第33話 擦り減る心と蜜の味(残酷)

このエピソードは、『擦り減る心と蜜の味』の残酷表現 ”あり” パターンです!

残酷表現が苦手な方はご注意下さい!






 線路の上は熱気に満ちていた。夏の暑い空気に列車からの排熱が加わるからだろうか。

 神田は制帽を脱ぎ、手に持っていた黄色いヘルメットを被った。ヘルメットには赤い線が一本描かれており、制帽と同じく一目で助役だと分るようになっている。役職のない和也のヘルメットは、前面にNRのロゴがあるだけのシンプルなものだ。


 和也はヘルメットを被ると、線路上から列車を見上げた。ホーム上から見上げるよりも遥かに迫力がある。車両はこんなにも大きいんだと改めて実感した。

 そんな列車のフロントガラスにはクモの巣状のヒビが入っており、衝撃の凄まじさを物語っている。そして、そのひび割れに長い女性の黒髪が絡み付いていることに気が付き、和也は慌てて視線を逸らした。

 心臓が激しく鳴っている。冷や汗が流れ、既に分泌されている汗と混じり合って枕木の上に落ちた。


 神田は背負っていたリュックを下ろすと、中から黒色のビニール袋と火鋏を取り出した。最後に黒色のビニール手袋を取り出し、それを四枚和也に手渡す。


「手袋は二重にして嵌めろ、万が一破けても大丈夫なようにだ。相手がどんな感染症に罹患しているか分からない状態で血液に触れることはご法度だ。いいか? これは絶対だ!」


 神田の指示は、後半になるにつれ語尾が強まった。和也は「はい!」と無理矢理気合を入れた返事をしながら手袋に手を入れようとする。しかし、暑さと緊張で汗ばんだ手に中々ビニール製の手袋というのは嵌めにくい。

 悪戦苦闘しながら数分……何とか形にはなった。


 この時、作業を始めていないにも関わらず、和也の顔や額には玉のような汗が浮かんでいた。和也自身も情け無いと思ってはいるが、果てしない恐怖心が心を締め上げて来る。これから人の死体に触れるのだという気持ち悪さが、足元からじわりじわりと這い上がって来る。


「顔色が悪いな。本当は改札へ行かせてやりたいが、これはお前のためなんだ」


「私のため……ですか?」


「そうだ。新人のうちに経験するのと、乗務員になってから経験するのとでは気持ち的に大きく違う。分かってくれ」


 神田は、辛そうに表情を歪めて語る。神田は在来線、新幹線共に運転士を経験しているプロフェッショナルだ。恐らく今の言葉には、彼が見てきた非情な現実が込められているのだろう。

 人身事故を経験したことで乗務員を降りてしまう人もいると研修で聞いた。駅間で発生した場合は、応援が到着するまでたった二人で対応しなければならない。もし、それが初めての経験だったとしたら……。


「分かりました。大丈夫です!」


「よし! じゃあ、行くぞ」


 神田がリュックを背負い直し、歩き出す。足元にはバラストと呼ばれる石が敷き詰められ、非常に歩き辛かった。この石は列車の振動や騒音を軽減する目的で敷かれており、このような線路を『バラスト道床』と呼ぶ。逆に、石が無くコンクリートで固められた線路は『スラブ道床』と呼ばれる。

 ふらつきながらも列車の中程にまで歩き進めた時、ホームから長谷川の大声が届いてきた。


「どなたか、目撃者の方いらっしゃいませんか!」


 長谷川が行っているのは、人身事故発生時に速やかに行わなければならない項目の一つ、『汽笛証人』探しだ。『汽笛証人』とは、文字通り列車が汽笛を鳴らしたと証言してくれる人物のことで、この証言が無ければ列車の運転士が罪に問われる可能性がある。

 たとえ避けることができない飛び込み自殺だとしても、この国の司法は容赦がない。被害者に対して危険を警告していた証言が無ければ、犯罪者の扱いを受けることになるのだ。


「ご協力をお願いします! 目撃者の方いらっしゃいませんか!」


 仲間を守るために必死で叫ぶ長谷川の声は、ホームのざわめきに掻き消されることなく、良く響いていた。

 ホームには、事故当時沢山の乗客が居た。最後尾の列に並んでいたほぼ全員が目撃者と言っても過言ではないだろう。しかし、現代人は時間に追われている上に面倒事を嫌う性格だ。目撃していたとしても名乗り出てくれる確率は少ないだろう。嘆かわしい世の中だ。


