第75話 思いがけない提案

 親子で暮らす家が分かれているとはいえ、ここは二世帯住宅。当然二世帯揃っての食事が想定されているようで、予備の椅子を用いることで全員座ることができた。


 手土産のクッキーが箱から取り出され、涼子の手によってお洒落な皿に丁寧に並べられる。全部で十五枚あるクッキーは、ビニールで個別に包装されていた。


「井上さんは、大阪駅のホームを担当されているんですよね?」


 涼子がクッキーを口に運びながら質問する。


「そうですね。主に、大阪環状線や神戸線を担当することが多いです」


 和也はそのように答えを返すと皿に載せていたクッキーを手に取り、包装のビニールを真っ直ぐに破いた。

 このクッキーは一缶に様々な味が詰め合わさっているアソート商品であり、涼子が食べているのは卵黄サブレ。そして、和也が今右手で摘んでいるのはアーモンドクッキーだ。

 どのクッキーがどの味なのかは、包装の表面に可愛らしい手書きフォントで記してある。量も丁度良く、贈り物にはうってつけと言えるだろう。


 口の中に優しい甘さが広がり、思わず口元が緩む。初めて買った商品ではあったが、選んで正解だったと思える味だ。


「在来線独自の大変さってありますか? 主人やお義父さんの担当は新幹線ですから、在来線のことはあまり分からなくて……」


 涼子が質問した直後、陽茉梨の「つぎこれ!」と言う声が響いた。陽茉梨が指差していたのはバタークッキー。

 涼子はそれを手に取ると包装を破き、陽茉梨の目の前に置かれている子供用のプラスチック製の皿に移した。

 陽茉梨はクッキーを右手でしっかりと掴み、美味しそうに頬張る。口元から溢れた欠片が皿の上にポロポロと落ちて音を立てた。


「やっぱり、通勤ラッシュを捌くのが大変ですね。人だけでなくトラブルも多くなりますから」


 そう返答すると同時に、経験してきたトラブルの数々が脳裏に浮かんだ。痴話喧嘩や痴漢騒ぎ、更には暴力行為にまで発展したトラブルもあったなと、少し懐かしい気持ちになりながら思い返す。

 殺人的混雑と、これから長い一日が始まることに対するストレスとが入り混じって引き起こされているのだろうそれらは、まさしく在来線独自と言えるだろう。


 逆に、新幹線独自のトラブルはあるのだろうか? ふとそんな疑問が湧き上がり、和也は隣に座る鉄輪へ問いかけた。

 鉄輪は薄茶色の珈琲クッキーを咀嚼し終えると口を開いた。


「やっぱり、荷物絡みのトラブルが多いな。体に当たったとかはまだ軽い方で、時々エスカレーターから落とす客がいるから困る」


 鉄輪は新しいクッキーを手に取ると、「この前は流血沙汰になった」とため息混じりにこぼした。幸いにも被害者の命に別条はなかったらしいが、警察や救急の対応に追われて散々な目に遭ったと鉄輪は話した。そのハンサムな横顔に、一気に疲れが滲む。

 スーツケースのトラブルは大阪駅でも時々発生する。記憶に新しいのは和也が顔面を殴打されることになった事件だが、あれに匹敵するトラブルが軽い方とは恐ろしい。


「苦労話と言えば、将臣が入社した年にあっただろう。ほら、犬の……」


 幹雄が直美の淹れたストレートティーを口元に運びながら言った。鉄輪は、それが何の話を指しているのかを思い出したのか、分かりやすく表情を歪める。


「犬ですか?」


 和也が問いかけると、鉄輪は少々面倒くさそうにしながらも説明を始めてくれた。


 その事件は、鉄輪の入社から半年程経過した頃の話だという。普段通りにホームでの業務を遂行していた鉄輪は、小型犬を連れた中年女性を見かけた。新幹線は手回り品切符を購入し定められた移動方法をとれば動物を乗せることができるが、その小型犬はリードすらしておらず野放し状態だったという。

 鉄輪は慌てて声をかけたが、女性は『うちの子は利口で賢いから大丈夫』の一点張り。鉄輪は言葉を選びながら根気強く注意と説得を続けたが、女性は全く聞く耳を持たず、その間に犬が逃走。犬は線路上に降りると東京方面に向かって全力で駆け出したという。

