第90話 霊山の戦い

 炎というのは、生物にとって最も古い恐怖の象徴である。

 遺伝子レベルで刻まれた恐怖は、見ただけで体が震えるほどだ。

 ちょっとした火程度ならばたいしたことの無い痛みでも、人は反射的に避けてしまうだろう。


 戦乙女ブリュンヒルトの周囲に展開される青い炎は、彼女の冷え切った心と燃え盛る怒りを表す、心の鏡のようだ。


 その炎を見る度に思う。

 ああ、人の感情というのは形にするとなんと恐ろしいのだろうと。


 彼女には怒るだけの理由があり、

 俺たちはその怒りをぶつけられるだけの事情がある。

 故にこの蒼炎が俺たちに襲いかかるのも当然だ。


 そしてこの震えも当然のものであり、つまり俺はブリュンヒルトを恐れていた――



 ◆



「結界をどうにかしないと、逃げられない! あっちが無敵な以上こっちが数で有利でも埒があかないよお兄さん!」


「わかってる……」


「結界を破壊するには術者を倒すか、核となる術式や触媒を破壊するしかないんだ! でも、戦乙女のお姉さんは倒せない! だから核を破壊しないといけない! この、馬鹿みたいに広い霊山で! 霧が立ちこめる場所で! 核を探して破壊しないと行けないんだよお兄さん!!」


「わかってるっ!! この状況が最悪なことも、状況の打破が困難なことも……わかってんだよ! だけどやるしかないだろ、くそったれ! こうなったら全力だ、俺がブリュンヒルトの相手をする! お前は二人を守りつつ結界の核を探せ!」


「でもそんなことしたらお兄さんが死ぬよ? ここは二人で挑んでお姉さん達に探して貰った方が……」


「万が一! 至神乙女のやつらがこの結界内にいたらどうする! 二人が逃げ切れると思うか? それに核探しもそうだ。二人が探しきるまでどれくらいかかる? お前の風糸結界なら探せるだろう! お前がやるんだよ、二人を守りながら核を探せ!」


 ビュウの肩を叩いて説得する。


 俺じゃダメだ。

 俺だと術式探しなんて出来ない。感知系の能力に長けているわけじゃないからな。

 それに、ルビィとウルズの二人を守りながら戦うのも、戦闘経験に欠ける俺じゃ上手く出来るか分からない。

 両方こなすのは難しい。

 だからビュウに任せるしかない。悔しいが、こいつの方が俺より強いからな。


「やれるか、ビュウ。ルビィを……あいつを守るにはこれが一番いいんだよ」


「……わかったよお兄さん。死んだらダメだよ、寝覚めが悪いからね」


「ああ、死んだらお前の枕元に立ってやるから安心しろ」


「ははっ、お兄さんは簡単に死にそうにないね。……じゃあ、いくよお姉さん達!」


 ビュウは二人を浮遊魔法で少しだけ浮かべる。

 二人分の重量を浮かせるのは難しいはずだが、ビュウ本人が地面を走ることで負担を軽減しているようだ。


「とおくん! すぐに術式を見つけるから! 死なないで!」


「トール! がんばるのです! 生きてまた会ったら、神都のおいしいお店を紹介するから死んじゃダメなのですよ!」


「ああ! ここは俺に任せて先に行け!」


 一回言ってみたかった台詞第三位、俺に任せて先に行け!

