二十二話 記憶

 カイトとセレカティアは事務所の階段下にまで来ていた。

「あぁくそ……」

 ここに来るまでの間、セレカティアに色々の物をせびられた。普通ならば即座に拒否するのだが、ミリの記憶を取り戻す手段を持っている彼女に、強く当たる事が出来ない。

 カイトの片手には、女性用のアクセサリーが入った紙袋がぶら下がっている。セレカティアがこれを選んだ時はまだいい。問題はその値段だ。自分が着る服とさほど変わらない値段。物が変われば、服が裕に数着買える値段にも及ぶ。何故、女性はあのような小さい物に執着し、金を出せるのだろうか。甚だおかしい。クリスでも、男性と出掛けても上質アクセサリーを付けないのにだ。

「記憶なんてお金で買えないの。それ程の価値の代わりになるなんて、安いもんじゃん」

「言い包めようとすんな。これで、記憶戻らなかったら返品するからな?」

 カイトは後ろに居るセレカティアを軽く睨み、階段を上っていく。

 事務所の開きづらいドアを開け、中に入るとソファに座って、目を瞑りながら天井を仰いでいるミリが居た。ミリはこちらの存在に気付き、仰いでいた顔をこちらに向けては笑みを浮かべてきた。

『おかえりなさい、カイトさん。あ、セレカティアさんもこんにちは』

「セレカでいいわよ、ミリ」

『は、はい……セレカさん』

 視線を逸らし、恥ずかしそうに言う彼女に「不覚にも……」、と呟くのが聞こえた。しかし、何に対して不覚だったのかは知らないし、知りたいとは思わない。ただ、僅かに頬を赤らめさせ、口をもごもごさせている。

「クリスはどこに行ったんだ?」

「コーヒーを切らしたそうで、なんとかさんのお店に……。他にもコーヒー豆あるのに……」

 クリスの寝室横に置かれているコーヒー豆が入った瓶が並べられている棚に、目を向けて、ミリは首を傾げさせる。

「買いに行った豆、何番って言ってた?」

『えっと……三番ですね』

 置かれている瓶を右から数えていき、三番目の瓶で差していた指を止める。

 三番目の瓶に入っているコーヒー豆は、クリスのお気に入りである。入れる頻度は一週間内に四日は三番の瓶を使っているくらいだ。使う頻度が多い為、一度に買ってくる量が他の物よりも多い。

「あぁ、あの人の店か。コーヒーの違いなんてわかんねぇけど、あの人のコーヒーは他のとは違うのは分かる。何が良いのかは知らん。ただ、クリスはあれがいいんだとよ」

 すると、傍に居たセレカティアが小馬鹿にするような目でこちらを見上げてくる。

「わかんないんじゃ、胸張って言えなくない?」

「うっせぇな、ブラックも飲めねぇガキに言われたくない」

「ブラックが飲めるのがそんなに偉いの? ちっさいなぁ」

「クリスに同じ事言えんのか?」

「ね、姐さんは特別。一緒にすんなばぁか」

 カイトに向けて舌を出すセレカティアは、彼の脛を蹴ると、ミリに向き直った。

「ねぇ、記憶の方はどう? 少し戻ったりした?」

 彼女がそう問いかけるが、ミリは少し悲しげに首を左右に振り、笑みを浮かべる。

「いえ……はっきりしたものは……。ただ、頭の中で何かが出てくる感覚が時々あります。すぐどこかに行ってしまいますが……」

「そっか。じゃあさ、記憶、戻してみない?」

 前振りもなく本題に入る彼女に、カイトは呆れてため息を吐くしかなかった。

 記憶が失った女性がこれ程悩んでいるのに対し、詳しい説明もなく戻してみるかと言われて、即答出来るはずがない。その証拠に目を瞬かせ、困惑の色を隠せずにいた。

 しかし、その色はすぐに失われ、希望を見出したように顔の前で両手を合わせ、明るい表情を現した。

『本当ですかっ!?』

「ほんとの本当よ」

 セレカティアはミリに向かい合う形でソファに座り、自信ありげに腕を組む。

「母親直伝の技にかかれば、ミリの悩みもささっと解決よ」

「さすがです、セレカさんっ」

 女性二人で先々と話を進めていくのを、カイトは一歩離れたところで眺めていたが、これから行われる事を見届ける為、セレカティアの背後まで回り、腕を組む。それを、セレカティアがこちらを軽く振り返ると、軽く鼻を鳴らして組んでいた腕を解く。

「じゃ、目を瞑って」

 彼女の指示に、ミリは『はい』と嬉しそうに目を瞑る。

「全身の力を抜いて、頭の中を空っぽになれるようにして」

 空っぽにしたらソファに沈むぞ、と言おうとしたが、驚いた事に、彼女の体が沈む様子が無かった。そういえば数日前、クリスに仕組みが分かってきたと嬉々として話していたのを聞いた。仕組みというのは、体と物を一体化についてなのだったのだろう。

 そこからセレカティアの細かな指示がミリに伝えられていく。最初の内は、肩に力が入っていたが、次第に力が抜けていき、まるで寝ているのではないかと思えるほどに、穏やかな表情を変わっていった。