 新幹線の入線にはまだ時間があったため事故には至らなかったようだが、非常停止することに変わりはない。


「俺が犬を追いかけてなんとか捕まえたが、今度は持ち方が乱暴だとか難癖つけてきて……。思い出すのも嫌な事件だよ」


 鉄輪は心底嫌そうに言うと、二枚目のクッキーを取るために手を伸ばした。

 話を聞いているだけで体が疲れてくる経験談。和也は、まるで仕事終わりのような疲労感を全身に感じていた。その疲れを癒そうと、手が無意識にクッキーへと伸びる。

 手に取ったクッキーの包装には『シュバルツ』と書かれている。口に入れて咀嚼すると、サクサクとした食感と共にクッキーが崩壊し、同時にフランボワーズの風味が口いっぱいに広がった。




***




 お菓子を食べ終えると、和也は陽茉梨に誘われてシェパードののぞみとこだま、そしてベンガルのひかりと遊んだ。

 のぞみとこだまは、意外にも短時間で和也に慣れた様子だった。おすわりなどの指示も素直に聞き、取って来い遊びも問題なく楽しめている。一方、ひかりは警戒心が強いのかなかなか距離が縮まらなかった。和也がねこじゃらしで遊びに誘おうとするも一切近寄ろうとせず、寝そべった姿勢のまま面倒くさそうに見つめるばかり。不満を表すかのように、細長い尻尾がゆらゆらと揺れていた。


 結局ひかりと仲良く遊ぶことのないまま和也は再び客間へと戻り、に関する話を再開した。様々な内容が話題に登ったが、中でも武器や蠢穢についての話は鉄道員としての暦が長い二人から対応法などを聞くことができ、非常に有益なものだった。

 文字通り時間を忘れるほど話に夢中となり、気付いた頃には壁に掛けられた時刻は既に十八時を回っていた。


「やばい! もうこんな時間!」


 和也は、すっかり長居してしまったこと詫びながら立ち上がった。こんな時間まで邪魔するつもりではなかったのにと反省しながら、床に置いていた鞄を持ち上げようと手を伸ばす。

 その時、幹雄が声を掛けてきた。


「井上くん。明日は休みか?」


「はい。そうですが……」


「なら泊まっていきなさい。まだまだ話したいこともあるからな」


 予想外の発言に驚き、和也は鞄の持ち手を掴んだ姿勢のまま固まってしまった。まさか宿泊を勧められるなどとは思ってもおらず、予想外の展開に脳が追いつかない。

 幹雄の提案に勇も賛同したようで、「それがいい」と笑顔を見せている。


 「いえ、そこまでお世話になるわけには……」


 和也はそのように答えながら体を起こした。泊まる前提で来ていないため、当然着替えを持っていない。それに夕食の問題もある。本日の既に献立は決まっているだろう。突然一人分増やせと言われても簡単には対応できないだ。

 だが幹雄はそれらを問題とは捉えていないようで、「夕食のことを聞いてきてやろう」と言い残して客間を出て行ってしまった。その後ろを、勇が「私も行こう」と口にしながら続く。

 

 客間から出ていく二人を呆然と見つめながらその場へ座り込んだ和也に、鉄輪がそっと耳打ちした。


「言っただろ? あの二人に見つかった時点で負けだってな」




 帰還した幹雄と勇によって夕食問題の解決が告げられた。和也の予想通り献立は既に決まっていたようだが、日持ちする素材ばかりのため後日に回しても構わないとのこと。

 反対されなかったということは歓迎されていないということではないのだろうが、やはり嬉しい気持ちよりも申し訳ない気持ちのほうが僅かながら強かった。しかしながら話が進んでしまっている以上、断るのも失礼に思えてしまう。

 

 どのような判断をすべきか迷ったが、明日は幹雄に申告した通り休日で何か予定を入れているわけでもない。

 和也はこれも一つの経験、また今後の関係性をより良くするために必要なものだと考え、流れに身を任せることにした。


「何が食べたい? 客人が決めていいぞ」


 鉄輪が机に頬杖をつきながら和也に問いかける。その質問に対する答えを考えている途中、和也は自身の心がどこか修学旅行のような懐かしい気分に浸りかけていることに気が付いた。

 妙な感覚を覚えながらも「肉ですかね」と答えると、鉄輪が小さく鼻で笑った。


「何だその曖昧な回答は。ステーキがいいです! とか言えよな」

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