第51話 更科課長は見た! 3
忽那さんと真野さんの間にまったく何の進展のないまま季節だけが過ぎていって、二月になった。
世間はバレンタイン。現在仕事も落ち着き、オフィスはまったりムード。
忽那さんのところとの共同プロジェクトのほかに持ってる仕事も落ち着いて、社内はどことなくそわそわしている。
そろそろ忽那さんの部下だけで仕事も回るでしょうに、彼は相変わらず日比谷のオフィスに足繁く通っている。つーかもう、それ使いっ走りの仕事じゃない? というような様ですら率先して請け負ってうちの課に通い詰めている。相変わらずどら焼き持参で。
そう。まだどら焼きなのだ。
わたしはいい加減飽きてきた。
最近うちのオフィスでは忽那さんのことをこっそりどら焼きの忽那さんと呼んでいる。
あれだけしつこくどら焼きばかり持ってきたらね。忽那さんにきゃーきゃー言っている鈴木さんも陰ではどら焼きの忽那さんと呼んでいることをわたしはちゃんと知っているんのだ。
真野さんは頭を捻りつつ、忽那さんはよほどどら焼きが好きに違いないと憶測していたけれど。
うーん……真実を教えてあげたほうがいいのか。
それともこそっと、どら焼きもいいけれどマドレーヌも好きですと言わせたほうがいいのか。
「真野さん、小湊さん。これ、悪いんだけど適当に配っておいてくれない?」
わたしはお得意様から貰った試供品の入った紙袋を二人に手渡した。
二人は「はーい」と言って紙袋の中身を吟味。
「うわ。美味しそう」
小湊さんが大きな声で喜ぶ。真野さんもにっこり笑顔で紙袋からチョコレートを取り出している。
「たくさんありますね」
「よければ皆さんでどうぞってもらってきたのよ。適当に配っちゃって」
「この時期の役得ですよね~。テナントさんから新作とか試供品貰えるのって」
うちが管理するビルに入るテナントにはもちろんお菓子店や食品店あるわけで。
わたしがさっきまで打ち合わせで訪れていたテナントはとくに付き合いも長いお菓子メーカー直営のカフェ店舗だからか、こうして季節イベントごとに試供品サンプルをくれるのだ。
ちょっと留守にしていた間に溜まったメモ書きを見て、頭の中のやることリストを最新版に更新。
今日も忽那さんが来るんだよ。彼が来るとそれなりに気を使うからそろそろ本気で部下に任せてくれないかな。
あー、無理か。二月だし。バレンタイン近いし。
打ち合わせの前までに溜まった仕事をやっつけていると、フライング気味で忽那さんがやってきた。
今日くらいどら焼きやめろよ、と思うのにやっぱり今日も以下略。
つーか、今日のは正直電話で済んだだろ、と言いたい。
それを真野さんに会いたいからって。
「あ。忽那さんだぁ。こんにちは」
早々に忽那さんが鈴木さんに捕まった。今日もわたしに話しかけるときよりもワントーン高めな可愛らしい声を作って忽那さんに絡んでいる。
メールに目を走らせながらも耳は鈴木さんの高い声をキャッチする。
案の定というか、バレンタインのチョコレートを手渡ししている。焼きもちを焼かせるためか、今日はいない忽那さんの部下の分まで律儀に忽那さんに託している。
芸が細かいわ。いや、撒き餌なの? 忽那さん一本釣りかと思えば鈴木さんは合コンにも積極参加をしているし、社内のエース社員にも媚びを売りまくっているからいまいち本命が掴めない。
忽那さんは鈴木さんの高めの声にも動じず、普通のテンションでお礼を言っている。
わたしは高速でメール本文を作って送信。
さて、忽那さんの相手をしましょうか。
こうなったらさっさと終わらせてやる。
その忽那さんは鈴木さん以外の女性社員からもチョコレートをもらっていた。
鈴木さんがあげたことによってハードルが下がったらしい。
みんな、こっそりと忽那さんにあげる用にチョコレートを準備していたらしい。
女子ってすごいわー。
わたしは? って。いや、わたしがそんなことするキャラに見える?
一応、事実婚をしているパートナーには買ってある。義理チョコはやらない主義なのだ。面倒だし。
「そうだ。うちらもチョコあげちゃう?」
小湊さんの声が聞こえた。
小湊さん、それって明らかにお返し目当てでしょ!
にしてもイケメンも大変。義理チョコとはいえ、女は打算する生き物。ホワイトデーの予算忽那さんは毎年いくら計上しているのって感じ。
「って、真野さんどこよ? あ。あんなところに」
真野さんはさっそくもらった試供品を配りに行ったらしい。仕事が早いというかなんというか。
わたしはつい成り行きを見守ってしまう。
仕事しろって? いいじゃない。気になるんだって。
一方の忽那さんはようやく女子社員のチョコレート攻撃から解放されてこちらへとやってきた。
「忽那さん。ちょっと早いですけど、プレゼントでーす」
小湊さんがちゃっかり試供品を忽那さんに差し出した。言外に「お返しよろしくおねがいしまーす」って言葉がにじみ出ているような愛想のよさ。
「え、ああ。ありがとう」
忽那さんが試供品チョコレートを受け取ったとき真野さんが戻ってきた。
忽那さんが真野さんをちらりと見る。そしてどこかそわそわとしている。
なんて分かりやすい。
「真野さんチョコ全部配っちゃったの?」
「はい。今オフィスにいる人たちに」
「真野さんも忽那さんにあげればよかったのに」
と、そこで真野さんが忽那さんが抱えているチョコレートの山に気が付く。
「よければこの袋使いますか?」
そう言って空になった紙袋を差し出そうとする真野さん。
ああ、忽那さんのテンションがめちゃくちゃに下がってしまった。
顔つきは変わらないけれど、なんか全身から悲しみのオーラが……。
「……ありがとう」
「いいえ」
真野さんは通常運転すぎるほどの通常運転で、忽那さんが内心がっかりしていることになど気づきもしていない。なんだかわたしのほうが辛くなってきた。だって、チョコレートを持って帰ってきたのはわたしなのだし。
わたしは立ち上がって忽那さんに「忽那さん、そろそろ本題に」と声を掛けた。
とりあえず用件を済ませてあなたはさっさと帰りなさい。
電話でも済むくだらない用件をパパっと済ませて打ち合わせ用の丸テーブルを立ち上がったわたしたち。忽那さんはまだ未練がましく真野さんに視線をやっている。
イケメンエリートでも恋には奥手なのね、この人。それともあれかな。昨今の流れでコンプライアンスとかセクハラとかに厳しいからなかなか手を出しづらい状況とか。
飲みの席ひとつ誘うだけでも相手によってはセクハラなんて騒がれちゃうご時世だしね。
真野さん隙が無いからな~。
忽那さんの愛が伝わったのか、それとも真野さんが単に真面目なだけなのか。わたしたちに気が付いた真野さんは律儀に立ち上がり会釈をした。
それだけで忽那さんは全身から幸せオーラを発している。
チョコレートは貰えなかったけど、最後に会釈してもらえてよかったじゃない。
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