第2話「震えている」

 会社を飛び出る勇気もなければ、ここに踏みとどまるだけの度胸もないまま、中途半端に空いた電車に乗り込む日々を送っている。そんな日々の中、毎朝の電車通勤で気になるものを目にしている。


 乗車駅から3駅分進んだところにある駅に急行待ちの停車している際、車窓から見える古いアパートが気になっている。屋上にはどこかの不動産の看板が立てられている。5階建ての建物で、ワンフロアに8部屋程が詰め込まれている。建物全体は白一色だが、何度か塗り直されたような妙な新しさがあり、その白さが古さを一層引き立てている。毎朝同じ時間に5階に住む大学生らしき青年が家を飛び出て行く様を見かけるのだが、その他の住人の動向はわからない。暗くなると不動産の看板がライトアップされる。飲食店ならまだしも、車窓から見える不動産の看板にどれだけの宣伝効果があるのかはわからない。


 その牧歌的な佇まいにどこか心惹かれるものがある。いつかあの建物に近付いてみたいと思っている。しかし朝は時間がないのでわざわざ立ち寄るだけの余裕はないのはもちろんのこと、夜は夜で仕事終わりということもあるので、朝のように強く心を惹かれるということはなく、むしろ早く自宅に帰りたいという思いが勝ってしまう。そんな葛藤にすらなっていない葛藤を抱き続け、早4年が経ってしまったのだが、突然その時は訪れた。


 快晴ではあるものの夏の厳しさはとうの昔に去り、心地良い陽の温かさを感じる金曜日の朝、その建物に近付いてみる決心が突然湧き起った。行くなら今日だという予感がした。普段から早起きをする癖が付いていたので、その日は眠気と格闘する時間を潰すことでいつもより1時間も早く家を発つことができた。それだけ早く動き出せば建物に近寄って近隣を一周しても少し時間が余る。幸いなことにその建物は駅から一本道を辿り徒歩3分のところにある。実際には歩かずとも今の時代はネットの地図で手軽に現地の情報を仕入れることができるから便利だ。




 その建物の最寄りの駅を出ると、いつもと同じはずの陽の当たりがいつもより鋭く、そして冷たく感じた。




 駅前の人はまばらだ。早朝だからなのか、それとも普段通りなのかは一見して分からない。商業施設が充実しているようにも見えないが、こういった駅は家賃相場が低かったりするから意外と需要があったりもする。これから向かう白い建物の家賃も都内にしては何段階も安い。牧歌的な駅前の雰囲気にどこか懐かしさすら覚える。駅の前には寂れた商店街があるが、今回はそこを通らない。その商店街から少し離れたところに細い抜け道があり、そこを少し歩くと簡単に住宅地を通り抜けることができ、目の前に目的の建物が現れることになっている。昔はその商店街を抜けてから少し曲がり駅と白い建物を往来していたのだろうが、住民が多いことからいつの間にか民家の裏手が解放されるようになり、住民の便利な通行路となったのだろう。グーグルマップでも道という認識がなされている。


 陽の当たらない細い道を抜けると、白い建物の全貌と対面した。4年間車窓から眺めていた建物は想像以上に高く、そして横に伸びていた。その巨体が地に広大な影を落とし、辺りを鬱蒼とした雰囲気に作り上げていた。冒険者が巨大な怪物に挑むかのような恰好になったが、生憎ここでは住民が生活していてそれぞれの日々を送っている。


 建物の姿を拝んだら近隣を少し徘徊してお暇するというのが当初の目標であったが、実際にその白い建物を目の前にしてしまうと建物の中に入ってしまいたくなる。1階部分は二段程度の階段の上に位置しており、全室が横並びに配置されている。それよりも上の階は建物の両脇に設置された鉄製の階段行き来するようになっている。五階建てなのにも関わらずエレベーターが設置されていない辺りに時代を感じさせる。そして横に長いが故に中央に位置する部屋の住民はちょっとだけ移動の面で不利な状況になっている。


 1階部分は一望できるようになっているので地上からざっと見通すことができる。それぞれの部屋の前はきれいに手入れされているようで雑草がほとんど生えていない。子供用の車の玩具や古びた三輪車が放置されている部屋もある。一人暮らし向けの狭いアパートのはずなので、子連れにとってはかなり窮屈な生活環境なのかもしれない。


 意を決して階段を上り普段車窓から眺めている最上階まで登ってみると、そこにはいつも見る光景から見える新鮮な景色が広がっていた。仲の良い友人の別の一面を見たかのような気分になった。建物の端から逆側の端を見てみると正面から見るよりもずっと長く見える。コンクリートの痛み具合も一層目立つようになる。所々補修されて新しくなっている部分がその悲壮さを引き出している。


 まだ少し早い時間なので各部屋に住民がいる可能性は高いが、一切の物音が聞こえてこない。駅のホームを見てみると、先ほど私が降り立った時と変わらず人はまばらのままだが、こちらを見ている人は誰もいない。この駅のこの方面で真っ先に目に入るのは今私の頭上にあるはずの不動産の看板だけだが、それでも誰もこちらを見ていない。


 ひっそりとしたアパートの上階で佇んでいる私は不審者のようではあるまいかと思っては見たものの、誰も見ていないのなら何も気にすることはない。どれだけの広告効果があるかわからない看板と白い建物の景色の中に異物である私が紛れ込んでいる情景は駅から見たときにどのように見えるのだろうか。いつもバタバタと部屋を飛び出していく学生が滑稽に見えるのと同じように、私もまた部屋の閉め忘れを気にしているリーマンの一人にしか見えないのかもしれない。そんなことを考えて一人おかしくなる。


 この後、駅に戻り、何食わぬ顔で会社に行き、普段と同じように仕事をして家に帰っていく。そんなことを繰り返すだけの人生にちょっとしたスパイスを添えるためにここまでやってきた。

せっかくこうして重い脚を動かしたのだから、もう少しスパイスを足しても良いのではないか。そんな魔が射した。




 ふと一室の扉に目をやると、なんだかまるでここが見知った場所のような気がしてきた。デコラ張りの表面は傷み始めていて、ステンレスの取っ手はくすんでいる。この中には大学時代の友人がいて、私が来るのを待っている。酒を飲みながらプレステをしよう。小さい時にしたゲームを20歳を超えてからやるのはまた異なる面白味がある。あの頃よりも思慮深くなり、人生の経験を積んでいる分、ゲームの戦略の手数も圧倒的に増えている。そしてこれまで異なる場所で育ってきた人間が同じゲームを同じ空間で楽しむということ自体にも無上の喜びを感じざるを得ない。そんな友人がこの中にいる。そんな根拠のない確信が湧いて出てきた。


 ドアノブに手をかける。楽しい時間が待っているはずなのに手のひらは汗ばんでいる。ふと気づくと背中に視線を感じる。振り返るとそこには何もないが、奥を見るとそこには駅のホームに停まっている電車があった。いつもの時間ではないので毎朝私が乗っている電車ではない。しかしその車体にくっついた無数の窓がまるで私を監視する目のように映る。ホタテの目はこんな感じだっただろうか。ホタテがそのまま巨大化して人間大のサイズになればただの化け物になってしまう。突然気味が悪くなり、ドアノブから手を離した。車窓が目で、この扉が口だ。背中の中に汗が垂れる感触がする。頭皮も濡れている。地盤が震えている気がする。


 しかし私の奥で湧き上がったこの衝動には打ち勝つことができない。再びドアノブに手をかけ、化け物の口を思いっきり引いた。

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