第3話「茶封筒を手にしていた」

 下調べをした通りのものであった。まず狭い玄関があり、左手に風呂場、右手にトイレがある。その一つ向こうの空間にはダイニングキッチンがあり、そのさらに向こうに6帖の畳の間がある。図面だけ見ればかなりすっきりしたものではあるが、現物はただの殺風景にしか過ぎない。家具はないし、電気のブラケットは天井から下がっていないし、カーテンもない。つまりここは空き室ということになる。埃がたまっている様子はないが、誰かが生活をしている痕跡もない。不潔とは言い切れないが隠せない古さが滲み出ていて、ルームクリーニングをしたての雰囲気が漂っている。


 空き巣のような真似をするつもりがなかったので住民の在宅の有無までは調べていなかったが、ドアを前にした瞬間にここを開くべきだという確信があった。

 部屋を開け、そこが空き家だとわかった瞬間、すぐに引き返そうという気持ちになった。しかしその後すぐ、せっかくここまで来たのだからという気持ちが起こり始めた。台所まで入ろう。いや、奥の和室にもちょっとだけ入ってしまおう。そんな誘惑に駆られた。


 玄関に足を踏み入れる。空き家の為、靴は一足もない。外の涼しさと同様、室内も適温のはずなのに、背中が汗ばんでいる感覚がある。無臭のはずなのに、自身の独特のにおいが漂う気がする。何も残してはいけない。指紋や髪の毛だけでなく、におい、汗など、少しでも証拠となりうるものは残してはいけない。だからこそ長居するわけにはいかない。そんなことはわかっているのにどんどん歩を進めてしまう。


 一歩一歩踏みしめるごとに着実にふわふわとした感覚に陥っていることに気付く。まっすぐ歩いているはずなのに段々と左右のどちらかに逸れて行く気がする。思いがけず倒れてしまいそうな感覚がある。


 風呂場もトイレも扉は閉まっているけれど、全て予習済みなのでわざわざ開かなくてもわかる。奥の部屋に行くとそこには何もなかった。最奥に位置する引き違いの窓からはこのアパートの向こう側に広がる住宅街が良く見える。家々を見下ろす形になったのでここが想像よりも高い場所であることに気付く。ちょっとした放心状態に陥っていたら何もないはずの部屋のちょうど真ん中に一枚の長形封筒があるのは見つけた。


 卑しさや自責の念はなかった。私はどこでもある茶封筒を手にしていた。中身が何であろうと構わない。ここで出会ったこの物体を持って帰らないわけにはいかないと、そう判断していた。何もない部屋から何でもない封筒が消え去っていたところで大きな問題にはなるまい。監視カメラのあるようなアパートでもないので、カバンの一番取り出しやすいポケットにその封筒を忍ばせ、部屋中を見渡した。ここに来ることができるのはこれが最初で最後かもしれない。


 封筒を入手にしてからは先ほどまでの頼りない足の感覚がなくなっていた。腕もしっかりしていてもはや震えるようなことはない。確かな足取りでドアへと向かう。すると外廊下を誰かが動くような気配がした。ピンチであるという恐怖は少しもなかったが、顔を合わせると厄介なことになりかねないので扉の前に立ち、しっかり60秒を数えた。すぐには出られないが長居をしても仕方がない。55秒を数えたところでドアノブに手を書け、60秒ぴったりで扉を開け放ち、一気に外に出る。後は無心で駅への道を戻るだけだ。アパートの前の少し開けた道路を渡り、狭い路地を抜けるとすぐに駅に戻った。今まで異世界にいたかのような錯覚に陥るがここは間違いなく現実だ。駅前にいるまばらな人たちが私を現実へと呼び戻してくれる。時計を見るといつも自宅を出る時刻であった。少し時間がある。改札外にある駅ナカのベンチに座り込む。サラリーマンや学生が通り過ぎて行く。ゆったりと歩む者もいれば、バタバタと速足で駆け抜けて行く者もいる。学生たちが仲良さそうに通り過ぎ、冴えないスーツを着た若者が携帯の画面とにらめっこをしながらゆらゆらと歩き、向かいから来る老婆とぶつかりかけるも、老婆が意外にもさっと身を引く。若者はすんでのところで老婆に気が付き老婆が避けているのにも関わらず余計な動きをしてさらによろめき、今度は別のサラリーマンにぶつかりかける。




 普段は呑気に生きている者が小さな問題を避けようとして、必死にあがいて見せるも、そのあがきがまた別の問題を呼び寄せる様を暗示しているように思えた。

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