えがお
増田朋美
えがお
えがお
杉ちゃんと蘭は、静岡の美術館へ、「キース・ヘリング展」という企画展を見に出かけた。なかなか日本ではなじみの薄いホップアートというものであり、蘭も、正直こういうものには興味がなかったのであるが、杉ちゃんが行きたいと言ったため、仕方なく出かけたのである。ホップアートの作品何て、バルビゾン派の写実的な風景画家と違い、わけのわからない色や形などを、並べただけじゃないか、と、蘭は思うのだが、杉ちゃんのほうは、とても楽しそうで、展示してある絵について感想を述べたり、モニュメントを興味深そうに眺めたりしているのだった。
杉ちゃんのうるさいくらいの解説を聞きながら、ワニを簡略化したモニュメントを眺めていると、一人の女性と、一人の男性が、別のモニュメントを眺めているのが見えた。一人は女性というよりか、太った女の子という印象がある。男性の方は、着物を着て、足を引きずって歩いているので、その特徴的な歩き方から、蘭はこの人物が誰なのか、すぐにわかってしまった。すぐに二人のほうへ移動して、あの、すみませんと声をかけた。
「あの、吉田素雄さんではありませんか?」
と、声をかけると、その人は、ええそうですが、と言って、蘭を見た。
「いやあ、僕ですよ。だいぶ昔のことになりますが、以前、製鉄所に来てくれたじゃないですか。その時に、お会いした、伊能蘭です。お分かりになりませんか?」
「ああ、覚えていますよ。伊能蘭さん。あの、刺青師の方ですね。」
素雄さんは、相変わらず丁寧な答え方だった。
「よ、相変わらず、冬らしくならないな。体もおかしくなっちまうな。今日も、何か、手伝いか。」
そうこうしているうちに、杉ちゃんもやってきた。
「ええ、今日は、彼女が、この展示会に来たいと言いましたので、それで、付き添いで来させていただきました。」
素雄さんは、太った女性に目配せした。その彼女をよく観察すると、一寸普通のひととは違うなあという感じがしてしまう。何だと具体的に言えるわけじゃないけど、なんだか一寸、普通のひととは違う世界に住んでいるなあというか、今まで何をしていたのか、疑問府をつけたくなってしまうような、そんな感じの顔をしている。
「彼女は、大山みどりさんです。先月から、彼女のもとへお手伝いに行かせていただいております。長らく入院されていましたが、先月から自宅療養に切り替えてもらうことになりました。彼女の看護師さんからの依頼で、こうしてお手伝いをさせていただいているんです。」
大山みどり。何とも、その顔に似つかない、美しい名前だ。メールとか、そういう顔の見えない媒体で、その名前を聞いたら、ものすごい美人を連想してしまうだろうが、そこにいる女性は、まったく似つかない。相撲取りに似たような顔つきのひとがいるかもしれないが、相撲取りは勝負師らしく、もっと筋の入った、しっかりした顔をしていることだろう。彼女は、そういうところがなく、なんだかぼんやりとしているような感じなのである。それに、着物で隠そうと試みているのだろうが、着物の袖口から、包丁で切った切り傷がある。
「初めまして。大山みどりです。どうぞ、よろしくお願いします。」
その発音も、なんだかはっきりしていなくて、ろれつが回っていない感じだった。
「はいよ、よろしくね、僕は、影山杉三で、杉ちゃんって呼んでね。」
という杉ちゃんが、なんだかうらやましかった。そういうひとに対し、何も偏見なく話しかけられるのは、杉ちゃんだけだと思う。
「こっちは、僕の親友で、刺青師の伊能蘭ね。」
杉ちゃんが紹介してくれてよかったと思う。
「それにしても奇遇だなあ。こんなところでお会いするなんて。其れに、可愛い着物を着たお嬢さんと一緒だなんてさ。うれしいな。」
そんなことを言っている杉ちゃんであるが、蘭は本当に彼女はその通りだろうかと疑問を持った。確かに、ピンクの桜を入れたかわいい着物を着ているのは確かである。でも、それが本当にかわいいというには、はるかにかけ離れた、そういう容姿をしている。
「ありがとうございます。着物姿をほめてくれてうれしいです。」
と、素雄さんは、普通のひとに言うのと、同じように言った。
「あのさ、この後、二人はどっかで予定でもあるの?」
杉ちゃんがふいに聞いた。
「ええ、今日は、この後は特に用事はありません。電車で家に帰りますよ。」
と、素雄さんが言うと、
「ほんなら、ここのレストランで、食事でもしていかないかい?」
と、杉ちゃんが言った。蘭は、用事でもあるのではないかと思ったが、
「ここのレストランのランチ、すっごいおいしいんだって。そして、誰でも食べられるように、自然食にこだわっているんだってさ。どんなものなのか一回食べてみたいや。」
と、杉ちゃんはいうのだった。素雄さんがどうすると彼女に聞くと、彼女は容姿の割に社交好きだったのか、
「ええ、行きます。誘っていただいてありがとう。」
と、にこやかに笑って言った。
展示会は、いくつかの大きなモニュメントを鑑賞して、終了した。杉ちゃんとみどりさんが、キース・ヘリングの作品の事とか、彼の出身地の事とか、いろいろ話している。彼女は、意外に美術の知識があるようで、ほかの作家の事を引き合いに出して、ホップアートの事を、楽しそうに語るのであった。
展示室から出ると、ミュージアムショップの隣にレストランがあったので、四人はレストランに入った。レストランは、まだ昼食には一寸早い時刻だったためか、人はさほど来ていなかった。ウエイトレスが、メニューをどうぞといって、メニューを持ってきた。確かに、杉ちゃんの言う通り、米粉で麺をつくったりとか、畑の肉と言われる大豆を使って、ソースをつくったりする、面白い趣向のレストランだった。ウエイトレスの説明によると、アレルギーの子供さんが最近増えているので、彼らにも食事の楽しさを味わってほしいという願いを込めて作ったメニューであるという。
「じゃあ、悪いが、メニューを読み上げてみてくれ。僕は、読み書きできないので。」
と、杉ちゃんが言うと、ああ、そういうことなら私がやりますと言って、みどりさんが、メニューを読み上げ始めた。基本的に中華料理のレストランであり、タンタンメンとか、スーラータンメンなどがある。みどりさんに読み上げてもらって、杉ちゃんは、マーラーメンを注文し、蘭と素雄さんはチャーシューメン、みどりさんは、スーラータンメンを注文した。
「で、今日は、どうして、キース・ヘリングの展示会にいらしてたんですか?」
と、蘭は素雄さんに尋ねる。
「ええ、単に彼女が行きたいと言ったからですよ。それ以外に何もないでしょう。」
と、素雄さんはサラリと答えた。
「でも、この展示会をどこでお知りになったんですか?」
蘭が聞くと、
「ええ、彼女がいつも通っている図書館に貼り紙がされてあったそうなんです。それで彼女が、僕に行きたいと言いだしましてね。それでは、実行に移しましょうということになりまして。」
まるで当たり前のように答える素雄さんに、蘭は一寸違和感を覚えた。
「図書館。毎日通われているんですか?」
「ええ、彼女は通っていますよ。退院されてから、病院ボケを起していて、何かに通わせるようにしなきゃ、日常生活できなくなってしまうでしょう。だから、出来るだけ、毎日外へ出るきっかけをつくるようにしているんです。もう少し良くなって来ると、デイケアとか、作業所なんかに通う人もいますが、彼女には、まだ其れはできませんので、まずは図書館に通ってもらうことから始めて貰おうということになりまして。」
素雄さんは、にこやかに笑って、そういうことを答える。デイケアとか、作業所とか、そういう言葉を平気で使ってしまうというのが、蘭はおかしいというか、一寸恥ずかしいとかそう思わないのかなと思ったが、杉ちゃんが水を飲みながら、
「そうかそうか。まあ精神を病んじゃうと、確かに長く入院していなきゃならなくなっちゃうもんね。それでは、少しずつ、日常的なことができるように、努力していこうな。まあ、原因はあると思うけどさ。そうなっちまうしか、なかったんだから、それで仕方ないと思え。もう一回、やり直すつもりで、頑張りや。」
と、言った。
「でもさ、杉ちゃん。体を病むのとは、わけが違うだろ。だって、変なことを平気でするようになるんだから。」
と、蘭はそういうことを言うが、
「でも、きっかけになったことはあると思うんだ。例えば、人が怖いとかさ、そういうことは、誰かにすごい大きな声で怒鳴られたことがあったとか、理由があるはずだぜ。悪性腫瘍がどっかにできたのとおんなじだと思えばいいよ。きっとお前さんは、そうなる前は、女らしい顔をしていたはずだろ。其れも失って、安定した生活を薬で得ているようなもんだろう。まあ、確かにね、そうなっちまうと、自分ってなんで生きているのかわからなくなっちまうこともあると思うけど、其れだって、何か役に立つこともあると思ってさ、頑張って耐えろよな。」
杉ちゃんはカラカラと笑った。
「杉ちゃんすごいこと言いますね。僕たちも、半狂乱になった彼女に同じ言葉を言いますが、幾ら行言っても彼女は聞き入れてくれませんでした。きっと、僕みたいな職業の人がいう言葉は、ある程度指導というか、そういうものが入っているんだと、彼女は感じ取っているんだと思います。やっぱり、僕たちのような職業の人間が言う言葉というのは、信じてもらえないものですね。彼女、安定剤のせいで、表情が変わらないように見えますが、きっと杉ちゃんのように、発言してくれる人が居たら、感激するんじゃないかな。」
素雄さんは、そういうことを言った。その顔は、一寸複雑というか、難しいような感じの顔をしている。
「僕たちが、いくら、彼女には罪はないと言い聞かせてもですね、僕たちは、指導員とかお手伝いさんという立場なので、いくら彼女の発言、お医者さんに言わせたら妄想ということになりますが、それを否定してやっても信じてもらえないんです。いくら、あなたがそういっても、世間の人たちは、私を冷たい目で見ている、だから、真実ではないって。その繰り返しです。多分ね、それがもうちょっと、普通のひとにも理解してもらえれば、世界も平和になると思うんですけどね。」
「ああなるほどね。それ、僕もわかるような気がするな。うちで飼っているフェレットに対しても、みんなそうだもんね。歩けないとか、そういう事を言うとさ、ああ私は関わりたくないって言って、逃げちまう。」
杉ちゃんがにこやかに笑ってそういうと、素雄さんもはい、その通りです、と大きなため息をついた。
「だから、僕たちは、出来る限り彼女の望みをかなえてやれる存在にならなければなりません。其れは大変な事でもあるけれど、一人でできなくても、生きていけるんだって、思うようになってもらわなきゃ。」
「まあね、そのなり手が、こういう障碍者でなければなれないというのが問題だけどな、ははは。」
と、杉ちゃんは、水を飲んでカラカラと笑った。其れと同時にウエイトレスが、ラーメンを持ってきてくれた。その器は、一寸女性には量が多いのではないかと思われるが、みどりさんはラーメンに対して、何も悪びれた様子もなく、ものすごい勢いで食べ始めた。確か、精神安定剤というのは、大量に飲むと食欲が増してしまうという副作用がある。それで、大体それを飲んでいる人は、食欲を抑えきれず、大量に食べてしまって太ってしまう。其れでも、精神安定剤だから、妄想を口にするとか、気分が異常に高揚するとか、そういうことは止まる。どちらをとるか。其れは、当たり前のように後者と言われているが、女性であればこの事実は受け入れるのは難しいに違いない。女性は、外見をほめられるとうれしくなるという習性があると、偉い人の著書にも書かれているからだ。
「うまいだろ、ここのスーラータン。」
と、杉ちゃんがでかい声で彼女に言った。
「やっぱりさすがだぜ。食べれないやつらに考慮してくれてあるから、味もちゃんとしているってもんよ。」
「ええ、ありがとうございます。とてもおいしいです。」
すっぱくて辛いスープを飲みながら、彼女はそういうことを言った。
「良かったなあ、お前さんは、うまいもんをうまいって言えるんだもんな。今はよ、変な味の食べ物ばっかりはやっちゃってよ。本当にうまいもんがどっかにいっちまってさ。其れにありつけないほうが多いんだから、ちゃんとうまいものはうまいって言えるのは幸せだね。」
と、杉ちゃんがカラカラと笑っている。蘭は、そんな風に杉ちゃんが言えるのを、あきれたというか、信じられないというか、そういう感じで見ていた。彼女はきっと、食べるだけで何もしていない存在と言われているに違いない。何も役割がないから、情緒も安定せず、リストカットなどを繰り返しているんだろう。人間は、何か社会的に役割がないと、こうしておかしなことになってしまうのだ。自分がもうこの世界から、必要ないってわかっていて、それでも生きていなさいなんて、そんな励ましがまったく効果のありそうで、ないものであることは、蘭も知っていた。
「そうですね。発想の転換というか、立場が変わったら、変わったなりの幸せを見つけるのが、鉄則ですよね。杉ちゃん、そういうことを、見つけてくれてありがとうございました。」
と、素雄さんは、にこやかに笑った。其れと同時に、蘭たちの前にもラーメンが置かれた。蘭は、ラーメンを口にしたが、小麦粉のラーメンと違って、一寸違和感があった。でも、彼女の前では、そういうことは口にしないほうが良いと思って、蘭は何も言わないで置いた。
