第34話 アルバム

 和也は、大阪駅の地下通路へと足を踏み入れた。金属製の扉の蝶番は湿気で錆びついているのか、けたたましい音を奏でている。和也は、その音が反響して広がっていくのを聞きながら、カビの臭いが僅かに漂う通路内を見渡した。どこからか地下水の水音がすることも、壁の割れ目に毛虫のような白色のカビの塊が生えていることも変わらない。

 和也は神田から「早退しても構わない」と言われていた。しかし、その言葉に甘えて自宅に帰ることは和也の青いプライドが許さなかった。自分はまだ新米だが鉄道員であることには変わらない。

 和也の「最後までいさせて下さい」という言葉に神田は渋い顔をしながらも了承したが、駅神の空間で精神状態を整える。という条件が付けられた。現状のままの精神状態では何が起こるかわからないとの懸念があったためだ。

 和也は少し重い足を動かして祠を目指す。通路に響く音は自身の足音と地下水の水音、そして自身のものではない足音――


 ――誰だ……?


 足を止め、正面に続く緩やかに曲がった通路を見つめる。通路の先から現れたのは駅長だった。


「やあ」


 駅長は驚いたような素振りは見せず、普段通りの柔和な表情で立ち止まる和也に歩み寄る。駅長は何故か右手で額縁を抱えていたが、中に何が入っているのかは和也の立ち位置からは見えない。


「神使様から聞いたよ。……処理を任されたんだってね」


 駅長は和也の擦り減った心を守るためか、『処理』という単語で濁した。とは言え、その単語が何を示しているのかは嫌でも分かる。和也は、脈が乱れ喉を何かが逆流してくる気配を感じた。

 すぐさま震えた息を吐き、せり上がる何かを鎮める。


「はい、悲惨……でした。それ以上は気分的に話せません」


 駅長は、和也の言葉にふむふむと頷きながら耳を傾ける。


「神田さんからは早退してもいいと言われたのですが、何だか……逃げているようで嫌で」


「そうか。神田くんのことだから、駅神様の元で心を落ち着けるように言われたのかな?」


「そうですが……何故、ご存知で?」


 和也の問いかけに駅長は両目を細めて笑い、こう口にした。


「神田くんも、初めて処理を任されたときに同じことを言われていたからだよ」


 そして、駅長は静かな口調で当時の神田の様子を教えてくれた。今の和也の年齢と変わらなかったこと、現場の状況が今回よりもずっと悲惨だったこと、神田が駅務室へ戻ってきたと同時に過呼吸で倒れたこと。


「この先やって行けるのか不安になる程だったが、駅神様と話すことで落ち着いたようだったよ」


 駅長は「流石は我々のだな」と言い、珍しくと大口を開けて笑った。笑い声が反響し、発せられた何倍もの声量のように感じられる。


「さて、では私は戻るよ。うまく気持ちが落ち着くと良いね」


「はい。ありがとうございます」


 和也はその場で一礼し、通り過ぎる駅長を見送る。その際に、駅長が抱える額縁の中身が見えた。


『駅是 精励恪勤』


「駅是?」


 予想外の中身に思わず声が出る。駅長も和也の声に気付き、立ち止まって顔を向けた。


「ああ、これかい?」


 駅長は額縁を持ち上げて和也に見せる。やはり中に入れられているのは、配属初日に見た大阪駅の目標――『駅是』に間違いない。


「どうして、駅是を?」


「額縁を掃除するために下ろそうとしたのだが、うっかり落としてしまってね。いやあ、恥ずかしい限りだ」


 駅長は照れくさそうに答え、駅是を持っていない左手で頭を掻く。その中指の先端には真新しい絆創膏が巻き付けられていた。


「その時に割れた額縁のガラスで指を切ってしまって、駅是が血で汚れてしまったんだよ。それで、駅神様に新しく書き直していただいたんだ」


「駅神様に……! 駅是は、駅神様が書かれているんですか?」


「ああ、そうだよ。まだ説明がされていなかったのか。てっきり、三条くんか神田くんから聞かされていると思っていた」


 あの時に駅長が言った「そういうことになっているね」という言葉。和也はてっきり以前の駅長が作成した駅是をそのまま使用しているという意味だと思っていたが、駅神が筆を執っていたとは予想外だった。


