二十九話 余計なお世話

 カイトはミリが住んでいた集合住宅を見上げ、不安の高鳴りに襲われていた。場所は刑務官の女性に教えてもらい、この場所に赴く事が出来た。

 暴力を振るわれた彼女が、悲惨な環境を生きてきた。働く事を強要され、自宅では暴力の他に最低限な食事しか与えられなかったのだ。そのような生活をしてきた彼女が住む部屋が怖い。あの時は、彼女を幸せにすると断言した。しかし、彼女の住む世界を見て、幸せを感じさせる事が出来ないのではないか、と思うのかもしれない。

しかし、彼女の苦痛と比べれば、自分の不安など足元にも及ばない。不安に思うことなどない。彼の苦痛をこれからは楽しさに変えてしまえばいい。嫌な事をあったのなら、吐き出させ、共有すればいい。そうすることで、共に生きていけるのだ。

「前向きに、だな」

 一息を吐き、彼女が住んでいた部屋がある階段を一段ずつ上がっていく。部屋の扉の前に辿り着くと、ドアノブに手を掛けようと手を伸ばす。そこで、自らの力で開ける前にドアが開き、それが若干前屈みになっていたカイトの額に音を立ててぶつかった。

「いった……っ」

 痛む額を押さえ、一歩下がる。一体、誰が開けた? この場所に訪れる人物は殆どいないはずだ。居たとして、この集合住宅の持ち主くらいだろうか。

「あれ、カイト?」

「あん?」

 声の主に目を向けると、少しばかり驚いた表情を浮かべていたセレカティアの顔が視界に入った。彼女は目を瞬かせた後、カイトの赤くなった額を見て小さく笑う。

「ぷっ、だっさ」

「てめぇがやったんだろ……。てか、何でここに居んだよ?」

「何でって……一緒に来たからじゃない」

彼女が顎で後ろを差すので、カイトは差した先に目を向けると、ミリが控えめな笑みを浮かべて小さく頭を下げてきたのが視界に入った。

「ミリ……」

 彼女が住んでいた部屋から出てきたということは、きっと記憶による何かに影響を受けている可能性がある。しかし、彼女の面持ちから先日のような状況にはならないだろう。悲劇を起きる事を恐れるよりも、彼女の全てを受け入れる事の方が重要だ。

『あの……私、記憶が戻りました』

 やはり、記憶が戻った。彼女にとって、思い出したくない記憶な筈なのだが、彼女なりに受け入れたのかもしれない。

「そうか……嫌な記憶なんじゃないのか?」

 そう尋ねると、彼女は苦笑いしながら頷く。

『はい……けど、私にはセレカさんやカイトさん達が居ますから大丈夫です。もう、我慢しません』

 自分に言い聞かせるように一度頷き、真っ直ぐこちらを見据える。

『私、還し屋になりたい。クリスさんの下で、学びたいんです。お願いしますっ』

 彼女の父が言っていた通り、ミリは誰かの姿を見て還し屋を志すようになった。父という鎖が無くなった今、自分が目指すものに向かって漸く動き出す事が出来る。そんな彼女を拒絶することなど出来ない。クリスも、きっと快く引き受けてくれるだろう。

「俺からもお願いするさ。けど、あいつの教え方はひでぇぞ?」

『大丈夫です。なれるのなら、どんな事だって耐えてみせます』

「そうか。じゃあ、クリスに頼みに行くか。体の場所も分かった事だし、戻す時期は相談だな」

 カイトは家路に着くために階段へと向かう。その後ろをセレカティアとミリがついてくるのを確認し、気づかれないように小さく笑った。

「そういや、なんで還し屋になりてぇんだ? 何となくなるようなもんじゃねぇし」

『それはですね……』

 ミリは気恥ずかしそうに頬を掻くと、その理由を答えてくれた。

『お仕事の帰りに、還し屋の方が路地裏で還すところを見かけてからですね。説明出来ませんが、そのお姿がとても素敵に見えまして……それがきっかけです』

「へぇ。この辺りだと……誰だ」

『短い髪の女性だったかと思います』

 その言葉に、セレカティアは顎に手を当て、呻る。

「そんな人居たかしら……。まぁ、それが理由なら良いきっかけよね。あたしも、両親が還し屋だったからってだけだもの」

『セレカさんのご両親のことですから、さぞご立派な方達なんですね』

「まぁねぇ」

 堂々と言ってのけるセレカティアに、カイトは気付かれないようにため息を吐く。

 実際、セレカティアの両親はとても優秀な還し屋でもある。ここより遠方での活動だが、二人の活躍は良く耳にする程だ。

 ミリは感心する声を上げ、数回頷く。

談笑する彼女を見ると、記憶が戻った事で取り乱すのではないかと危惧していたが、どうやら無駄な心配だったようだ。しかし、何かの拍子で彼女の中にあるバランスが崩れてしまう恐れがあるため、しばらくの間は慎重に接するべきなのかもしれない。

「ねぇ、車拾って帰るんでしょう? ここから歩くのは面倒よ」

後ろでセレカティアが提案してきたが、傍にいたミリによって宥められる。

「カイトさん、乗り物に弱いんですよ。列車に乗った時も酔ってしまいまして……」

「はぁ? そのナリで乗り物に弱いって何よ。誰も得しないっての」

呆れた様子で舌打ちする彼女を、カイトは睨む。

「うっせぇな。てめぇもちっこい虫でぎゃあぎゃあ騒ぐくせによ」

「あたしの方は可愛げがあるんですぅ。ばぁか」

こちらに向けて舌を出すセレカティア。その横でカイトとセレカティアを困った様子で交互に見つめるミリが間に入り、渋い顔で左右に首を振った。

『喧嘩はダメですっ。カイトさんの乗り物酔いも可愛いですよっ』

「いや、慰めになってねぇよ……」

彼女の真剣な眼差しが冗談を言っていないため、強い否定も出来ず、溜め息混じりに呟く。


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