第103話 エル――市ノ海絵流の愛

 犬が好きだった。


 幼い頃、学校の帰りに見つけた捨て犬がきっかけだった。

「拾ってください」と張り紙のしてあるダンボールに入れられた、犬種は確か幼い芝犬だったと思う。

 その犬は自分が捨てられたということに気付いていないようで、通り過ぎる人間に元気にきゃんきゃんと吠えていた。


 その日、家に帰りたくない私はいつものように寄り道をしていた。

 そして、その犬を見つけた。

 学校の通学路から少し外れた公園。そこに続く道の、花壇の隅にいた。


「きゃん! きゃん!」


 犬は私に向かって吠えた。

 威嚇しているんじゃない。幼い犬はコミュニケーションの方法をこれしか知らないんだと思う。

 自分の置かれている状況が、命の危機に瀕するものであることをまるで理解していない顔。

 私は犬に餌をあげた。


 それから毎日、学校から帰るときに餌をあげた。

 おそらく一週間以上は続いたと思う。

 正直、最初は家に帰らないための口実だった。犬なんて興味ないから、同情して餌をあげるなんてあり得ない。

 ただ、最初はその気がなくても、次第に情が湧くものだから人間とういのは単純だなと思った。

 でも、一週間も捨て犬が放って置かれるなんて、周囲の人間の冷たさには呆れた。

 私も餌をあげただけで拾って帰らないのだから、彼らと同類なんだけど。当時は被害者面をしていた気がする。


 餌をあげて帰ろうとした時、犬はダンボールから出てきて私の周囲を走り回った。

 遊んで欲しいということなんだろうかと迷ったけど、家に帰るのを少しでも遅くしたいから私は遊んでやることにした。

 手のひらサイズのゴムボールを投げて拾いに行かせる遊び。

 単純だけど犬は大喜びで走って行っては、ボールを咥えて戻ってくる。口にあるボールを受け取ってまた投げる。

 犬は何度だって喜んでボールを取りに行く。


 自分が走って取ってきたものを同じ場所に投げられるって、人間だったら大激怒だと思う。

 でも犬は喜ぶんだ。変なの。


 それから毎日、遊ぶ内容を変えていった。


 お手。

 おかわり。

 間違えたら頭を軽く叩く。犬は撫でられたと思って大喜び。


 ――ゾクリ


 胸の奥に鈍い、熱い何かが湧き出す。


 この感情はなんだろう。

 いけないものな気がする。

 でも、脊髄から脳まで駆け上がってくるこの黒い高揚感はなんとも言えない快感を覚えさせる。


 私は犬に目一杯優しくしてあげた。

 犬も次第に私に懐き初めて、学校帰りに公園近くまで行くと勝手に迎えにくるようになった。

 餌をあげて遊んで、それから家に帰ろうとすると足に顔を擦り付けてきた。

 まだ帰って欲しくない――言葉は分からなくても、そう言っているのがわかる。


 だから私は思いっきり足を動かして犬を引き剥がした。

 そして、犬は悲しそうな鳴き声をあげる。その姿にまた、脊髄に熱いマグマが流れ込む。


 最初は楽しそうに吠えるだけだった犬だけど、今はこうして寂しそうな表情を見せるようになった。

 それは全て、私が与えたもの。

 その感情は全て、私にだけ向けられたもの。

 捨て犬っていうか弱い存在が、私という人間に依存して生きているその事実。

 それが、とても楽しかった。

 支配者になった気分だった。

 一つの生命の生死を、私が握っているということに、全能感を抱いた。


 そう。

 私は、私を好きなものが私によって管理されることが好きなのだと、いまこの瞬間に気が付いたのだ。

 それは度が過ぎた管理主義。束縛の激しい人間だと言われるだろう。

 けど、みんなもこの脊髄を流れて脳にまで達する熱々としたマグマを味わえばわかるだろう。

 この行為が、如何に感情を高ぶらせる行為なのかを。


 だが、そんな遊びにも終わりが来た。


 数日後、犬は公園で見知らぬ子供たちと遊んでいた。

 私に見せるような楽しそうな笑顔と全く同一のものを、その子供たちにも向けていた。


 嗚呼――所詮はこんなものか。


 あの犬にとって、私は餌をくれてよく遊んでくれる人。

 それだけの存在だったのだろう。

 懐いていたのも、動物の本能とやらで「この人間は餌をくれる」と判断していただけなのかも。


「! きゃふーん!」


 犬は公園に近づいた私に気付いてこちらに走ってくる。

 子供たちは犬がいなくなったことに残念そうにしていたが、飽きたのかどこかへ行ってしまった。

 犬はまた、私の足元にすり寄ってくる。