 列車の最後尾付近まで足を進めた時、和也はバラストの上に白色の小さな塊が落ちていることに気がついた。それも一つではなく、何十個も撒き散らしたように。


「神田さん、この白いのは……?」


 和也の問いかけに、神田が歩きながら振り返り足元に視線を落とす。その瞬間、僅かだが神田の眉間に皺が寄った。


「これは脂肪だよ、人間のな」


 神田の当たり前であるかのような言い方、そして謎の白い物体の正体に和也の全身から血の気が引いた。今、何て言った! と、返された言葉を頭の中で何度も繰り返し、そしてもう一度足元の小さな塊を見た。

 スーパーで貰う牛脂のような薄くピンクがかった白色で、これが人のものであると認識することを脳が拒否してくる。認識させようと意識すると、途端に強い吐き気が込み上げた。頭が重い、貧血だろうか……。


「この辺りで、一旦覗くか」


 神田が独り言のように呟き、車両の下を覗き込む。和也も同じように身を屈め、狭い車両下部へと視線を這わす。正面を見ていないせいか不安定なバラストに足を取られた。体がふらつく。和也はとっさに近くの動輪に手をついて体を支えた。その時、鉄道の動輪の巨大さに気付きおののいた。

 固くて重い……。こんなもので轢かれたら人間の体なんて粉々だ。そもそも脂肪が散らばっているという時点で、飛び込んだ人間の状態など――


「いたぞ!」


 神田の発した鋭い声で我に返る。手招きされ、和也は恐る恐る神田に近づき……そして、目撃した。


 遺体だった。両手足があり得ない角度に捻じ曲がり、頭の右半分が吹き飛んでいる。着衣である女性物のリクルートスーツは乱れ、引き裂かれていた。

 辺りには血液の臭いと生臭い臭いが充満している。少し酸っぱい臭いも混ざり合った嗅いだことない臭いだった。これが死臭というものなのだろうか……? 嗅げば嗅ぐ程気分が悪くなるが、かといって口呼吸もしたくない。

 両足の脛からは衝撃によって叩き折られた骨が棘のように飛び出し大量に出血していたが、その血液はバラストの隙間に流れ落ちているようで周囲に血溜まりは一切見られなかった。だが、液体ではない肉片や骨の一部と思われる物体は派手に散乱しており、まさに地獄の様相だった。


 和也は、今後のためにも慣れなければ。と遺体と向き合っていたが、やはり数秒で限界を迎え視線を逸らさざるを得なかった。ゾンビのように傷ついた体を引き摺って襲いかかって来るのではないかという嫌な想像が頭の中を駆け巡り、絶え間なく続いている吐き気が更に大きくなる。

 吐き戻しそうになる衝動を抑えるため何度も唾を飲み込んだ。両手をビニール手袋の上から強く握り、息荒く呼吸しながら吐き気が僅かにでも治まるのを待つ。

 その時、ふと改札で見た光景を思い出した。リクルートスーツを着た女性客の後を、蠅のような小さな蠢穢が追いかける光景……。まさか、今目の前で凄惨な姿を晒しているのは――


「神田さん! 担架持って来ました!」


 声が聞こえた方向に目を向けると、和也より五つ上の先輩である男性駅員が小走りでこちらに向かってくるところだった。右手に緑色の布地が張られた担架を抱えており、左手には畳まれたブルーシートを持っていた。


「了解!」


 神田は返事をすると、死体を直視できずに青い顔をしている和也に目を向けた。


「井上、被害者を引っ張り出すぞ。体を持て」


「わ……分かりました」


 嘘だろ? と信じられない気持ちを抱えながらも了承し、上半身を車両下部に突っ込んでビニール手袋を装着した手を被害者に伸ばす。バラストに擦り付けられた影響なのか、酷く損傷している白く細い腕に手のひらをかざす。

 念力を利用して触れずに引き出そうとしたが、和也はその方法が死者に対する冒涜のように感じられた。汚い雑巾の端を摘んで移動させる行為に似ている。触れたくはないが、念力で引き出すなどという方法を取れば間違いなく良心の呵責に苛まれるだろう。


 和也は思い切って遺体の腕を掴んだ。死んで間もない体はまだ生温かかく、生気の感じられないブヨブヨとしたゴムのような感触が強嫌悪感を生む。

 神田と二人で何とか車両の下から引きずり出した被害者を担架に乗せた。乗せ切れずにはみ出した足を先輩駅員が慣れた様子で整え、遺体の上に広げたブルーシートを被せる。


 担架を三人で運び、最後尾からホーム上に押し上げた。ホームには先輩駅員達がブルーシートを広げて待機しており、損壊した遺体を乗客の目から隠しながら慎重に引き上げにかかる。ホームには既に警察や消防が到着しており、事故発生直後よりも物々しさが増していた。

