十五、 悪い夢

 年季の入った木製のカウンターテーブルの上。

 ニスのツヤにも負けそうな弱々しい輝きの石を転がしながら、ビルカはうなり声を上げていた。

 テーブルに張り付くように突っ伏して、口は突き出し眉は山なりで、いかにも「不満だ!」という表情であった。

 並んで座るザーイムは困り果てて、ため息をつくばかり。

 ヴァールと何かあったということは言葉の端々から察知できるのだが、他は全くさっぱりだ。全身泥だらけだったり、カラカル様と一緒だったり、不機嫌な顔を崩さなかったり。

 とりあえず、宿屋の主人に湯を貰い、着替えさせる。その間にも何か喋ったかと思えば、口にした言葉は「ヴァールのばかもん」だけ。事情はわからないままで手立てはない。こちらから聞き出そうにも、そもそもどこから問うべきかと頭を悩ませた。

 考えあぐね、頬杖をつき見守ること数十分。

 動きもなく、機嫌が回復する兆しも見えず、そろそろしびれを切らしそうになった頃だった。

「ご飯だよ」

 重苦しい空気を払拭せんと、宿の主人が明るい声で食事を運んだ。ビルカの好みのものを、と思案して、味つけは中央風――もといヴァール流にならったようだ。

 食欲を刺激する、煮込んだ肉と野菜の匂いに、ビルカの顔のこわばりも少しはほぐれてくれるかと期待したが。

「うまい。が、ちがう」

 一口食べたビルカの顔がいっそう険しくなった。

「ヴァールの作ったごはんが食べたいぞ。しかしワタシは怒っているから、今はヴァールの作ったものは食べられん。だから、ちがうがこっちのウマイものを食うのだ。……だが」

 納得いかない様子ではあるが、目の前の逸品も捨てがたいようで、険しい顔つきのまま肉やら野菜やらを口の中へとかき込んだ。

 口をいっぱいにしては、怒りをぶつけるかのようにむしゃむしゃと咀嚼して、それを飲み込んでは、「ヴァールのばかもん」と呟く。もともと怒っていた原因にぶつけたのか、それとも食べ物の恨み故なのか。顔を見合わせ苦笑するしかないザーイムと宿屋の主人には知る由もなかった。

「ヴァールのばかもん」に含まれる怒気が薄れると、タイミングを計ったかのようにベルの音が響いた。宿の入り口、来客を告げるやや耳うるさい鐘の音だった。

「追憶の石のピエトラ記憶を見ることができる娘に会いに来たのですが」

 振り返ると、入り口に一人、小ぎれいな格好をした男が立っていた。旅装束といえば旅装束の類いなのだが、様々な部品が実用性より豪勢さを重視しているのが見てとれて、ザーイムは自然と眉をしかめた。

 さらに不信感を抱かせるのが、彼と離れて店の外に控えていた男たちの存在である。真っ黒なマントを羽織り、頭巾までかぶった男たち。表情も何も見えやしないが、立ち姿などから頑強な肉体の持ち主たちであることだけはわかった。

「今は食事中だよ。出直してくれよ」

 いつもより意識して低く声を発し、客を追い返そうとしたザーイムだが、グローブに描かれていた紋章を見つけて表情を変えた

 それはビルカの身元を探し集めたガラクタの中にあった、汚れたマントについていたものによく似ていた。

 だからたとえ客人が温厚そうな表情を崩さずにいようとも、ザーイムは警戒を解こうとしなかった。

「こちらも急いでいるので、できれば今すぐ会いたいのですが」

 男はザーイムの返答を待たずに店内を見渡し、そしてビルカを見つけたようだ。ザーイムに小突かれて振り返ったビルカが男と視線を合わせる。口にはスプーンをくわえたままだった。

「ひゃひはひょーひゃ?」

 理解不能な言語で尋ねる。

 あきれるザーイム。苦笑する店主。しかし男は目もくれず、ビルカに向かいゆっくり前進した。

「まず俺と話を」

「必要ありません」

 近寄る男はザーイムを制し、

「それより人払いを頼みます」

 理由も告げずに、面妖な指示を出す。

「大ごとにしたくないのです」

 ぴくりとも動かぬ気味の悪い微笑み顔で、抑揚もなく言う。彼の代わりに動いたのは、黒ずくめの男の一人。そっとめくったマントの下に、山ではお目にかかれないような銃器が隠れていた。

 ザーイムは状況を汲み、首を縦に振った。しかし客人の死角になるところで、こっそり店主に合図を送る。店主は男の指示に従うフリをして店の奥へと下がった。

 夕刻を迎え、宿屋に付属したこのパブはこれからがかき入れ時だというのに、酒も飲めぬ年頃の子どもが二人と、酒などまるで興味がないというような男が一人、距離を縮めきらずに対峙しているだけだった。

