第21話 はじめてのアルバイト

 結局あの後、銀行強盗騒ぎで口座開設はできなかった。しかし、鮎川がネットで申し込んでくれたおかげで、無事、バイトまでに間に合わせることができた。

 ぶっちゃけ……最初からそうすればよかった。

 まあ……とにかく庶民感覚のない莉緒に何かを頼む時は、注意が必要だと改めて知る出来事だった。


「そこ、飛び込んだらダメですよ」

「はーい、すみません」

 バイトの1番の目的はスマホを買うためだが、それだけが目的ではない。

 いくらか生活費を、莉緒に支払いたいと思っている。


 今の家で莉緒に世話になって、しばらくが経つ。強引にお世話されているというのが、実情だが、俺も優里亜もヒモ同然の暮らしが続いている。

 お金を払うと言っても本人は断るかも知れないが、とりあえずその意思は示したい。これは俺なりのケジメなのだ。


「どう楠井君、ちょっとは慣れた?」

「ああ、まあ、少しは」


 彼女は俺の教育係の笹木ささきさん。

 ちょっと露出度が高めの、この仕事をするには、目のやり場に困るスタイルの持ち主だ。


「ていうか、楠井君すごい体だね」

「え……そうですか」

 俺的には笹木さんの方がすごい体だと思うが。


「Tシャツの上からでもわかるぐらい、バキバキじゃん。ちょっと触ってもいい?」

「ああ、別にいいですよ」

 笹木さんは、おもむろに俺の腹部を撫でまわした。

「やっべ、固ってぇ、どんな鍛え方したらこうなるの?」

「えーと、普通にですかね」

「普通にってなに? 何かスポーツやってるの?」

 スポーツ……軍隊格闘技は確か……、


「マーシャルアーツですね」

 たしか別名はこれのはずだ。


「マーシャルアーツって格闘技?」

「はい」

「おー凄い、今度よかったら教えてよ」

「別に構いませんよ」


 バイト初日、不安がないわけでもなかったが、この分ならうまくやっていけそうだ。



 ***



「今の見た、麻美」

「はいバッチリと」

「イチャついてたわよね」

「イチャついていましたよね」

「何をやっているのかしら」

「何をやっているんですかね」

「油断も隙もないわね」

「油断も隙もないですね」


 楠井君……せっかく陣中見舞に来てあげたというのに、他の女とイチャついているってのはどういうことなの?

 まさか、その女とイチャ付くために、このバイトを選んだのではないでしょうね。


「莉緒様、こっち来ますよ」

「隠れるのよ!」

「はい!」


 楠井君……なに、2人で楽しそうに肩を並べて歩いているのよ。

 私という……友達以上恋人未満の存在がありながら。

 ていうかなんで、この私が隠れなきゃならないのよ!


「ねえ、楠井君はなんでウチで働こうと思ったの?」

「スマホが欲しいからです」

「え……スマホ? じゃぁ今、持ってないの?」

「持ってないですよ」

「ほえぇーっ……不便じゃない?」

「連絡取る相手がいないんで、不便はないですよ」

「なに……その、寂しい理由」

「そうですか?」

「まあ、世間的にはね……じゃぁ彼女とかいないの?」

「いないですね」

「おっ……おう、イケメンなのにもったいない」

「そうですか」

「そだよ、そのイケメン、無駄に消耗するぐらいなら、今度一緒に遊びに行こうよ」

「別にいいですよ」

「本当! 絶対だよ!」



 ***


 

「莉緒様……聞きましたか今の」

「ええ、聞いたわ」

「さり気なくデートの約束してましたよね?」

「さり気なくデートの約束してたわよね」

「なんか私……イライラするんですけど」

「偶然ね麻美……私もイライラするわ」

「やっちゃっていいですか」

「それは待ちなさい麻美……あなた泳げないでしょ」

「そ……そうでした」


 本当にイライラする……なぜよ楠井君。

 奈緒香といい、その女といい、私にメロメロにさせろって言っておきながら何故、他の女と簡単にデートの約束なんてするの?


「莉緒様どちらへ!」

「ムシャクシャするから泳ぐのよ!」

「待ってください私も行きます」


 なんなのよ、本当に……、

 確かに私たちは付き合っていないわ。


 でも楠井君……あなたは私の気持ちを知っているはずよね?

 もう少し私を特別扱いしてくれてもいいじゃない!


「莉緒様、泳ぐ前に準備運動ですよ!」

「分かってるわ」


 バシャン!


 私は麻美の言葉を無視してそのままプールに飛び込んだ。


「ああ、莉緒様飛び込みはダメですよ」


 思いっきり泳いで疲れたら、このムシャクシャする気分も少しは落ち着くだろう。

 そう思っていた。


 ……人を好きになるってことが、こんなにも苦しい事だなんて知らなかった。

 嬉しいも、悲しいも、イライラも、感情が全部倍になって反応してしまう。


 楠井君がさっきあの女と話していたのは、ただの社交辞令かもしれない。

 頭では分かっているのだけど、冷静になれなかった。


 私はそんな自分に腹が立つ。


 そして……、

「痛っっっっっっっっっっっっっ!」


 くっ……もしかして足がつった?

「がはつ!」

 

 ダメ……水を飲んでしまった。

 いっ、息が……。


「莉緒様! 莉緒様!」



 ***



「莉緒様! 莉緒様!」


 莉緒様……ていうかあの声は……鮎川。

 うん? あの水しぶきは!


「莉緒!」

 体が自然に反応した。

 考えるよりも早く俺は水しぶきの元へ向かった。


 バシャン!


 この国でいうところの、火事場の馬鹿力というやつだろうか。力が漲って、すぐに水しぶきの元まで辿り着いた。

 そして、水の中でぐったりする莉緒を見た俺は、過去の記憶がフラッシュバックして、絶望に心が支配されそうになった。


 だが……今はそんな場合ではない!

 助けるんだ。


 必死だった……必死で莉緒を抱えてプールサイドまで泳いだ。


 だが莉緒は目を開けなかった。

 恐らく水を飲んだのだろう。

 だが、まだ脈はある大丈夫だ……俺は迷うことなく、莉緒に人工呼吸を行った。


 これが口付けだとか意識していたわけではない。

 助けたい一心でだ。

 

 そして3回目のマウストゥマウスで、莉緒は水を吐き、目を開けた。


「莉緒様!」「莉緒!」


「あ……麻美……楠井君」


 莉緒は俺達をちゃんと認識していた。

 とりあえず良かった。

 最悪の事にはならずに済んだ。

 そして、俺は莉緒の上体を起こし、抱きしめて、言ってやった。


「莉緒……こんな、ドキドキは必要ないんだ」

 莉緒は俺の胸に顔をうずめ、

「……ごめんなさい」

 珍しく素直に謝った。


 そして俺は、優しいオーナーの心遣いで、初めてのバイトだというのに、早退するハメになってしまった。

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