十六、 戦場へ
1.
ワアダに近づくにつれ、人の声が耳につくようになった。
かなり離れたところまで聞こえてきた叫び声。男の怒号に女の悲鳴。子どもらは母を呼び、家畜は狂い啼いていた。
声を聞き、ヴァールと伝令の若者はますます駆ける速度を上げ、時には飛ぶようにして山道を駆け下りた。
しかしそれでも遅かったそうだ。
町は戦場と化していた。
黒いマントを羽織った男たちが村人に銃を向ける。多くの山の民らは逃げ惑い、一部、武器を持つ者は建物の陰などに身を隠しながら反撃の機会をうかがっているようだった。
それにしたって、戦力の差がありすぎる。
戦える人数こそ互角のようだが、敵が持つのは型落ちとはいえ曲がりなりにも銃器である。山奥の住人たちがいくら狩りの名人であったとしても、弓や槍では分が悪い。
「悪いが、たぶん俺は使い物にならないぞ」
ヴァールは淡々と言った。
町に着いてから、鼓動がおかしかった。厳密に言うなら、ワアダの混乱が耳に入り始めた頃からだった。人々の声が何を表しているのか検討がついていた。
ただ、その時はまだ体の異変の原因を、体力以上のことをしているせいだと思っていた。
だが足を止め、息を殺し事態を見定めている間にも、鼓動は落ち着くどころか、耳慣れぬ早さで、音で、ヴァールの精神を蝕むのだ。
「軍人の格好をしているのに、使い物にならないのか」
「だからこんな山奥にいるんだ」
男は初め呆気にとられた様子だったが、すぐに失意で塗り替えられたようで、ため息の代わりに舌打ちがもれた。しかしそれもすぐさま別の感情へと移り変わる。
「それは気の毒に」
男の言葉にヴァールはふうっと息を吐いた。
「ワアダが置かれている状況に比べたら、きっとマシなものだ」
二人はそろって民家の陰から町の様子をのぞき込んだ。
「悪いことは言いません。今すぐ娘を差し出しなさい。そうすれば無事を保証しましょう」
一人、豪奢な衣服で揃えた男が、町外れの建物に向かい声を投げた。失想者の家だった。
白々しい戯言だ。従うなよ、とヴァールは心の中で願った。
だがその建物に立てこもっている人間は、馬鹿ではなかったようだ。
「本気でそう思っている人間は、はじめから武器をちらつかせたりしない!」
ザーイムの声だ。
いつもならその後に「そーだ、そーだ!」と緊張感の欠片もない声がついてきそうなのだが。
同じことを考えたようで、ヴァールの隣りにいた若者が口を開く。
「怪我でもしているんだろうか」
「生きてはいるだろう」
でなければ襲撃者にとって価値はなくなる。
「なんにせよ、早く何とかしなければな」
ヴァールは町中にはびこる恐怖と狂気に眉をしかめた。
そうは言ったって、この状況下で自分に何ができるというのか。何もできぬと自ら認めたばかりではないか。隣りで「せめて武器があれば」と嘆く声が聞こえたが、あっても何も変わらない。銃器に慣れぬ青年と、引き金を引けない男では結果は目に見えている。
武器の代わり、ないよりはましかと思いずだ袋に詰めてきたものも、本当に使うべきか、使えるのかと踏ん切りがつかない。
動けぬヴァールを嘲笑うように、民家の屋根にカラカルが姿を見せた。
それはヴァールだけでなく、窮地にある住人たちの目にも入ったようで、守り神の登場は彼らに幾ばくかの安堵を与えた。
少しだけ、戦場特有の緊張というものが緩んだように思えた。
ヴァールは大きく息を吸い、そしてゆっくり深く吐き出した。こぶしを握り、足を鳴らし、四肢の先まで動くことを確認する。
「手伝え」
ヴァールはずだ袋の中身の一部を取り出し、残りを袋ごと青年に押しつけた。
黒ずくめの男たちがカラカルに照準を合わせるより早く、ヴァールが動く。
まずは一つ。
黒い集団の頭上目がけて、ぱんぱんに膨れた皮の袋を放り投げた。
「なんだ?」
一人の男が銃を構え、袋に当てた。命中を知らせる破裂音のあと、彼らと少し離れた地面に何かが降り注ぐ。
「……水か?」
点々と土に落ち浸みていく様子を見届け、あれは何だったのかと首を傾げる。
誰よりも早く叫んだのはザーイムだった。
「お前、本当に持っていやがったのか!? それ、
窓から身を乗り出そうとしたところに銃口を向けられ、慌て身を隠す。
ザーイムの動きに素早い反応を見せた黒ずくめたちだが、彼の言葉に動揺せずにはいられなかったようだ。
「遺却の湖と言わなかったか?」
主人とおぼしき男の命令に従っているだけの集団が瓦解し始めた。
追い打ちをかけるように、ヴァールは残りの水袋を放り投げる。青年の手も借りて、その数、十数個。
と同時にカラカルが跳んだ。
集団の上、放物線を描き落下する無数の爆弾と、神獣カラカルの美しく伸ばした肢体が重なった。
「撃て!」
「いや、撃つな!」
集団の中で二つの声が上がる。
口の閉め方が弱かったのか、そのうち幾つかの袋が袋が自然とほどけ、中から水があふれ出た。
さらなる混乱が男たちを襲う。
あるものはマントで体を覆い、あるものは仲間を押しのけ群れの外へ出ようと足掻く。あるものは錯乱し滴を打ち落とそうとしたのか、銃を乱射させた。
仲間に当たり、水袋に当たり、もう収拾がつかなくなった。
「何をしているんですか。早く何とかなさい」
親玉はやはりマントで身を守りながら、しかし、跳んだカラカルと隙を見て駆け出したヴァールたちの行方に気づき、指示の声を荒げる。
「おい、待て。何も忘れてないぞ!」
黒い男の中で声が上がった。
「なんだはったりか?!」
水を被っても何の変化も起きないとわかるとすぐに武器を構えたが、時すでに遅し。
数発の銃弾が建物の入り口付近に集中したのは、二人と一匹の姿が建物内に完全に消えた後だった。
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