「まるで別人ですねえ」

 男はそう言いながら、腰に下げた革袋を探っていた。

「ビルカを知っているのか」

「ビルカ? ここではそう呼ばれているのですか」

 鼻で笑う。

「お前にはもっと相応しい名前があるというのに。勿体ない」

 ザーイムとビルカは顔を見合わせた。いつもは何に対しても物怖じしないビルカが、何故か怯んでいるようだった。

「知っているのか」

 ザーイムは、今度はビルカに尋ねた。

 ビルカは勢いよく首を横に振る。だがやはり何かを感じとっているらしく、ザーイムの服の裾をつかんで、隠れるように身を縮めた。

「恐がらなくていい。さあ、いつものようにお前の力を見せなさい」

 男の手には、鈍く輝く追憶の石があった。

 ザーイムの陰に隠れたままのビルカ。

 男は当然のように、ザーイムによけるよううながした。答えを待つ間、後ろに控える男らがわざとらしくそれぞれの武器をちらつかせる。

「石を見るだけでいいんだな?」

 ザーイムの言葉に男は何かを言ったり、首を振ったりはしなかった。ただ肯定、否定どちらともとれるような厭な微笑みを見せるだけだった。

「どうするビルカ」

 ザーイムが問うと、ビルカは彼の陰から男と石を見た。二つの間で視線を行ったり来たりさせ、うぬぬとうなり声を上げる。男は遠ざけたいが、石には惹かれているというところか。

「さあ」

 男が不気味な笑みを浮かべながら、石を持つ手をぐいと突き出した。

 鼻先まで迫られて、ビルカの視界は石の輝きでいっぱいになる。黒く艶やかな石の表面に映る自分の顔。その顔を求めるように、ビルカはつい手を伸ばしてしまった。

 小さな手で、石を受け取る。

 この山に来てから何度も行われた行為だ。

 石を手に取り、辺りに目映い光を放出させて。そして彼女自身は、ふうわり浮かぶ心地で誰かの記憶をのぞく。

「男。鉄の棒……ドア? 女を見てる。ヤサシイ顔。カナシイ顔。長い、長い、黒い髪の女。泣きも笑いもしない女。……何だ? この模様見たことがあるぞ」

「ビルカ?」

 ビルカは自分が見ている景色を、次々に表していく。

 一つ言葉が増える度、彼女の声は張りを失い、やがて弱々しく、かすかな震えを帯びるようになった。

 ザーイムが冷静でいられなくなるほどに、ビルカの変化は異様なものだった。顔からは血の気が失せ、見開いた目は現実を見ていない。キョロキョロと動いては、石が見せる誰かの記憶の中を彷徨っているようだった。

 そんなビルカの姿を目の当たりにして、男の口の端は頬に深く埋まってしまうのではないかと思うほどに、ぐいと上がり、化け物のような形相になった。

「本当にお前なのですね。しかし全て忘れてしまったようだ。石の読み方も」

 男はビルカから石を取り上げた。

 抵抗する様子はない。石を取り上げられてもなお、ビルカは石が見せた景色に囚われているようだった。

 ぶつぶつと、見たものを何度も繰り返し呟いて、さらにその先を眺めようとしていた。

「そう。お前は全てを見られるのです。思い出させてあげましょう。石を読む時はこうするのです」

 ビルカのあごをつかみ、両頬をぐいと押して口を開かせた。小さな唇に、そっと石を当てる。それだけでは足りないと、男は容赦なく石をビルカの口腔へと押し込んだ。

 ガチリと歯に当たり、ビルカは我に返る。この世のものとは思えぬ男の顔つきやその手に込められた力の強さに恐怖を覚え、反射的に口の中の異物を吐き出そうとするが、男はそれを許さなかった。

 ザーイムが助けに入ろうとしても、黒マントの男たちに捕まり、ビルカのもとへたどり着くこともかなわない。

「さあ飲みなさい! 思い出しなさい! お前の力はこう使うのでしょう?」

 大きく骨張った指でビルカの口を押さえ、溜飲をうながした。否、強制した。丁寧な口調とは裏腹に男の顔は攻撃性に充ち満ちていた。

 ビルカが目尻を濡らしても、ザーイムが割り入ろうと暴れても、男は手の力を抜こうとはしなかった。

 やがて、ビルカの喉を大きな塊が流れていくのが見えた。

 男はビルカを解放し、懐から取り出した布きれで丹念に手を拭った。

 そして言う。

「教えておくれ。今、お前が何を見ているのかを」

 男の下卑た微笑みが合図だったのか。

 彼の言葉に応えるように、ビルカの全身が目映い光に包まれた。それはまるで、大地を照らす日の光のように、強く鋭い光の塊だった。


 光がおさまると、少女は一筋の涙をこぼした。

 その涙を拭い取り男は笑う。

「思い出しましたか、アマルティア。そう。お前は『罪』アマルティアという名の、人の記憶を食らう化け物なのです」

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