十三、 ブリキの眼鏡ケース
1.
ビルカが抱いて眠るのは、ヴァールがかつて大切な人たちから貰ったものだと、今一度言った。
ヴァールはもう必要ないはずの、出撃用の眼鏡だった。何に対しての未練で手もとに残したのか。自分でも知らぬうちに仕舞い込んでいたのに、そんな物をビルカは必然であるかのように掘り出して、目の前へと突き出す。
眼鏡と、ケースに刻まれた幾つかのサイン。
かつて見た夢と、忘れ得ぬ後悔。
その現実が戻るだけでなく、あの時のあのままの感情に引き戻される。怒りと絶望と……あとはいったい、何があっただろう。
「俺は今、どんな顔をしている」
カムラは言葉に詰まっているようだった。だがその沈黙が充分な答えになっていた。
「ひどい顔だろ」
ヴァールは鼻で笑った。
カムラはやはり返事に困り、ただヴァールを見つめていた。優しい娘だ。きっとヴァールの今の心持ちだけでなく、英雄の心持ちも特別講師の心情も、処刑人となった男の胸の内も全て全て、まるで己のことのように感じ取っただろう。
だからこその沈黙にヴァールは安堵していた。これならば願いを託せると。
「俺が――湖にすがる者がどんな顔をしていたか、こいつに教えてやってくれないか」
そう言って、ヴァールはビルカが大事そうに握っていたブリキ缶を奪い取った。
ビルカに伝えれば、記憶を取り戻したいなんて馬鹿なことは言わなくなると思った。
しかしカムラから返ってきた言葉は予想外のものだった。
「できません」
カムラの口から発せられたには、あまりに力強く堂々とした一言だった。
「私にはできません。きっとヴァール様にしかできません。一緒に悲しむことはできるでしょうが、同じように苦しむことはできませんから。……それではビルカちゃんには伝えられないのだと思います」
言っているうちに、次第にカムラらしい表情へと変わっていった。キリッと凜々しく見えていた眉尻もいつもの角度におさまって、そして小さめの唇は今しがた発したばかりの言葉をさっそく訂正しにかかっている。
カムラが必死に取り繕うとしてもヴァールは聞かなかった。気分を害したわけではない。少しして、自然と口から「そうかもしれないな」とこぼれるくらい、何故だかカムラの言葉はすとんと胸におさまっていたのだ。
カムラの言葉を引き金にしたかのように、ヴァールの心には、湖と向き合った瞬間の感情が溢れ出していた。何もかもを捨て湖に入ることを選んだ者がどんな景色を見たのか、それはカムラにはわかり得ないことなのだ。あの一歩を味わった者でなければわからないのだ。
できるだけ傷つけぬよう、カムラの手を借りようとしたが、これだけは自分の手でなさねばならぬようだ。
「大丈夫です。そのあとの対処はお手伝いしますから」
カムラがどんと胸をたたく。勢いがつきすぎたようで自らの打撃に軽くむせた。
「信用していいか?」
ヴァールは吐息をこぼすように笑った。
「ええ。それはもう、大船に乗ったつもりでいらして――」
「山の民に船がうんぬんと言われてもな」
「え? あ、それは、その……」
「やはり不安だな」
わざと意地悪な口調で言ってみせた。
「ですが大丈夫です。きっと、きっと。絵物語でしか船は見たことがありませんが……だ、大丈夫です」
いじめすぎたか。
どんどんカムラが萎縮していくので、ここが潮時かと、ヴァールは「すまん」と言いながらカムラの頭に手を置いた。しかしカムラが顔を赤くして取り乱したので、もう一度詫びて手を離した。
何とか平常心を取り戻そうとするカムラ。火照る頬をやヴァールに触れられた頭などを押さえたりしながら、なんとかヴァールを見ないようにしていたが結果は芳しくなかったようだ。
無理矢理切り替えようと咳払いを一つ。そして思い出したようにこう言った。
「実は私からビルカちゃんに伝えられない理由がもう一つあるんです」
ヴァールが眉をしかめたのを見届けて次の言葉につなげた。
「ヴァール様の思惑とは真逆の結果へと導いてしまいそうでしたので。だって――」
「なんだ」
「だって、ヴァール様がどんな眼をしてお話しして下さったか、私は見なかったことにはできませんから」
「どんな眼か?」
ヴァールは窓ガラスに映った己の姿を目で追った。しかし歪んだ粗末なガラスには、カムラの言葉の意味を知らせるような像は映らない。
「俺の目が、どうしたって言うんだ」
どうせ死んだ魚のような目をしているに決まっている。それならば、惨めさを伝えるにぴったりではないか。
だがカムラは首を横に振った。
「うまくは言えません。うまくは言えませんが」
答えにたどり着けないヴァールに優しい眼差しを向けるカムラ。そっと両手をのばし、ヴァールの顔に触れた。
「忘れないで下さい。ここに来たばかりのお顔も、毎日のお顔も、ここ数日のお顔も、今のお顔も、私はどれも大好きです」
カムラの温もりがヴァールの両頬を包んだ。
「あ、ああ」
こんな時は、なんと言えばいい?