 ――達筆なのは、駅神様だったのか……。


「駅是というものには、各駅神様の個性が出る。私は大阪駅の駅是は勿論好きだが、中野駅の駅是も好きでね」


「中野駅……東京の、ですか?」


「そうだよ、NR関東の中野駅だ。どんな駅是だと思う?」


 駅長に問われて和也は頭を捻ったが、特に思いつかない。長考するのも申し訳ないと感じ、潔く「分かりません」と答えた。


「『わくわくいきいき』だ」


 駅長の口から出された答えに、和也は唖然とした。四字熟語ですらない。駅是は四字熟語でなければならない! という決まりはないのだろうが、それでも予想外過ぎる。まるで小学校のクラス目標だ。


「分かりやすくて良いだろう? では、私は戻るよ。駅神様と良い時間を」


「……あ! ありがとうございました!」


 呆然とするあまりに反応が遅れてしまった。和也は慌てながらも再度その場で一礼し、通路を去って行く駅長を見送る。そして、自らも駅神様の元へと向かうために歩みを進めた。




 駅神は、いつもと変わらない様子で椅子に座っていた。ただ唯一違っているのは、テーブルの上に書道セットが置かれている点だ。見るからに高級品であろう筆やすずり、文鎮が並べられ、周囲にはどこか懐かしさを覚える墨汁の香りが漂っている。


「遠慮せずに座ったらどうかね?」


 駅神が、テーブルから距離を少しおいた場所で立ちすくむ和也に優しく声をかける。和也は駅神の言葉に甘え、「失礼します」と一言添えた後に正面の椅子に腰掛けた。早くも心の落ち着きを感じながら、手際よく書道セットを片付ける駅神の手元を眺める。

 駅神は綺麗に道具を仕舞った硯箱の蓋を締めると、静かに椅子から立ち上がった。硯箱を両手で大事そうに抱えて背後の本棚へと向かう。本棚には幾つかの引き出しが設けられており、駅神はそのうちの一つの引き出しへ硯箱を丁寧に仕舞った。

 その後ろ姿を眺めていた和也は、その本棚に沢山のファイルが並べられていることに気がついた。それなりの分厚さがある上に、とにかく量が多い。本棚は幅が九十センチ程度の物が二台並んで設置されているのだが、その内の一台は全て同じファイルで埋まっており、二台目も半分程度が侵食されている。

 一体何が収められているのだろうか……?


「駅神様、そのファイルは何ですか? 随分と沢山ありますが……」


 駅神は和也の問いに振り返ると、口元に微笑みを蓄えながら答えた。


「これはアルバムだよ。子供達のね」


 駅神は綺麗に並べられたアルバムへと視線を移し、背表紙を優しくなぞる。その瞳には、子への愛情が溢れているように見えた。


「見てみるかね?」


 振り返った駅神からそう問われ、和也は驚きながらも即答した。そのアルバムの中身が非常に興味深かったからだ。


「いいんですか? 見たいです!」


 駅神は、和也の反応に対して嬉しそうに目を細め「是非見ていってくれ」と、三冊のアルバムを本棚から取り出した。重そうに、そして大事そうに抱えながらテーブルへと運び、優しくテーブルへ乗せる。

 和也は積み重ねられたアルバムの一番上の一冊を手に取った。表紙の色は本来鮮やかな青色だったのだろうが、経年劣化で随分と色があせてしまっている。かなり古い物のようだ。模様や絵の無いシンプルなデザインで、中心の少し上寄りにタイトルを書くスペースがある。そこに書かれた文字もすっかり消えかかっていたが、かすかに駅是と同じ達筆な文字が読み取れた。


『新しい子供達』


 分厚い表紙を捲ると、古い紙の臭いと共に九枚の写真が現れた。すっかり茶色く変色した台紙に、ズレや傾きなく丁寧に写真が貼り付けられている。写真は九枚全て椅子に座る駅員――駅神の子供達を写したものだった。白黒で、所々に劣化によると思われるシミが浮き出ている。

 次のページも同じシチュエーションの写真ばかり。皆が緊張した面持ちでカメラを見つめ、白手袋を嵌めた両手を膝の上で硬く結んでいる。制服は制帽こそ現在と同じ官帽タイプだが、着ているものは今のような背広タイプではなく詰め襟タイプ。不思議と地位の高い軍人のように見えてしまう。


