ネオンの付いた白いアパート
鷓鷺
第1話「何の意味も持たない」
反対側に向かう電車は常に満員で、車内は絶えずすし詰め状態だ。寒い日には窓もじんわり濡れていて中の様子がはっきりとわからないほどまでになるが、こんな小春日和には窓が湿っているということはない。
一方で私の乗り込む車両は東京の中心から遠ざかっていくので、車内の状態はガラガラとは言わないまでもいつもどこかしらに空きの席があるので、我先にと乗車を急ぐ必要はない。
帰宅時も似たようなもので、都心側に進む電車は乗客がそこまで多くない。ましてや鈍行列車ともなれば尚の事で、快適さは増す。
似たようで少し異なる日々が続く。社会人4年目になり自力でできることは増えたし、任される仕事も在籍年数に比例して増えて行った。毎年新卒の社員が入社してくるので後輩は増え、人に何かを教えることが多くなった。先輩の顔ぶれは殆ど変わらない。大ベテランたちは役職が外れることはあるものの、再雇用という形で職場に居残るので年配の方が職場を去るということも今のところない。
これまで、中学高校大学やバイト先で幾度となく後輩が出来てきたので人に何かを教えることについての抵抗はない。それどころか、むしろ面倒見は良い方だという自負がある。そういったこともあって先輩からその面倒見の良さを評価されることもあったし、その他についても何やかんやで上手くやっているので社内での評判は決して悪くないという自覚がある。
社内での立ち回りも上手くいっているし、給料面でも決して高級取りというわけではないものの、何とか暮らしていけるだけの稼ぎはもらっているので当面の生活の心配もない。
順風満帆というやつだ。しかし将来の不安はある。この場所で経験と年齢を積み重ねても得るものが少ないのではないかという漠然とした憂慮がある。潰しが利く商売ではないのでこの先この会社が倒産の危機に面したらどうしようもなくなる。
万が一その倒産が40代50代の時にでも起これば尚のこと困る。今でさえ転職できるかどうかを心配するくらいなのだから、そういった年齢に到達していたらどこも拾ってくれないのではないか。
さらに年齢を重ねたところで決して高級取りになれるわけではないことがわかっているので、ここで働き続けるのは単なるリスクでしかないという見方もある。
現在の大ベテランたちはこの会社が高給取りであった時代を駆け抜けてきたこともあり安心して働いてきただろうし、その背中を追ってきた中堅たちは今の給料に満足していなくても、どこかに根拠のない安心感を得ている。しかし私たちのような20代の社員には先行きの良い未来は見えていない。安定した暮らしが保証されていた環境はとうの昔になくなってしまい、今や低い給料で働かされている現状しかない。
だからと言ってこの会社を去ったところで何か良い商売にありつけるわけでもないし、生活が保障されるという目処もない。今以上に割を食う企業にしか出会えない可能性だってある。月給が20万円代を保証されているだけまだマシな方で、現実には月給が10万円代の企業もそこらかしこに存在すると言う。仮に高級取りになれたとしても土日出勤は当たり前で、終電ギリギリまで働かされ、さらに早朝の出勤が常態化している可能性すらある。そういったことを考えるとそれなりに人間らしい生活ができている現状を大切にするべきだという一種の安定志向すら覚えてしまっている。
この安心感がある以上は転職を本気で考えることなどできない。仮にもノルマを達成できていて、社内での人望もあり、ゆくゆくは上の階級へと突き進んでいける可能性が十二分にある以上はこの立場をみすみす逃す手はない。
現に学生時代にアルバイトをしていた時はどうしても苦手な分野があった。居酒屋におけるホールの仕事というやつだ。お客さんの注文を全て正確に聴き取り、厨房にオーダーを持って行き、厨房から出てきたものをしっかり客先に届けるというただそれだけのことが不得意であった。聞き間違え、届け間違えが常態化していた。
しかし私にとってのその苦手分野が得意だと言う人も大勢いるようで、高校生のバイトにすら見劣りするなんていうこともあった。高校生にだってできることが私にはできない。この欠点を抱えている以上は社会に出ても成功しないのではないかという憂いを就職するまでは絶えず抱えていた。いざ就職をしてみたら今の職業はその苦手分野からは遠い職種だということもあって、なんだかんだ上手くやれている。
だからこそ安易に転職しようとは思えない。そうは言っても昨年、一時期だけ転職活動をしたことがある。しかし大半の会社が今の会社以上に魅力的には映らなかったし、給料面でも明らかに劣るところばかりだった。
待遇の良さそうなところに限って、これまでの社会人生活の中で培ってきた特殊な技能一つで戦っていくだとか、営業成績についてのノルマが特別に厳しいだとか、どう見ても今の私の手持のスキルや精神では決して戦っていけないような職種ばかりであった。
私大文系卒の私にはまともなスキルがなく、社会人生活を通してみても他所で胸を張れるだけの技術を身に付けていない。営業成績だって社内でのみ通用するものであり外に向けて誇れるものではない。これまで積み重ねてきた数字は社内でこそ有力な武器になってはいるものの、それはこれまでの中堅やベテランがサボってきた分掴みやすい数字になっていただけで、私の努力はそこには練り込まれていない。努力と呼ぶことのできない努力は対外的には何の意味も持たない。
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