かつての自分なら、撃墜王ならうまく対処できただろうかなどと考えながら、ヴァールはカムラの手に手を重ねた。
自分の中では、それは一瞬の出来事であったように思っていたのだが、実際はずっと長い時間だったのか、目の前でカムラの顔色が変わっていった。跳躍の前のためのように真っ青になり、そして次の瞬間には一気に耳まで紅潮した。
ヴァールの手のひらの下から、カムラの細い指がするりと抜けた。
「あの、その、これはその。と、とにかく申し訳ありません。私ったら、どうしてこんな大胆なことを……。この場の空気が私を……」
「いや、別に気にしなくとも」
「いえいえいえ! あのようなことを言うなんて。この手でヴァール様のお顔に触れるなんて……なんてはしたない」
「構わないと言っている」
「構わないはずがありません。どうにかしてお詫びいたしませんと、私の気が済みません!」
「本当に問題ない。それよりそんなに大きな声を出していたら」
ヴァールの言葉でようやく気づいたカムラ。彼女がはっと声を上げるより先に、少女のうめき声が部屋に響いた。
二人の視線はベッドの上へと向けられる。そっと見遣れば、うめき声に続いてビルカの体が動いた。右へ左へ体をよじらせ、しかしどこかおさまりが悪いといった風で、しまいには器用に頭と足の位置を逆転させた。
毛布をくぐって頭を突き出し、再び身じろぐ。ボサボサの頭をわずかに持ち上げたかと思うと、そこで何かに気づいたようにぱっちりと目を開けた。
「ふあわ?」
「あ、ああ……」
言葉にならない少女たちの声。寝ぼけ眼のビルカの前で、カムラは大きく肩を落とした。
「ゆっくり眠らせてあげたかったんですけどね」
自身の願いを打ち破ったのが他ならぬ自分であるという事実が重くのしかかったようだ。それに加えて、
「説明の仕方を考える間もなかったですね。…………というか、私のせいですね」
いっそう落ち込んだ。
「いや、いいんだ」
ヴァールは自分でも驚くほどに自然に、そして間髪入れずにカムラの肩を軽く叩いた。
ビルカにいかにして事情を説明するか。そんなことをつい数日前にも悩んだ。その時はカムラに丸投げして、ただ早く終わらせてくれと願っていただけだった。
「おい、ビルカ」
そうだ。初めから自分で声をかけていれば良かったのだ。人が記憶を捨てる理由を最初に説いていれば、深みにはまらずに済んだのだ。忘れられずとも遠ざけていた過去と、こうして向き合うことは避けられたのだ。
隣りでカムラが心配そうな表情を浮かべている。しかし数日前とは違う。どうやって助け船をだすかとタイミングを計るのではなく、ヴァールの決心を見守ろうとしていた。
ヴァールはカムラに向けて一つ頷いてから、真っ直ぐにビルカと向き合った。
目覚めたばかりというのに、見るものを怯ませるほどの力強い眼差しで、ヴァールの呼び声に応える。
ヴァールは目をそらさずに、静かに脈打つ鼓動を一つ、二つ数えて、それからそっと口を開いた。
「
そしてこれで終わりにしよう。ヴァールは心の中でそうつけ足した。
どんな顔で、その一言を告げただろう。二人の少女が己の言葉に、己の顔にどんな反応を示したのか。ヴァールは確かめられないまま、上着と煙草ケースを手に取った。
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