「このアルバムは、覚醒したばかりの子供達を映したものだよ。まだ緊張しているね、懐かしい……」


 頭上から降ってきた駅神の声に、和也は顔を上げる。アルバムを覗き込む駅神の両手には、いつの間に入れてきたのか紅茶の入ったティーカップが乗るお盆が抱えられていた。


「この写真は、いつの物ですか?」


 和也はアルバムの一番最初のページに戻り、初めてに入れられたであろう写真を指差しながら尋ねた。


「この子は……西嶋君だね。彼が息子になったのは、明治四十年だよ」


「お名前、覚えられているんですか?」


 和也は、駅神がスラスラと子供の名前を答えたことに驚いた。かなり昔である上に、大阪駅ともなれば子供の数も尋常ではないはずだ。だが、駅神は当然だとも取れる表情で口を開き、微笑んだ。


「私は駅神だ。子供達の名前を決して忘れることはない。子供達と交流し、力を与えるためにこの体は存在しているのだから」


 その微笑みには誇らしさが滲み出ており、自身の存在意義を確固たるものにしていることが分かった。駅神として生を受けたことに満足している――そんな微笑みだった。

 和也は、駅神の淹れてくれた紅茶で喉を潤しながらアルバムを捲った。時折、駅神からの解説を受けながら写真を眺める。彼らは、一体どのような息子だったのだろうか? 話として聞くことは出来ているが、和也は実際に会ってみたいと感じた。彼らと、この心休まる結界の中で同じ鉄道員として腹を割って話したい。そんな気持ちだった。


 一冊目のアルバムを見終え、次のアルバムを捲る。制服は、このアルバムからスーツタイプの物に切り替わった。そして、そのアルバムの中に和也はよく知った人物の写真を発見しページを捲る手を止めた。


「あ! 神田さん!」


 思わず、小さいながらも声が出る。写真に映るその人物は、目付きが鋭くて体つきが比較的ガッシリとしている男性。若さゆえに現在とは少し顔つきが異なるが、神田助役で間違いないだろう。和也の声に隙かさず駅神が反応し、ティーカップを置いた後にアルバムを覗く。駅神は和也が指差す写真を見ると、小さく笑った。


「京太郎ではないよ。それは父親の京介だ、よく似ているだろう?」


 駅神は「親子なのだから似ていて当然か」と笑い、再びティーカップを持ち上げた。


「この方が……」


 和也は、改めて若き『神田京介』の写真に目を通した。彼は椅子の上でしっかりと背筋を伸ばし、緊張しながらも誇りを湛えた両目でカメラを見つめている。

 この時の彼は何も知らないのだな。と和也は思った。第一世代としては異様な戦闘力を発揮し重宝されることも、息子が産まれて自らと同じ鉄道員となることも、そして……自らの死も――

 脳裏に凄惨な現場の様子が蘇りそうになり、和也は急いで視線をそらしてページを捲った。その後もアルバムを見進めると、息子である『神田京太郎』の写真が現れた。先程見た京介と非常によく似ており、二枚並べると高難度の間違い探しが出来るのでは? と感じてしまう程。だが神田の両目には父親ほどの覇気がなく、まるで父の死が暗い影を落としているように見えた。


 二冊目のアルバムも見終え、和也は渡された最後のアルバムの閲覧へと移った。このアルバムは比較的新しいようで、表紙も鮮やかな青色のままでタイトル文字も消えかけてはいなかった。黙々とページを進めていると、再びよく知った人物の写真を発見した。三条は今現在と変わらない無愛想な表情をしているが、それが緊張によるものなのかは判断出来なかった。

 三条の後に写真はなく、彼がこのアルバム上で最も新しい子供だった。


「まだ君の写真を撮っていなかったね」


 駅神の優しげな声が耳に入る。顔を向けると、駅神が手に小さな黒色の箱を持ち立っていた。その箱の正面に設けられている扉を開けると、中からカメラの大きなレンズとスプリング機構が顔を出した。

 和也は、随分と古いカメラだな。と思いながらも机の上のアルバムを閉じ、姿勢を正す。手袋を嵌めていなかったことを思い出し、急いでお尻のポケットから白手袋を抜き出して手に嵌めた。

 椅子の上で背筋を伸ばし、膝の上に置いた両手をしっかりと握る。自身の写真がアルバムに追加されるのかと思うと何だか嬉しくなり、自然と口元が緩んだ。


 擦り減った心は、いつの間にか平穏を取り戻していた。

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