02 アルドの異変
遡ること二日前の夕刻。
ユニガンの西に位置する小さな村バルオキー。アルドとフィーネが育ったこの長閑な村、その中心に位置する村長宅の台所で、フィーネはいつものように鼻歌交じりに夕げの準備をしていた。
「む。この匂い、今日はシチューかの?」
「うん! もう少しでできあがるから待っててね」
育ての親でもある村長に声をかけられ、フィーネが笑顔を返す。
食事の準備はフィーネの担当である。料理に並々ならぬ情熱を燃やす彼女のレパートリーは、これまでの冒険で訪れた各地の名物料理のレシピを貪欲に習得し続けた甲斐もあり、今ではかなりの数にのぼっていたが、シチューは昔から変わらぬ得意料理だった。
それを今日のメニューに選んだ理由は至ってシンプル――シチューが兄の好物だからである。
「そうか、今日はアルドが帰ってくるんじゃったな」
「うん。明日ミグランスの王さまと会う約束をしてるらしいんだ。でも遅いなあ。どこかで迷子になってなきゃいいけど……」
ちょうどその時、ガチャリ、と玄関の扉が開く音がした。
「あっ、お兄ちゃんお帰り! ちょうどシチューができたところだよ」
「…………」
フィーネが言葉をかけるが、戸口に立つアルドはそれに反応せず、心ここにあらずといった様子でぼうっと立ち尽くしている。
「お兄ちゃん?」
「ん? ああフィーネ、ただいま。うまそうな香りだな。今日はシチューか?」
「え? うん……」
(今そう言ったんだけど、聞こえてなかったのかな……?)
フィーネが心配そうに自分を見つめていることに気付いたのか、「はは、悪い悪い」といつもの快活な笑顔を見せるアルド。
「ちょっと考え事をしてたんだ。じゃあオレ着替えてくるよ」
アルドが二階に上がっていくのを見送ってから、フィーネと村長は顔を見合わせた。
「何かあったのかな、お兄ちゃん?」
「ふむ。まあアルドなら心配あるまい。長旅の疲れもあるんじゃろう」
「……うん。そうだよね」
村長の言葉に頷き、フィーネは心中に生じた不穏なざわめき……「嫌な予感」を振り払う。
まさかその予感が的中することになるとは、この時点では思いもしなかった。
* * *
異変は翌朝に起きた。
フィーネの平穏なる一日は、放っておくといつまでも夢の世界に浸り続ける寝坊助の兄にモーニングコールを届けるルーティンと共に始まりを告げる。
この日の朝もお決まりの儀式をこなすため、朝食の準備が整っても一向に姿を見せる気配のないアルドを起こすため二階へ上がり、毎度お馴染みの台詞を言わんとした――が。
「起きてお兄ちゃん! もうお日様はとっくにペカリの……って、あれ?」
その台詞は最後まで発されることなく終わった。
何故なら、その言葉をかけるべき相手がいなかったから。
アルドのベッドはもぬけの殻だった。
* * *
「……それだけ?」
フィーネの説明を聞いたエイミが拍子抜けしたように言う。
「それって、アルドが先に起きて出発しただけなんじゃないの? ほら、ミグランス王に会う約束をしてたんでしょ?」
至極もっともな指摘だったが、フィーネは首を横に振った。
「約束は午後だったし、そんなに早起きする必要はなかったはずだよ。それに、お兄ちゃんが私が起こす前に起きるなんて、今までほとんどなかったし」
「そ、そうなの……それは大変ね」
若干引いた様子でエイミが答える。
アルドは朝に弱いわけでもロングスリーパーでもないが、寝ようと思えばいくらでも寝ていられるタイプだった。それが彼の本来の姿の持つ性質からくるものなのか……は定かではないが。
「フィーネ殿が起きた時はアルドはまだベッドにいたのでござるか?」
「そこまでは確認しなかったからわからないけど……でもきっと夜のうちに家を出たんだと思う。私はずっと家にいたから、起きてきたら絶対に気付くはずだもん」
「ピピ――シミュレート完了。アルドさんが夜中に家を出た確率は200パーセントと出てイマス!」
フィーネと村長が寝ている間にアルドが家を抜け出した。それはどうやら確実らしい。