 言ったが最後、敵と相打ちもしくは死ぬのが定番となっている死亡フラグの台詞だ。

 まさか現実の会話の中でこの台詞を言う機会が来るとは思わなかった。

 そして言ってみて分かったが、この台詞を言うと気合いが引き締まる。

 やってやらねばという気分になる。


「あらあら、お相手はあなただけですの? もう一人の少年はいいのですか?」


 そう。

 目の前の化け物の足止めを、やってやるという気分になるのだ。


「おうさ。あんたを倒すんじゃなくて戦うだけなら俺でも出来る。そして結界を壊すのはあいつらじゃないと出来ない。適材適所ってやつだ」


 既に心に恐怖はなく。

 あるのは使命感のみ。


 後ろには守るべき仲間。

 前には倒すべき敵。


 なら、怯えている暇はない。


 震える膝を叩き、剣を抜け。

 いざ、最強の戦士に挑まん。


「行くぞ戦乙女! 決死の覚悟で挑むんだ、必死になってくれよな俺に!」


 凍えるような蒼炎に眩い雷光がぶつかる。



 ◆



 霊山の中腹に、高速で移動する影が三つ。

 先頭を走るのは小さな少年、ビュウ・レイストだった。

 その後ろに続くのはルビア・ミズガルズとウルズ・ル・ファウンテンの二人だ。

 彼女達は高速で移動する術を持たない。そんな身体能力を持ち合わせていなければ、魔法も習得していない。

 しかし、ビュウの【フライ】によって浮遊し、術者であるビュウに追随する形で移動していた。


「ビュウ君! 術式そのものか触媒を探すって話だけど、何か出来ることあるかな!?」


「私たちもやれることがあればなんでもするのです!」


「じゃあ風魔法でも出してくれないかな。この森霧が濃くってさ!」


 もちろん、本当に風魔法を使って欲しいわけではない。

 そもそも、個人の発動できる魔法程度でこの山の霧をかき消すことなど不可能だ。

 もっとも極神ほどの力を持ち、かつ風魔法の適正に秀でた者であれば可能かも知れないが。


 ビュウはこの霊山に発生している霧に辟易していた。

 理由は二つある。

 まず一つは視界が悪くなるためだ。高速で走っている今、足場の悪い場所を見極めるのは神経を使ってしまう。

 そして二つ目に、風糸結界の精度が鈍るためだ。

 先程魔物に襲われた際、無機物と生物の判断が曖昧になってしまっていた。

 本来なら、ビュウの風糸結界はその程度見極められる。動かない魔物だろうと、物質と同化した魔物だろうと風糸結界は風に乗った魔力や気配、わずかな揺れ全てを見抜く。

 だがこの霧は魔力が混ざっており、トールの世界でいうチャフのような役割を果たしてしまっていた。


 感知系の魔法が悉く精度を落とすことになるのだ。


 それでも、目に頼る他の人間に比べれば遙かにマシではある。

 精度が落ちようと、最低限動く生物は感知出来るのだから。


 しかし、ビュウが感知している領域内で突如光の槍が飛んでくる。


「なにっ!」


 風糸結界の範囲にも関わらず、意識外からの攻撃にビュウは驚愕した。

 飛んできた光の槍は八本。

 いずれも中級魔法の上位から上級魔法の下位程度の威力はある。

 直撃すればビュウでもダメージを負う破壊力だ。


 八本の槍全てがビュウを囲むように放たれて――その全てを体の動きだけで避けきる。

 後ろにいるウルズ達には一本も槍が飛んでいってないことから、この攻撃は明らかにビュウのみを狙ったものだった。


「ふう。まさか風糸結界に引っかからない人間がいたなんて。びっくりしたよ、至神乙女のお姉さん達」


 白い外套の女達が霧の中から現れる。

 八人の至神乙女達、その全てが光の槍を新たに生成する。


「いくら何でも芸が無いんじゃない? そんな攻撃、僕には通用しないんだけど」


「…………」


「まぁ? どうやったか知らないけど気配を消して攻撃してきたのは驚いたよ。あと十本くらい槍があれば僕に当てることが出来たかもね」


「…………」


 至神乙女達は槍を放つ。

 八本の光はビュウ目掛けて飛んでいき、全て回避される。

 そして、ビュウが反撃に出ようと剣に手をかけた時――――



 ◆



 ブリュンヒルトの槍と俺の剣が火花を散らせる。

 槍の方がリーチが長い分、攻撃速度は俺が勝っているはず。

 なのに、どんどんブリュンヒルトの攻撃速度が増して行っているのは気のせいか?