「何か見える?」

『……男の人と女の人……小さな女の子。間で手を繋いでます。楽しそうです』

 セレカティアの問いを静かに答えるミリ。楽しそうな、という言葉にセレカティアは再びこちらを振り返り、やっぱりと言いたげに笑みを浮かべさせる。

 彼女の性格を考えると、大変な人生を送ってきたと考えづらい。記憶を殆ど失っているといえ、誰にでも敬語で話す喋り方は忘れていようと身に染みているのだと、カイトは思った。

『お母さんの作ってくれた熊さん、ちょっと変ですけどとても可愛いです。私の、おきにいりです。ありがとう、おかあさん。あ、そっちは――』

 幼き日を語る。話している時に見せる彼女の笑みは、誰から見ても幸せの日々を送っていたのだと思うだろう。

 カイトはミリの話を聞いている中、自分の幼少期の事を思い出す。

 両親と共に過ごしたのは一〇歳まで。物心がついた時期を考えると、五年弱といったところだろう。その中でも、いくつもの幸せを感じた。怒られた事もあれば、褒められた事がある。喜怒哀楽を共に過ごし、その中で何物のにも代えがたいものを感じたのだ。

 彼女も失った記憶を辿り、再び幸せを噛み締めている。

『……お母さん、どうしてほっぺた赤いの? 痛いの?』

「ミリ?」

『お父さん……ぶたないで。お母さんは何もしてないよっ。もう……やめて……』

 セレカティアの問いを無視し、少しずつ声を荒げはじめる。

 先程の表情とは打って変わって、苦悶のものへと変わっていく。

「ミリ――」

 カイトが彼女に声を掛けようとした時だ。

 部屋の隅で、何かが弾ける音が聞こえた。一瞬電灯が割れたのかと思ったが、そのような事はなく、微動だにしていない。

 部屋の異変はそれだけではなかった。コーヒー豆が置かれていた棚からと音を立て始めた。地震、とカイトは身構えたものの、床が揺れる様子もない。棚だけが揺れていた。その揺れも次第に大きくなっていき、耳障りなものへと変化する。

『お母さんはどこ行ったの? 私を置いて行かないで。なんで、皆は学校行ってるのに、私は行っちゃ駄目なの? なんで、働かないと駄目なの? なんで、私はこんな事をしないといけないの? なんで私は――』

 閉じていた目を薄らと開き、呪文のように呟き始めた。目線も焦点があっておらす、延々と泳ぐ。その異様な光景に、カイトはセレカティアに目を向ける。

「おい、何かおかしくねぇか?」

「…………」

「おい、セレ――」

「うっさい、黙って」

 話している途中で、焦りの含まれた彼女の声に阻まれてしまった。

「ミリ、こっちを見て。話を聞いてっ」

『私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私はああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ』

 体を痙攣しているかのように大きく震わせ、天井を仰ぐ。それだけではなく、ミリとセレカティアの間に置かれていたテーブルも音を立てて揺れ、天井で吊るされている電灯までも振り子のように激しく揺れる。

「ミリ――ぐ……っ」

 話しかけようとした時、鼻から液体が漏れ、カイトは慌てて鼻を押さえる。

 押さえていた手を離し、視線を落とすと掌には血で真っ赤に染まっていた。

 あの時、ファルトの下で体験した現象がこの場でも起きた。あれは、妻のオルダがしたのではなく、ミリが行った事だというのか。もし、そうだとすれば、今の状況は途轍もなくよろしくない。あの時とは違い、明確な対象はないだろうが、長時間当てられてしまうと、ファルトの様に意識が朦朧とし、立っていられなくなるだろう。

「今すぐ……今すぐ止めろ、セレカっ!!」

「分かってるわよっ!!」

 セレカティアは怒鳴り返してくると、ミリに近づく為に腰を浮かす。

 突然、セレカティアの体が大きく横へ傾いた。

 一体何が起きたのかは、数秒遅れて気付く。

 彼女の側頭部にコーヒー豆が入った瓶が勢いよくぶつかったのだ。瓶は彼女の頭にぶつかったと同時に、音を立てて砕け、大量の豆がソファとテーブルの上に飛散した。

 瓶に強打された事により気を失ったのだろう。ソファの上でこめかみから血を流し、ピクリとも動かない。それに対し、頭をゆらゆらと揺らすミリの視線は確実にセレカティアの方へ向けられている。

 何か、異様なものを見るかのような視線を向けていた。

「ミリ……うっ……」

 再び声を掛けようと口を開くが、口内から人知れず洩れる液体に言葉が詰まる。

 鉄の味。それも、不愉快な気分にさせられるねっとりとした感触が含まれた。

 口から顎へ伝っていき、床に滴る。液体が落ちた先に視線を落とすと、赤色の液体が点々と円を描いていた。

 それを確認したと同時に凄まじい眩暈に襲われる。両膝を着きそうになったところを、ソファの背凭れを支えにしようとするが、腕にすら力が入らず、結局両膝を着いてしまう形となった。

「落ち着け……ミ……リ……っ」

 視界も霞んでいき、息をするのも辛くなってしまう。

「ミ――」

 支えに使う力すらも尽き、カイトの体は床に力無く倒れる。受け身すらとれず、頬が床に強く打ちつけられた。しかし、痛みは一切感じず、薄れゆく意識だけがカイトの中で感じられた。

「たっだいまぁっ」

 意識が薄れゆく中、クリスの陽気な声がドアの方から聞こえてきた。

 そして、その陽気な声色は一瞬にして焦りのものへと変化していくのを聞きながら、保とうとしていた意識が、努力も虚しく断ち切られた。


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