気味悪いものを感じている。日を跨いで続く濃霧など、今までに経験したためしがないのだ。しかも霧の中は妙に息苦しい。
不気味な想像をしてしまう。この霧は永遠に明けないのではないか、と。
周りの学生たちもざわついている。皆、パニックにこそならないが不安なのだろう。
気にしたところでどうにもならない。そう分かってはいるのだけど……。
僕はため息を吐きながら外に出た。今はお昼だ。取り敢えず昼飯を食べることにしよう。食堂は混むので、売店で何か買って済ませる。
しばらく迷ってパンとゼリーにした。大学の売店は値段が良心的で、普通の大学生たる僕もしょっちゅう恩恵に預からせてもらっている。
手頃なベンチに腰を降ろし、僕は優雅にランチと洒落込む。
携帯を確認すれば、いつのまにやら通知が二つ。宗像結城と木崎加奈さんから『ライン』が来ていた。二人とも、最近知り合ったばかりの相手だが、僕にとっては趣味の合う大切な友人たちだ。
結城からは『昼飯一緒に食べようぜ』とのお誘い。『ごめんもう食べ終わる』と返信する。僕とは性格が真反対の、どちらかといえば体育会系な好青年だ。金色に染められた彼の髪は、人混みでも本当によく目立つ。
同じ時刻に木崎さんから、こっちは電話の不在着信だ。マナーモードにしていたため気付けなかったらしい。手早くかけ直す。
『あっ、楓くん? 前に言ってた小説を渡したいんですけど、今どこにいますか?』
可愛らしい声が鼓膜を揺らした。同年代の女の子だが、基本的にいつも敬語で話しかけてくる。
「わざわざありがと。売店の傍だよ。ベンチに座ってパン食べてる」
『文系の方ですよね』
「そうそう。霧が濃いから気を付けて」
『了解です。すぐに向かいますね』
それだけ交わして通話は終わり、また食事を再開する。
パンを食べ終えゼリーを取り出したところで、僕は最悪の事態に気が付いた。あろうことか店員がスプーンを入れ忘れていたのだ。
面倒くさいな。愚痴をこぼしながら立ち上がる。手掴みで食べるのはあまりにも馬鹿らしい。仕方ない貰いに行こうか……。
「――そこを動くな」
背後からかけられた鋭い声に、思わず身体が固まった。
今のは……僕に向かっての言葉だよな?
状況を理解出来ないまま、おそるおそる後ろを振り向く。そして直後、僕は呆気にとられた。
イケメンが一人、そこにいた。
「何だ? そのポカンとした表情は」
男のような喋り方。けれど胸にある二つの膨らみと、腰の辺りまで無造作に伸ばされた黒髪が、この人は女性であることをはっきりと物語っている。脳がエラーを吐き出しそうになった。
「聞こえなかったのか? そこを動くな、と言ったんだ」
年齢は僕と同じくらいか、それより少し上っぽい。
ベンチの背もたれに腰を預け、しなやかな脚を組み合わせる様は、まるでモデルか女優みたいだ。スタイルのよさが服の上からでもよく分かる。簡素なジーンズと白のタンクトップが、彼女の野性的な雰囲気をより一層際立たせていた。
睫毛は長くて艶めかしい。その向こうにある瞳は鮮やかな烏羽色。呆然とする僕を映し、そして穏やかに細められる。加えて、鼻筋の通った顔付きに色白の肌。各パーツが理想的なバランスで噛み合わさっているように思えた。
すっごいな、ホント……。
「おい、返事してくれ」
言われて我に返る。僕は今……この人に見惚れていたのか。
「えっと、君は? 待ち合わせなら悪いけど人違いだね」
「間違える筈ない」
「へ?」
意味不明な答えに首をかしげた僕に対し、彼女はさわやかな微笑みを浮かべてみせる。
「危なかったぞ。間に合わないかとも思ったが、何とか先んじて見つけ出せた」
「……は、はぁ?」
返答から察するに、彼女は僕を探していたみたいだ。だけど……何のために? 知り合いにこんな美人はいない。もしや僕、知らぬ間に何かやらかしていただろうか?
訝しみながら相手の様子を窺っていると、彼女は短く息を吸い込んでから背もたれに手をかける。そしてそのまま高跳びの要領で宙に跳ね、ストンと、僕の隣に軽やかに着地した。
それから両手で肩を掴まれる。彼女の髪と同じ深い黒を宿した瞳が、真っ直ぐに僕を見つめていた。
「悪い、自己紹介がまだだったな」
今にも吸い込まれそうだ。
「私は
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます