いろはうた

水城 真以

いろはうた


      *


「あれが一の姫様か」


 輿を降りた瞬間から、通りすがった侍女達から、庭師達から、家臣達から。まるで見世物にされたように、視線が浴びせられる。

 五郎八いろは姫は拳を握り締めながら、部屋の奥で膝を立てた。帯の締め付けが江戸にいた頃よりも苦しく感じる。


(同じ日ノ本だというのに……江戸とも京とも、高田とも違う国のようだわ……)


 調度品1つ取っても、衣の着合わせにしても、違う。侍女達からは「姫様は京でお生まれあそばれたから」と、嗤っているのか微笑んでいるのか分からない手を借りながら、なんとか仙台での暮らしに慣れて行くことができるだろうかと、一抹の不安を抱く。


 夫であった松平忠輝まつだいらただてるとの離縁を機に、父・政宗まさむねからは「仙台に来るように」と勧められた――というより、命が下った。

 本心では生まれ育った京を離れてまで、数えられる程度しか来たことのない北国に来たいとは思わなかった。しかし、大御所である家康公の目から離れるためには、仙台に戻るふりを厭でもしなければならない。政宗とて阿呆だ狐憑きだと揶揄されながらも、政には長けている。五郎八姫を徳川のお膝元に置いておくのは危険だった。


 五郎八姫は喉の渇きを覚え、侍女に水を頼んだ。長く輿に揺られていたせいだろうか。胸の辺りから何か噎せ返るような酸味を感じた。


「姫様、お顔の色が悪うございまする」


 侍女のが顔を覗き込んで来た。たいの顔色は、今の五郎八姫に負けず劣らず蒼褪めている。

「お体の具合が、よろしくないのですね」

「大丈夫よ。大したことはないわ、このくらい」

 侍女に言い聞かせながら、五郎八姫は息を吐く。自分自身を励ます意味合いも込めて。


 政宗の命令で京から仙台に来たものの、それほど長くは居座らない予定だった。まだ、京と江戸の伊達屋敷に残して来た用もあるし、京に残した母との別れも惜しみたい。此度の滞在は、下見のようなものである。

 五郎八姫は京で生まれ、京で育った。仙台に来たのは、嫁ぐ前少し前のことだった。


 下ろした御簾の向こうでは、紫陽花が咲いている。桜の葉も青々と風に揺れ、縁を歩く五郎八姫の目を楽しませてくれた。


「京に比べると、仙台は涼しいわね」

 五郎八姫が呟くと、たいは安堵したように微笑んだ。

「冬は、京に負けずにお寒うございますよ。ですが、きっと慣れます」

「ええ。江戸に比べたら寒いけれど、高田とはあまり変わらないに決まってるわ」

 五郎八姫はそっと視線を下にずらした。長く揃った睫毛が、夜空のような双眸を覆い隠した。


 水を飲んでも、気分が浮上することはない。このまま部屋に座っていても、明るい心を取り戻すことはできないのだろう。薺はたいを連れ、庭に降りた。



「この花はなぁに?」

「今、飛び立った鳥は?」

「ここならば、蹴鞠の1つもしやすいでしょうね」

「童達であれば、走り回ったらさぞや楽しいことでしょう。こんなに広い、見事なお庭なんですもの」



 矢継ぎ早に質問や言葉を繋ぎ続ける五郎八姫の耳朶に、さわさわと桜の葉が挨拶をして通った。吹いて来る風は暖かくて、心地が良い。懐かしむような眼で、五郎八姫は庭を双眸に焼き付けた。


 京の伊達屋敷の庭と、よく似ていた。


 五郎八姫の故郷である京も、長く暮らした江戸も、仙台からは遠く離れた地だ。忠輝と離縁した以上、高田の地にも二度と帰ることは許されない。


 五郎八姫は残りの長きに渡る人生をこの仙台城で生きて行かなければならないのだろうか……。正直、まだ京との縁を手離すだけの覚悟は、決められなかった。



「あっ」



 水が跳ねる音に交じり、子犬が鳴くような声が聞こえた。池に掛けられた橋を見やると、尼削ぎ姿の童がいる。

「姫様」

 たいが呼び止めて来るのを背に受けながら、五郎八姫は打掛の裾を翻した。


「どうしたの?」


 五郎八姫は、童女に問い掛けた。


「鞠が、落ちてしまったの」


 と、童女が言う。夏の空のように澄んだ、水色の小袖には菊の花が咲いていた。

「父様に、」

 と、童女の唇が一瞬震え、途中で止まった。それもそのはずだ。五郎八姫もまた微動だにすることなく、童女を真っ直ぐに見つめた。


(驚いたわ……)


 童女特有の丸い、夜空のような双眸に、言うべき言葉を失いそうになる。まるで、幼い頃の自分と対峙しているような錯覚を覚えた。


「姫様!!」


 そこへ割って入ったのは、別の侍女達だった。確か、この女子は……政宗の側室・於山おやまの方の侍女達である。

 於山の片の側室は、童女の前で膝を折った。

「お探ししましたよ、姫様。さあ、お部屋に戻りましょう。お母上様がお待ちです」

「あのねぇ、鞠が……」

「鞠が、ではありませぬ」

 めっ、と侍女が眦を釣り上げた。あんまり顔を顰めては白粉が剥げるわよ、などと五郎八姫は滅多なことを言うことはない。


、そんなに怖い顔をしたら、本当に怖い顔になってしまうわよ。御伽噺の、鬼婆のように」


 五郎八姫の気遣いも空しく、そう言い放ったのは童女である。と呼ばれた侍女の蟀谷こめかみに青筋が浮かんだ。


「一の姫様」

 たいが苦笑しながら五郎八姫に呼び掛けると、やちは慌ててその場で身を低くした。

「一の姫様の御前で、とんだご無礼を。お許しください。小姫様のことは、きちんとお叱り致しますので……」

「叱らないでやってください」

 五郎八姫は微笑んだ。

「この子は、於山殿の?」

「はい。於山の方様の姫様の、牟宇むう姫様にございます。殿にとっては、一の姫様がお生まれになって以来の姫君にございます」


だの、だの……父上のお考えになる名の由来ときたら……)


 験担ぎのために呼び名こそ変えられたが、本来ならば男名として五郎八丸ごろはちまるにされるところだった。この小姫に至っては、「むう」だなんて一体どんな意味があるのか分からない名を与えられている。

 政宗の名付けの才は、特殊らしい。

 牟宇姫はというと、そわそわと視線を泳がせながら池の方を見ている。恐らく牟宇姫が探している鞠だが、橋の下にでも流れて行ってしまったのだろう。そのうち、水流に従って出て来るに違いない。

「牟宇姫。鞠が出てきたら、すぐに文をお出ししましょう。そうしたら、またいらっしゃい」

「……鞠が」

 牟宇姫はそわそわと手を動かした。


「鞠がなくても、文をもらえますか」


 上目遣いに伺う牟宇姫の頬は血色がいい。つやりと光る髪をそっと撫でながら、五郎八姫は唇の端を持ち上げ、眼を細めた。

「ええ。いつでも、好きな時に遊びにいらっしゃいな」

 牟宇姫は、やちに手を引かれながら歩いて行った。きっと、五郎八姫の屋敷に勝手に来たことを後で叱られるに違いない。

 ふふっ、とたいが微笑んだ。

「まるで、姫様の幼き頃を見ているようでございました」

「ええ。まるで、幼い時分と垣間見えているのかと思ってしまったわ。私も牟宇姫も、父上にはあまり似ていないのに……」

「確かに口元は奥方様によく似ておられますが、お2人とも、栽松院さいしょういん様にも似ておられます」

 曾祖母の名に納得しながら、牟宇姫が立ち去った方角を見る。幼い頃は五郎八姫もお転婆で、たいや母からよく叱られたものだった。見かねた父が「母上には内緒だぞ」と言って、馬に乗せてくれたことを思い出した。


「ねえ、おたい」

「存じております。後程、水面を探らせておきましょう」


 たいに頷き返しながら、五郎八姫は池を見た。牟宇姫がいつ現れてもいいように。いつ来てもよいのだと、文を出してやれるように。

 失ったものを、きちんと拾い上げてやりたいと思った。それが少し前の自身に対してなのか、別の誰かのためになのかは、分からないけれど。


 帯の上に、そっと掌を重ねる。胸を鳴らすのは、今日であった異母妹いもうとか、それとも別れた夫を思い出した刹那のためか。


 これから訪れるだろう夏の風に身を任せながら、五郎八姫は踵を返した。

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いろはうた 水城 真以 @mizukichi1565

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