それでもエイミには、何故フィーネがそこまで深刻な表情をしているのかがわからなかった。
「何か急な用事でも思い出したんじゃない? フィーネたちを起こさないようにこっそり出て行ったとか」
フィーネは思わしげに首を振ると、「それだけじゃないの」と呟いた。
「実は、他にも気がかりなことがあって……」
「気がかりなこと?」
「うん。お兄ちゃんがいなくなったことに気付いた後なんだけど――」
* * *
(お兄ちゃん、どこに行ったんだろう? こんなに早く出るなんて昨日はひと言も言ってなかったのに)
散歩にも出ているのだろうか。そう思って家を飛び出した時だった。
「フィーネちゃん!」
聞き慣れた声で名前を呼ばれ、振り返ると、二体の魔獣――緑色と黄色の寸胴体系という、他の魔獣とは似ても似つかない姿をしているが、一応魔獣であるらしい――が、ぺたぺたとフィーネに近づいてくるところだった。
「あっ。おはよう、ぺポリ、モベチャ」
旅の途中でフィーネと仲良くなり、村長の家に居つくようになった今ではアルドのことも「アニさん」「アルド兄ぃ」と呼び慕っている、人懐っこい二人である。
「そうだ、二人ともお兄ちゃん見なかった? 急にいなくなっちゃって」
「なんやて!? そうか、やはりアニさん……」
「えっ? 何か知ってるのぺポリ!?」
ぺポリにフィーネが詰め寄ると、その勢いに驚いたのか、ぺポリは「お、落ち着いてやフィーネちゃん」と後ずさる。
が、とても落ち着いてなどいられない。今のぺポリの口ぶりには明らかに不穏なニュアンスが含まれていて、それがフィーネの不安を掻き立てていた。
「あんな。実は昨日の晩、モベチャが見たらしいんや。部屋で一人、アニさんが――」
* * *
「…………」
二階の寝室で、アルドは窓から外を眺めていた。その表情は真剣そのもので、悲壮感すら漂っている。
「……残された時間は少ない。やっぱりオレがなんとかしないと……」
「アルド兄ぃ?」
突然声をかけられ、アルドが振り返ると、モベチャがいつの間にか背後に立っていた。
「なんだモベチャ、いたのか。全然気づかなかったよ」
「ねえアルド兄ぃ、いま言ってたのって……」
「ああ、聞かれちゃったか」
気まずそうに頭を掻くと、アルドは再び窓の外に視線を向けた。
大きな満月が寝静まった村を煌々と照らしている。月影の森であればより美しく幻想的に夜空に輝いて見えることだろう。
「……なあモベチャ」
ぼそりと、呟くようにアルドが言う。
「たとえば絶望的なくらい強い敵がいたとしてさ。どうしても勝たなきゃいけないのに、自分の力じゃ歯が立たないって状況になったら、お前ならどうする?」
「え? どうするって……」
突然のその質問の意図が分からず、モベチャは答えられない。
アルドの声色はいつになくシリアスで、どこか思いつめているように聞こえる。
「もし自分が戦えなくても、仲間を頼ればいい……それじゃダメなんだ。オレのせいで皆を危険にさらすなんて、オレには耐えられない。だから、オレが頑張らなきゃいけないんだ」
「ど、どうしたのアルド兄ぃ? 言ってることがわからないよ」
モベチャは困惑する。
アルドが突然何を言い出したのか、まるで理解できない。しかし先ほどからアルドの口調は、まるで悲壮な覚悟で死地へ赴く戦士のような――
「悪い、そうだよな。でもモベチャと話して自分の考えがすっきりしたよ。オレ、行かなきゃ」
そう言って部屋を出て行こうとするので、モベチャは慌てて声をかける。
「アルド兄ぃ? こんな時間にどこに行くの?」
「フィーネによろしく言っておいてくれ。頼んだぞ、モベチャ」
モベチャの質問には答えずそれだけ言い残すと、アルドは部屋を出て行ってしまった。
「アルド兄ぃ……」
引き留めることもできず、どうしていいのかわからずに、モベチャはしばらく呆然とその場に佇んでいた。
* * *
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