3.
「クジラを知っているか」
おもむろにヴァールは言った。
一瞬、戸惑ったような様子を見せたカムラだが、すぐにその姿が頭に浮かんだようで、ぽんと手を打った。
「あのクジラですか? 本物を見たことはありませんが、知っていますよ。たまあに、この山の上を飛んでいたと聞きましたが、私が生まれる二、三年前くらいからぱったり姿を見せなくなったそうです。そのクジラが何か?」
一度は見てみたいのですがなどと、あまりに楽しそうに喋るので、ヴァールは二の句を継ぐのをためらった。
最適な言葉を選ぶことができず、答えを待ちわびるカムラの前で黙り込んだ。
何か言おうと口を開いて、しかしまるで声を奪われたかのように何も言えなくなって。そんなことを繰り返してようやく一言を絞り出す。
「少し」
「はい」
カムラはいっそう優しい笑みを見せる。
「昔の話をしても、構わないか」
ようやく吐き出した言葉は、つい先ほど発したものとよく似ていた。ほとんど変わらなかった。
情けなくなる。
いい加減しびれを切らしたか、あきれたかとカムラの様子をうかがうが、彼女は笑顔のままだった。母親のような穏やかさでヴァールを見守っていた。
それでヴァールは腹をくくった。
「俺は、帝国軍の戦闘機乗りだった。それはそれは優秀な乗り手で、人類がクジラにたどり着くことがあるのなら、それはまず俺だろうと言われるほどだった」
言いながら、これではただの自慢話ではないかと気恥ずかしくなった。どういうのが正しいか。何から話すべきか。何を話すべきか。どこまでさらけ出せば伝わるか。
組み立てようとするヴァールの意志など無視して、記憶は次々にあふれ出てくる。大事なものも。そうでないものも。
ヴァールはそれらに従った。順序すらでたらめのまま、思い浮かぶままに己の記憶を吐き出した。
軍のこと。
ベスティエと呼ばれる、
ともにクジラを目指した仲間、悪友があったこと。
彼らからの贈り物。
英雄と呼ばれた日と、束の間の休養と、その後に訪れた、あの悪夢。
全て、全てをカムラにぶつけた。
「ある日の出撃で怪我をしてな。しばらく前線を離れていた。時間が有り余っていたから、友人から打診されていた士官学校の特別講義というのを引き受けた」
「まあ、ヴァール先生ですね」
ヴァールの声のトーンとは不似合いな笑顔でカムラの合いの手が入る。その声のおかげで、思い出に飲み込まれずに済んでいたかもしれない。
「皆、俺の話に夢中だった。中にはその講義がきっかけで空戦部隊に志願する者もいた。そのうちの何人かと親しくなった。古い友人と、その士官候補生たちと、集まってはベスティエやクジラについて語った」
ヴァールはそこまで言ってから、ビルカが抱きしめているブリキの眼鏡ケースへと視線を転じた。カムラもならってそちらを見つめる。
「あの出撃用の眼鏡も、候補生たちにもらったものだ。少ない給料から金を出し合って――それでも足りず俺の友人まで巻き込んで『自分たちの贈ったものが、撃墜王とともにクジラにたどり着けるなら』と」
「その方たちにとって、ヴァール様は希望だったのですね」
「ああ」
否定はしなかった。
「国を守ること。誰もたどり着けぬと言われているクジラを目指すこと。俺はあいつらの望みを、夢を叶えるのに充分な力を持っていた。だが」
ヴァールは一度黙った。
久しぶりにたくさん喋ったせいか、喉が疲れ始めていた。飲み物を含んでみてもこわばりは解消されず。これを理由に、この先のことに触れるのをやめてしまおうかと弱気になった。
だが記憶はそれを許さなかった。
つい昨日のことのように、五感によみがえる。
自分は彼らの望みを、夢を叶える力を持っていた。しかし、彼らを救う力は持ち合わせていなかった。
それどころか、自らの手で彼らの命を奪う羽目になった。
「……どういう、ことでしょう」
カムラが緊張した様子で尋ねる。
「言葉のままだ。俺があいつらを、この手で殺した」
ヴァールは己の手のひらを見つめた。
そこに過去が重なる。
赤い色が湧き、手のひらからあふれ、指と指の間からもれて滴り落ちた。
「ヴァール様?」
カムラが呼びかける。
だがその声はヴァールには届かなかった。
ヴァールの前にはまったく別の声が響いていた。
「ヴァール……中尉! ヴァール=ハイムヴェー中尉!!」
ヴァールはあの日の景色の中に迷い込んでいた。
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