「うん、意外においしいじゃないですか。さすが、杉ちゃんの言う通りだと思います。こういうラーメンが、広まってくれるといいですね。」
と、素雄さんは、杉ちゃんに言った。みどりさんは、何も言わなかったが、其れこそ答えなのではないかと蘭は思った。
「もっと味わって食えよ。食べるってのは、単に飢えから自分を守るためのもんじゃなくて、楽しむものでもあるんだぜ。」
と、杉ちゃんが言うと、彼女はぽろぽろと涙をこぼして、
「あの、あたしに考慮してくださって、ありがとうございます。お礼の言葉もないです。」
と、泣き出してしまうのであった。
「なんだよ。泣かなくてもいいんだよ。だって、僕がお前さんを特別視したと思う?ただ、ラーメンがおいしくて、それで感想言っただけの事。素雄さんだってそうだし、この蘭だってそうだ。誰でも人間だもん、そう思うもんだよ。其れを口にして何が悪い。又、お礼されるようなことでもない。」
と、杉ちゃんが笑ってそういうことを言う。蘭は、確かにその通りなのだが、そういうことはなかなかできないなと思うのであった。
「まあ、今日見たキースの絵だってそうだ。誰にでもわかるようにできている。そういうところが評価されて、すごいねっていわれたんじゃないの。だから、当たり前のことは、甲乙善悪何もないの。ただ、うまかったらうまかったでそれでいいの。泣かないの。」
そういう杉ちゃんに、蘭は、誰でもそういう風に思うことはできないなと思った。キース・ヘリングの絵は確かに余分なところを取り払っているというのはわかるが、誰が見ても同じ感動をするというものではない。もしかしたら、幼児の絵と変わらないという人もいるかもしれないし、単なるお着物程度しか認識しない人も多いと思う。当たり前のことを、甲乙善悪付けずにその通りだということができる人は、非常に少ないのではないかと蘭は思うのだ。
「きっとお前さんは、当たり前のことができなくて、又当たり前の役職も与えられなくて、悲しい思いをしていると思うけどさ。まあ、うちのフェレットもそうだけど、当たり前のことができないやつが、当たり前のことをすると、すっごく感動するんだよな。其れを、忘れないでもらいたい。」
と、杉ちゃんが言った。杉ちゃんだって歩けないじゃないかと蘭は思ったけれど、こういうことを成文化してくれる人が居ない限り、みどりさんは変わることはできないのではないかと思った。
「うまいもんはうまいのだ、其れから、きれいなもんはきれいなんだ。そういうことが言える人間も、今は少なくなってるからよ。いずれ、其れも商売と言える時代が来るかもしれないよ。」
杉ちゃんの言葉に、素雄さんも確かにそうですねといった。そして、すでにその言葉は何回も言い聞かせているんだけどなという顔をした。でも、彼女に通じていなかったのは、やっぱり素雄さんがそういう立場であって、わざとそういうことを言っているという部分が読み取られてしまったからだと、感じ取っているようだった。素雄さんのような、弱い人を救うような職業のひとの言葉、学校の先生とか、お医者さんとか、そういう偉い人の言葉というのは、当事者に届かないことが多いのだ。そうではなくて、世間一般にい暮らしている人が、答えを出さなければ、彼女は変わろうと思うことはないだろう。
「まあ、そういう事だ。きっと、キースだって、そういうことを思って作品に取り組んだと思うよ。芸術なんてそういうもんだよ。」
杉ちゃんが、ラーメンのスープを飲みながらそういうと、
「そうですよ。一人で何もできないことを悔いてもダメです。そんなこと、出来る人は誰もいないって、何度も言ってるんですがね。素直に助けを求めることは、なかなかできないのかな。みんな、助けなんか求めていないのに、自分だけとか、そういうことを考える必要なんてないんだけどな。」
と、素雄さんも同じことを言った。蘭は、この時初めて、彼女に変わってもらう、前向きになってもらう、お手伝いがしたいと思った。自分にできることは、本当に限られたことではあるけれど、何かできたらうれしいと思う。其れに報酬も何もいらない。ただ、当たり前だと彼女が思ってくれればいい。
「もし、外見を変えたいとか、そこにあるリストカットの痕を刺青で消したいと思ったら、いつでも言ってくださいね。」
蘭は、やっとみどりさんににこやかな顔をすることができた。
えがお 増田朋美 @masubuchi4996
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