二十三話 怒り
『――さん、カイトさん』
聞き覚えのある声が、どこかへと放たれていた意識を強引にカイトの下へ引き戻された。
重い瞼をゆっくり開くと、目の前には心配そうに顔を覗き込ませてくるミリがいた。彼女は目を覚ましたカイトを見て、ホッとした様子で覗かせていた顔を離した。
『クリスさん、カイトさんが目を覚ましましたっ』
ミリはクリスがいるであろう方向を見て、嬉しそうに声を上げる。
クリスは自身の椅子に腰掛け、パトロンでもあるニールと会話していたのを取り止め、少し不安げに問いかけてくる。
「やっと起きた。大丈夫?」
珍しく身を案じた言葉を掛けてくるクリスに内心驚きながら、カイトは体を起こす。そこで、自分がソファで寝ていた事に気付いた。
「倒れたみたいだけど、どうしたんだい?」
「ちょっと、二人して転んでしまいまして……」
還し屋ではないニールにミリについて話す訳にもいかないので、適当に嘘を吐く。
ふと、向かい側のソファに目を向けると、頭に包帯が巻かれたセレカティアが痛みに顔を歪めていた。こちらに視線に気づいた彼女は、次に苛立たし気に目を細めさせ、小さく舌打ちをする。その舌打ちが、自分が犯した過ちを、カイトを見た事で改めて痛感したのだと受け取れた。
「頭、大丈夫か?」
「……あんたこそ、結構血が出てみたいだけど?」
「ちょっとだけ頭がぼおっとするくらいだ、心配すんな」
カイトが答えると、セレカティアは『そう……』と目を逸らした。
「さて、カイトも起きた事だし、ちょっと話したい事があるんだけど」
クリスが椅子から立ち上がる音を聴き、カイトは彼女の方へ目を向ける。
「……何の話だ?」
「仕事の話。だけど――」
と、言葉を続け、ニールを見る。
「ニールさん、ちょっとだけ席を外してくれます?」
「え、僕は居ちゃダメな感じなの?」
少し残念そうに口の端を引き攣らせる。
「すみません、流石に立ち会わせる訳にはいきません」
「そっか、それじゃ仕方ないね。下に居るから、終わったら言ってね」
還し屋の事情を熟知している彼だからこそ、愚図られる心配はない。過去に別の還し屋の出資者が何かと首を突っ込む姿勢を取っていたというのを聞いた事がある。還し屋からすれば、大変迷惑な存在だ。その結果、その出資者が激怒し、それ以上の援助を打ち切られたらしい。どちらも救われない皮肉な結末だ。
ニールは肩を竦ませ、そそくさと事務所から出て行った。
それを見送った後、クリスは次にミリに目を向ける。
「ミリちゃんも外で待っててくれない?」
ミリはニールが出て行ったドアを見た後、仕方ないと言わんばかりに苦笑いした。
『分かりました。では、待っていますね』
そう言うと、ドアの方へと歩いていき、すり抜けていった。
ミリが部屋を出て行って、約三〇秒が経ち、クリスがこちらを睨むように見てきたは歩み寄ってきた。そして、座っていたセレカティアをカイトの傍に座るように手を振る。それをセレカティアが顔を顰めさせながら、ソファを移動し、カイトとは一人分の空間を空けて座る。
「聞きたい事は一つだけ」
そう言うと、クリスはソファの背凭れに深く座ると同時に片足を振り上げ、目の前に設置されているテーブルの上へと、踵から思い切り振り下ろす。底が浅く、固い素材で作られたヒールにより、僅かに耳が痛くなる程の音が部屋に響き、傍に居たセレカティアの体が大きく揺れる。
「誰がミリにあんなことしたの? ま、したのは一人しかいないだろうけど」
こちらを見る事も無く、体を強張らせるセレカティアをじろっと睨む。
「カイトが催眠療法なんて出来ないもんね? そんな知識、孤児院での五年間で身に付く筈も無いし、私も教えたつもりもない」
「あの……その……」
「理由、言って?」
「ミリが記憶を……取り戻したいって……」
段々小さくなっていくセレカティアの声に、クリスがもう一度テーブルに踵を振り下ろす。先程よりは小さいが、その音がセレカティアの体を震わせるには十分だった。
「なに? 聞こえない」
「取り戻したいって言ってたからですっ」
絞り出すように声を出すセレカティアだったが、クリスの顔を見るなり俯いてしまった。それほどまでに、彼女から向けられる視線が恐ろしかったのだろう。
「良い子だから記憶を取り戻しても大丈夫ぅ、なんて思ったんしょ? その結果、この様よね?」
テーブル周りは片付いているものの、クリスの机には書類が散乱しており、寝室のドアは何かで削られたように斜めに長い線が刻まれていた。周りに気を遣う暇もなかったので、ここまで荒らされていたとは思わなかった。
周囲を目だけ追っていると、不意に「カイト」と声を掛けられた。
「セレカの提案に賛成したの?」
「あぁ、した……」
初めて向けられる視線に、思わず目を逸らしそうになるが、なんとか彼女の顔を見つめ返す。
「ふぅん。私はさ、記憶を掘り返す事はするなって言ったよね? 私より、セレカの方が信用出来たと?」
「そんな事はねぇけど……」
「そんな気しかしないけどなぁ」
クリスは立ち上がると、ドアの方へ歩いていく。
「最年少で還し屋になったからって調子に乗るな。お願いだから、私の居ない所でそんな事やめて」
クリスはそう言い残し、事務所から出て行った。
事務所に取り残されたカイトは俯いたまま動かないセレカティアにどう声を掛けようか悩んでいると、鼻を啜る音が聞こえてきた。
「……セレ――」
「話しかけんな……」
嗚咽を吐き、クリスと同じジャケットを涙で濡らしていた。尊敬する人物にきつく叱られた事が、彼女に相当堪えた様だ。彼女の様子を見る限り、誰かに怒られるというのが余りなかったのだろう。その怒った人物がクリスなのだから、通常の数倍のショックを感じた筈だ。
しんとした空間に彼女の抑えた泣き声だけが包む。
クリスと過ごすようになって三年弱。怒られた事はしばしばあったが、半ば茶化す様なものばかりだったので、今回のクリスの言葉一つ一つが自分の胸に重く圧し掛かった。こんな状況でも、普段見せない姿が新鮮に感じた。それと同時に、初めて彼女に対する恐れを感じた。
カイトは天井を仰ぎ、何度目かのため息を吐く。
この数日で何度ため息を吐いたのだろう。行いが良い方向に向かない訳だ。
自分の力では答えが見出せなく、またしても行き場の無いため息を吐いてしまった。
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