 必死に汽笛証人を探していた長谷川の元には三人の女性客が集まっていた。いずれも可愛く服を着飾った若い女性――和也の立哨位置近くに立っていた乗客だ。これから楽しい時間を過ごすはずだったのに。と彼女達に同情しながら、遺体発見場所へ神田と共に戻ろうと歩み出した瞬間だった。


 カシャリとシャッターを切る音がした。


驚いて振り向くと、若い男性がブルーシートの隙間からスマートフォンを差し込み、あろうことか遺体を撮影していた。ブルーシートが被せられているとは言え、遺体を撮影するなど和也には到底信じられない行為だった。


「ちょっと――」


「写真を撮らないでください!」


 和也が駆けつけるまでもなく先輩の一人が素早く男性を静止するが、続々と堰を切ったように乗客達が集まり出す。「うわ!」という驚く声から、珍しい物を見れた嬉しさからか妙に楽しそうな声。そして、再びシャッター音。

 先輩達に加えて警察も静止に加わるが、聞く耳を持たない。


 そして、間もなく乗客達から濃厚で新鮮な疵泥が溢れ始めた。道徳のカケラも無いニヤけた顔から、日に焼けた細い腕から、続々と溢れて零れ落ちる。ホームには瞬く間に疵泥が積もり、それを嗅ぎつけた蠢穢が貪り食う。

 恐らく、稀に見るような旨さなのだろう。蠢穢達は喜びが詰まったような金切り声を上げ、全身から黒い鱗粉を吹き出した。食べては吹き出し、食べては吹き出し……それが乗客達に吸い込まれていく。

 写真撮影をしている乗客達だけではない。後ろを困惑した表情で通り過ぎる常識ある乗客にまで、が吸い込まれて行く。


「写真を撮らないでください!」


 先輩の発する叫び声には、僅かに恐怖の感情が混じっていた。



✳︎✳︎✳︎



 列車はダイヤ乱れを起こしつつも、運転を再開した。ホーム上の乗客は事故発生時と完全に入れ替わり、只ひたすらに列車の遅れに対する不満を呟いている。


 和也は担架を運んだ後、遺体発見場所に戻って神田と共に回収作業を行った。回収するのは被害者の一部だ。バラストの隙間に入り込んだ肉片を火鋏で一つ一つ拾い集め、ビニール袋に入れていく。ビニール袋が黒色なのは、乗客から肉片が見えないようにするためだ。と、神田が教えてくれた。

 途中、明らかに肉ではない色合いのものがあったが、和也は思考を放棄してひたすら拾い続けた。

 その後、線路では警察の現場検証が行われ、衝突によって生じた列車の凹みやホームの血痕の撮影、列車停止位置の測定など、ドラマでしか見ないような光景が数十分に渡って繰り広げられた。

 和也と神田が集めた被害者の一部も、として警察に回収された。


 和也は後処理から開放されると早足に駅務室へと戻り、水道でひたすら手を洗った。何度も何度も丁寧に洗い流し、もう汚れていないと分かっても再度石鹸を泡立てた。泡を洗い流した手を嗅ぐと、まだ臭う気がする。現場で嗅いだ、生臭く少し酸っぱいような死臭が。

 もう一度手を洗おうと水道の蛇口を捻った時、誰かにその手を掴まれた。「ひあぁっ!」と今にも泣き出しそうな声が飛び出す。

 手を掴んだのは神田だった。「もう洗わなくていい」と語りかけるように言いながら、蛇口を締める。


「井上はよく頑張った、百点だ。勉強のためとは言え、新米の井上を連れ出して悪かったな」


 神田のいつも以上に優しさの含まれた声が和也の疲弊しきった心に溶け込み、和也の目頭が熱を持った。視界が歪み、両目から涙が溢れる。嗚咽が漏れ、両肩が何度も跳ねる。そんな和也を神田はそっと抱きとめ、背中を擦った。

 背中越しに感じる大きな手の温かみは頼れる上司のものではなく、優しい父のものだった。




 一番線で死んだ彼女は、きっと誰かに"平穏な日常"を奪われたのだろう。だからこそ死を選んだのだ。そして、死をもって他人の"平穏な日常"を同じように奪い取った。

 奪い奪われ、また奪い……。鉄道員はその争いに突如巻き込まれ、精神を擦り減らすのだ。

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