 こうしてみると、媚びを売る人間みたいだ。

 途端に汚らわしく見えてくる。

 娘の帰宅時間にも関わらず、知らない男を部屋に入れてそこで体を重ねているあの女みたい――


「ぎゃう!?」


 足が出た。

 犬は驚いている。でも吠えてこない。

 何かの間違えかと思ったんだろう。再びこちらに寄ってくる。


「ぎゃ……!」


 今度は上からゆっくり踏む。

 死なない程度に力を抑えて、ゆっくりと。

 もっとも、小学生の女の子が思いっきり踏んでも死ぬかどうか。

 いや、流石に死ぬかもね。わかんないや、犬のことなんて。触れたこともないもの。


「が……ぁぉ……」


「ごめんね。痛かったでしょう? さ、こっちにいらっしゃい。すぐ楽にしてあげるから」


 それから歩いて十数分。小さな川にやってきた。

 昔はここに蛍がいたらしいけど、最近じゃ全く姿を見せないと町のお爺さんお婆さんが言っていた。

 川は小学生の膝より少し低いくらいの浅さだ。ここに犬を入れてあげる。


「わぅ! わおーん! ぉぉ!」


「あはは! あなた犬なのに泳げないのね。しょうがないわよね、生まれてからすぐあんなダンボールの中の世界しか見たことないんだもの。でも動物って本能で泳げたりするものじゃないの? あなたよっぽどグズなのね」


「わふっ! わふっ!」


 犬は必死に水面から顔を上げようとしている。でもだめ。

 それじゃ面白くないもの。

 私は犬の両脇を掴んで、水中に腕を下げていく。


「がぼぼ……」


「はい、浮上〜! どう、キツかった?」


「がほっ! がほっ! きゃうぅ〜ん……」


 弱々しい声をあげて私のほうを見てくる。

 この状況でも吠えないなんて、きっと根性がない犬なのね。

 でも、死にそうになってきたら私に媚びを売るように鳴くなんて、素敵。


「さぁ、もう一回沈んでみましょう」


「がっ! ぉぉぉぉ!」


 ぶくぶくと泡が水面に出て、そして泡の大きさが小さくなり、泡が消えたところでまた水中から出す。


「くぅ〜〜ん」


「ぷっ! あはははは! うふふふふふ! 素敵! あなたとっても素敵よ! いいわ、とってもいい。私、あなたに興味なんてなかったけど、今ので犬を好きになるくらいに素敵だったわ!」


 死ぬ寸前に目の前の相手に縋り付く情けなさ。

 暴力を振るっている相手なのに、そんなことを忘れるくらい自分の命に必死になって。

 でも、そんな懇願するような態度を踏みにじるのが最高に快感。


 だから、ね?


「最後にもう一回、頑張ってみよっか♪」


「きゃん! きゃん!」


「ダーメ。あなたは死ぬの。もう私が決めたの。あなたという存在の全ては私が握ってるの。あなたにとって私は神様。どうなろうが私の気分次第なのよ。そして、私はあなたの苦しむ姿がとっても好き。最後に素敵な姿を見せてね♪」


 さぁ、あなたも私を楽しませて。

 私のような弱い存在に全てを踏みにじられる無様さを、その死に様で彩って。

 パパのように、私に一生消えない思い出を見せてちょうだい。


「あぁ――愛って素敵だわ」




 あれ以来。私は犬が好きになった。

 私の考えていることなど露も知らずに懐く純粋さに、いけない感情が湧くから。

 そして、人も同じだと思う。

 私の真意も知らずに、普通の友人関係を築いているあなたは、どこかあの犬を思わせる。

 だから大好き。

 もちろん、顔が好みだってこともあったんだけど。でもそれはリアルのあなたを見つけてからだし。


 だからね、トール。

 あなたはニブルデスで私に全てを委ねていればよかったの。

 あなたの全てを私は受け入れるから、あなたは全て私に捧げればそれでよかったのに。


 だというのに、ここからいなくなって。

 それに、

 知らない女よね。ひょっとしてNPCかしら。

 ふふ、うふふ。

 ひょっとして、私ってそのNPCに負けたのかしら。

 だって、私はあなたにキスなんてしたことないわ。

 それはお互いの了承を得てからだって決めてたもの。


 ねぇ、その子。

 邪魔ね。


 うん、そうだわ。

 あなたがこのニブルデスを嫌うというのなら。

 私は、あなたの望み通りにしてあげる。


 すぐ会いにいくわ。

 待っててね。トール。


 それと、茜色の髪の女の子。

 あなたは特別に遊んであげるわ。じっくりとね。

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