 打ち合いの最中、ブリュンヒルトが口を開く。

 暇を潰そうとでもいう、気軽い口調で。


「帝国の少年を行かせたのは愚策であり、英断ですね」


「あ? 何を言っている。謎かけのつもりか」


「いいえ、いいえ。本当のことを言ったまでです。あなたの判断は正しいけれど、予測が甘いって話ですよ」


「何を……」


「あなたは万が一至神乙女がこの結界内にいたら……なんて仰っていましたが、いるに決まっているではありませんか。私がここにいるのです。ならばその配下である至神乙女がここにいることに何の疑問がありましょう」


 嫌な予感は得てして的中する物だ。

 だから覚悟はしていたし、そのためにビュウをルビィ達に同行させた。

 不幸中の幸いとでも言うべきか、バッドニュースにしては優しい内容だ。


「だったらどうしたよ、こっちには四魔将のビュウがいるんだぜ。至神乙女が何人いようと関係ないだろうさ」


「ええ、ええ。普通ならそうでしょう。ですが、もしこの山に、至神乙女たち一〇〇〇人が集結しているとすればどうでしょう」


「せ……一〇〇〇、だと? そんな馬鹿な話があるか! 俺たちが霊山に着いたのがついさっきだぞ! 一〇〇〇人もの大所帯が移動していたら流石に気付くに決まってるだろ!」


 そんなはずはない。

 ブリュンヒルトは嘘をついている。

 俺を動揺させて倒すためにつく嘘だ。ブラフに決まっている、こんなもの。


「では、一つお聞きしたいのですがあなたは私がどうやってここまで先回りしていたと思いますか?」


「それは……」


「答えられませんよねぇ? あなた方が先を行っていたはずなのに、なんで私たちが先回り出来てたのかなんてわかりませんよねぇ? でも、答えは簡単なんですよ」


 ブリュンヒルトは首元からぶら下げた小さな宝石を取り出す。

 それは青く、丸い綺麗な石で、教会などに設置された転移石を思わせる。


「転移、石……?」


「そうです。これは簡易的な転移石、転移小石です。特定の場所同士しか行き来出来ない、テレポの下位版です。おまけに量産は難しいというおまけ付きですの。だからこの石を持つのは私だけ。そして登録地点はこの霊山です。一度来た場所しか登録できないって面倒ですわよね」


「じゃ、じゃあ俺たちがここに来るのを予め見越して……」


「それもありますが……この国の主要な場所を複数の転移小石に登録していましたので。その中からあなた方が行きそうな場所を選んだだけですわ」


「転移小石を持ってるのはお前だけじゃないのか!」


「一つだけ、なんて言ってませんわよ」


「……っ!」


 つまり、つまりだ。

 俺たちはどこへ逃げようと、最初から追いつかれる運命だったってことか?

 この国にいる以上、ブリュンヒルトの行けない場所はない。

 つまり、ブリュンヒルトから逃げ切れる場所はないのか。


 じゃあ。

 じゃあ、この逃亡劇の意味は?

 俺たちが数日かけて逃げている間、こいつらは紅茶でも飲みながらそろそろ俺たちが霊山に着く頃合いかと時計を眺めていたってわけか?

 なんだよそりゃ、タチが悪すぎるだろ。


「それと――」


 まだ、何かあるのか。

 もう悪いニュースは聞き飽きた。


「この霊山に結界の術式、触媒の類いはありません。神都にありますので。ですから、結界を破壊して逃げたければ私を倒すほかありません。無敵の私を倒すしか、ね♪」


「ふざけんなよ、くそおおおお!」


 怒りのあまり、【ゴッド・グラン・ジャッジメント】を発動し直撃させるも、ダメージは見当たらなかった。

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